第8話 名を付けてはならない世界に呼ばれし者。

 ぞっとした。

 気付けなかった。既に男はシュルツの真横に現れていたのだった。しかもシュルツが魔術の制御式を破壊した右腕を握り潰すように掴んでいる。


「恩寵? 確かにお前を殺す為に女神が与えてくれたのかもしれませんね。そうでしょう? 『黒魔術師』」


 シュルツは確信をもって男を黒魔術師と言い切った。同時にその手を振りほどこうと腕に力を入れたのだが、空間に固定されてしまったように指先一つ動かすことが出来ない。ならば、先程の力を使って黒魔術師の体ごと砕いてしまえばいい。

 シュルツは掴まれている右腕に『力』の発生を意識して、それを黒魔術師に叩き込もうとした。が、逆に黒魔術師の力に抑え込まれてしまう。


「人形よ。お前の言う『黒魔術師』なる呼称は邪霊が使うものだ。そうか、そうなのだな! 貴様は邪霊の兵器。これで、ようやく俺も楽しめるというものだ。邪霊の兵器がどの段階までの『恩寵』を扱えるか、力比べをしてやろう」


 シュルツの右手に生じてきた力―――恩寵に合わせるようにして、黒魔術師が放つ恩寵も同じく展開されていく。シュルツの赤き光と黒魔術師の黒き恩寵が互いに力をぶつけ合いながら、その余波で周囲の空間がひび割れる。そのひび割れる度に衝撃波が発生し周囲の地形を破砕する。相手の恩寵を全て飲み込んだ者こそが勝者であり、撃ち負けた者はこの世界から滅失するだけ。

 彼らを包む空間に生じた亀裂が、次第に大きく深くなり周囲の岩も地面も上空の大気さえもが削り取られている。このまま力の鍔迫り合いが続くものとばかり思われたが、その均衡が一気に傾いた。余裕のある黒魔術師が人形を評する。


「ふはははっ! いいぞ、実にいい。邪霊どももなりふり構わずというわけだ。予想だにしなかったが、邪霊どもは来訪者の血肉を人形おまえの脳か心臓に結合させているのだろう? ますます人形おまえの制作者に興味が湧いてきた。ふむ? どうした? 人形。力が軽いぞ」


 シュルツの赤き力がいとも容易く砕かれてしまった。黒き恩寵がシュルツの右腕に根を張るように深い亀裂を這わせ、ついには肩口を抉った。シュルツ歯を食いしばり自らの赤き力を最大限に放出し続けるが、黒魔術師のそれが軽くシュルツを上回ってしまう。果たして黒き恩寵がシュルツの右胸に食い込み、彼の心臓に向かって一気にその黒き割れ目を深く刻んだ。


「くっ」


 黒き恩寵による浸食によってシュルツは激痛に焼かれる。魂にも届く痛みがシュルツの感覚を歪め、立っていることさえも難しい。が、それでもシュルツは黒魔術師に対して自らの赤き力を展開し続けていた。


「おいおい、この程度で壊れるのつもりか? 人形ごみであっても、もう少し踏ん張ってみろ。邪霊ごときが我らを真似ねて創った兵器なのだろう? すべての聖術師は強度の差こそあれ、恩寵を使用する。お前の存在は、聖女の御心を穢す罪そのものだ。お前を製作者の前に引き摺り、罪深き製作者を殺し続けなくてはならん。どうだ? その泣き叫ぶ苦痛をもって罪を濯ぐのだ」


 気色ばんで語る黒魔術師は恩寵の力を一気に解放した。暴状な力の現われにシュルツはどうすることもできず、為されるがままに右腕は砕け散り鮮血が噴き出す。なおも亀裂は深く浸食を続けていた。既にシュルツの胸は抉られ、シュルツ自身がいつ滅失してもおかしくない状況に立たされていた。シュルツの両足は痙攣を繰り返し、立っていることさえままならず膝から崩れ落ちた。彼はそのまま自らの血だまりに沈むのだった。

 黒魔術師が操る恩寵はあまりにも強大で、シュルツの力など無きに等しかったのだ。

 遂には、黒魔術師の恩寵はシュルツの胸の深奥を見つけ出してしまう。

 その核心となっている石。その石に黒魔術師の黒き恩寵が触れてしまった。その途端に、これまで味わったことない激痛がシュルツの体と魂を貫ぬき、シュルツの絶叫が谷底に響き渡った。


◇◆



―――警告。

―――対象物の異常行動確率が危険域を越えてなおも増大中。

―――八核オクタ・コアの最大出力稼働を開始、及び再封印措置を強制執行する。


 閉ざされた部屋に設置されていた魔動器がけたたましく警告音を鳴らし、それまで眠っていた幾多の魔動器が次々に目覚め始めた。石床に描かれた領域魔法陣が光を取り戻し、静かにその魔法の効果を準備し始める。


