第9話




彼女が私の手の内に収められたのは、着物をはじめて約2年後ぐらいのことだっただろうか。


あれもハロウィンだった。

まあ正確にはハロウィーンシーズンのイベント。


私は軽い和洋折衷のファッションでハンドメイド関連のイベント、猫のフェスティバルへと赴いた。それも浅草だ。そしてその日、私はこの週末にイベントに行く予定があると言ったがいつもどおりの彼女に夕御飯だけでも一緒にということで予定を合わせて夕方落ちあうことにしていた。私がイベントに行くときは和装することが多いので彼女もきものが着られるとはしゃいでいた。


浅草から、スカイツリーまで。


それで向かってみると、彼女はこの子を着ていた。

だけどどうやら久しぶりに着たせいで、待ち合わせ場所に来るまでに動いた拍子に一部を破いてしまい困っていた。実は古い着物というものは屈んだりしゃがんだりすると引っ張られてビッといってしまうことがある。


それで私はショールを渡して安全ピンか何かでなんとかしたらどうだと聞いたがもういいあとはずっと座って立つときだけこれで隠すもう捨てるとしょんぼりしている。だが、見ればそれは綺麗なきものだった。破れと言うところも生地の部分ではなく縫い目の縦線。十センチほどだ。捨てるくらいならいつも通りおさがりでくれればいい。元々ワインレッド系を良く着る自分にはそういうのも好きな方だ。まあこの前、というか先週も先々週も似たようなのをもらったばかりだが。


そうやって話ながら来歴を聞いてみると付喪神だった。なんでもお下がりもお下がりも相当お下がりで古くて何度も捨てようかと思ったが、そう思って桐たんすから出してみるとどうしてもこれだけ段違いに温かい、どうしても捨てられない。撫でるように触れるときらめく模様も立体的で、光沢は日の当たり具合によって部分的に虹色にも、漆黒にも見える。捨てようと思うたびに、触れるとああだめだというあたたかさによって着る機会はないけれど大事にしてきたと彼女は言っていた。そしてハロウィーンの照明がとりどりな夜道の元でも私の目にもそのきらめきが見えている。だから少し破けたぐらいで捨てるのは惜しいとまず思ったんだ。


君は自分の子供をここまでこんな風にある意味信心深く育てたようなものなのにそんな風なのが一目瞭然かつ君自身実感しているというのにそれを捨てるというのか。捨てるくらいなら寄越しなさいと何度も言いくるめた。だいたいのことは言うことを聞くこどもなのにほつれを手直しするのが面倒だったのか結構ごねられたけど言いくるめた。そう、このとおりの言葉でだ。私は最初に言った自我が出来上がってきたころから彼女のことは君と呼んでいて、それまでも2歳ぐらいからものごころついて話し出したときからママともおかあさんとも呼ばせてくれなくてこの困ったちゃんは私にあだ名でKちゃんと呼ぶように人生中ずっと求めて来たのでそうしてあげていたがまたそれも別の話だ。


今となってはだいたいのことは言われた通りにするあの子は、最終的には私がその着物は別にそのままでもいいし、私なら布用ボンドで止めるか安全ピンかホチキスでもいいけどなと言ったら、彼女の中にも譲れない一線というものはあったらしい、絹の着物にホチキスなどという行為が受け入れられなかったのかかなり丁寧に直してから綺麗にしてから奉納してきた。私に。いい子だ。やれば出来る子。



実際実は私は手芸は得意だが縫物はあまり好きではないので大抵のことは安全ピンで済ましている。


それを渡される際、いつも丸文字の彼女にしてはとても筆跡の違うように頑張って書いてある丁寧な手紙まで添えられていたが、そのストーリーは本編に取っておこう。



たぶん言いくるめロールにこの付喪神ちゃんの幸運も上乗せされたことだろう。

あげてだめならおとす。ほめそやしても肯定しても受け入れても駄目ならそうする。私の賢い言動や助言、警告と言うものは誰相手でもことごとく無視されるか理解が及ばないどころか否定される傾向にある。そんなときどうすればいいか、経験則で言うならばそれはひたすらにIQを下げて馬鹿に馬鹿なことを馬鹿っぽく無力なアピールをしながら話し続けるということだけだ。とにかくハードルを下げる。くだらなくする。陳腐化する。


それはもう幼稚園から職場まで、本当に全てでそうだった。何を言っているのかわからないとか宇宙人としゃべっているようだとまでいってくる人間もいたが私が宇宙人だとしたらおまえはアメーバかといいたくなることもまあまああった。だが大抵の良識のある人間は目の前にいる人間を宇宙人呼ばわりはしない。だから、その代わりにどんなに好かれようと嫌われようと全員から呼ばれ続けて来た名称が、「天才」と「神」だ。


まあもう、今となってはクルーシュスチャを解いたのだから外宇宙の神で宇宙人でも全然いいんだが。むしろニャルラトテップの化身というステータスはクトゥルフ神話世界のコンテンツの下地のある、あの世界を楽しめている人間になら通じる新しい名称だろう。だからおおいに楽しんで活用させてもらっている。


もう変人であることは個性であり誉め言葉で、自己紹介に使うレベルだ。天才ですと初対面で名乗るのは気が引けるが変人ですとか変態ですと名乗っても別に笑えるからいいだろう。そうしてきた。ネタが通じる相手にならこれからも最近ニャルラトテップになったんですよと言っても別にかまわない。どれも嘘ではない。ただ、初対面で私は神ですと宣言したら結構すべりそうなので、IQの下げ方や上げ方は本当に相手に会わせなければならないから大変だ。


いまだにどんな会話でも気を抜いて素で話すと、「言っていることはわからなくはないのだけど何を言っているのか全然わからない」という旨の返答が誰からでも返ってくる。ネガティブにもポジティブにも、どんな言い方でもこれだけが返ってき続ける人生だった。


誰からでもというのは、知人や友人や家族の話だけではなくタクシーの運転手や見ず知らずのネット上の相手や数年働いた場所の同僚や上司や獣医や窓口相手、電話口相手全般からこの台詞が普通に日常会話の節々に返ってくる。異口同音の現実的な蓄積データはもう3桁をとっくに回っていて、むしろこれを私相手に言わずにいてくれる人間が存在しない。


代々受け継がれてきた絹の着物にホチキスなんておかしいことくらいわかってる。ただ出先で服が破れたときの現実的な対応手段やコスプレ衣装などはそうだし、別に私はその10㎝程度の破けなど最初から議題に上げてはいない。捨てるなら寄越せ。それだけを言い続けていた。私がまず、彼女に何かが欲しいと言ったこと自体が人生で両手に数えられる程度しかまじでないにも関わらず察しがわるいことというかまあこどもに察しろなどと要求すること自体が無意味。結論と結果がすべてだ。


そう、これが返ってきた場合。

もしくは話が通じないなと、主旨が理解されていないと感じ取れた場合。


通じる言葉を話すしかない。

何ならわかる。どんな要素がおまえに効く。

届く言