 その封印魔動器類の起動を知ってか知らでか、一人の農作業用魔動人形が風の凪いだ空を見上げていた。


「風が止んだか。んだら、そろそろ頃合いってことだべな。シュルツ、お前の覚悟が本物だと示す時が来たべ」



◇◆


 死の気配がシュルツの視界を埋め尽くしていた。周囲の景色が漆黒に塗り潰されていく。彼は緩慢になっていく体を何とか動かそうと必至に四肢に力を入れたが、ぴくりとも動かない。何度も、動け! と叱責する感情だけが空回りし、熱さを帯びた血しぶきだけが地面を濡らしていく。

 シュルツは動かない自分の体を見下ろし、気付いた。自分を縛る存在を。その多重に封印している鎖を。


 それを認識した瞬間、世界が動きを止めた。


 黒魔術師もその沸き立つ戦場も色彩の抜けた世界の中に停滞し、自分だけがその先に向かって動こうとしている。しかし、シュルツを縛り続けている鎖。それが彼をその場に押し留めていた。彼を囲むように八つの光の球体から光の鎖が伸びて彼を縛っているのだ。動けずにいるシュルツの頭上の彼方、遥かな天空から押し潰されるような重圧が降り注いできた。何度も何度も打ち付けてくる圧力に光球が軋む。ただシュルツだけが、それが自分を手招いているように思えてならなかった。彼は手を伸ばそうと天上に意識を向けたときーーー、

 シュルツは眩い白き光に包まれ、視界の一切が白に塗り潰された。その痛みを覚えるほどの輝きに目が慣れた頃には、


 シュルツは『名を付けてはならない世界』にいた。


 そこは遠浅の大地が無限に広がり、空は黄金色に燃え上がっている世界。それ以外の事物は何もなく、地平線だけが天と地を分け隔てているだけ。黒魔術師の存在も現在は全く感じられなかった。

 シュルツはそんな世界に、八柱から出でる光の鎖に縛られたまま一人立っていた。


『‥‥‥』


 誰かが自分を呼んでいる。その気配がした方向に何とか振り向くと景色ががらりと一変した。今までは何もなかった場所に白い尖塔が忽然と現れ、その尖塔の先がはあまりにも高く霞んで見えない。ただ、幾筋の赤い線が上方から下方に垂れているのが分かった。


 ―――あれは?


 複数の赤い線。それは塔の表面をなぞるように流れ落ちる赤い液体。まるで血を想起させるようなそれがシュルツの足元の遠浅の湖面を満たしていた。


 ―――っ!


 先程の恩寵による激痛と同じ痛みがシュルツの全身を貫く。魂を焼き切るほどの痛みのなかで本能に囁く『声』があった。『この世界を滅せよ』と。胸の深奥から激流となって溢れてくるそれは、シュルツの全身を満たしていく。このまま魂までも包み込もうとする『声』に抗おうとしても、強烈な痛みに意識が遠のいていた。その『声』に飲み込まれようとしたとき、八つの戒めを持つ光の鎖が低く唸り声を上げたのだ。その八珠から新たに生じた鎖の鉤爪がシュルツに突き刺さり、何重にも拘束していくのだ。しかし、八珠の外に潜みし闇から赤い樹形が形成され、拘束を砕こうと突き刺さってくる。鎖ごと引き千切られようしたところで力が拮抗した。だが、その最中にも激痛がシュルツの魂を焼き続けている。

 そんな彼を見ている者があった。


 ―――誰だ?


 何者かがシュルツの頭に直接に話しかける。


『異界の根にして枝葉よ。逢えたことを喜ばしく思う』


 その語りかける言葉はシュルツを蝕み続けていた『声』とは全くの別もの。『声』ですら届き得ないもっとも異質の存在だとシュルツは直感した。


 ―――異界、根、枝葉? 何を言っているんだ?


 シュルツは止めどなく押し寄せる痛みに堪えて『言葉を発する者』を探した。朧気ながらに見えたのは一人の青年の姿。


『君に在るのは連樹子。枯れ行く世界からの贈り物』


 ―――何者なのです? 僕を知っているのか?


『君は君の世界の飢えそのもの。その飢えを満たすため、この世界は捧げられた』


 青年は八珠を浸食する力に手をかざした。すると、シュルツの神経を切り裂く激痛が和らいでいくのが分かった。


 ―――『声』による痛みを消してくれたのか? でも、なぜ?


『私は君の世界を祝福しよう。そして、君以外の6つの‥‥‥喰い尽くせ』


 八珠によって遮断された赤い樹形の力に代わって、青年から紅き光がシュルツに注がれ彼を満たしていく。



 それは刹那の時間。

 再び、シュルツは世界に目覚めたのだった。


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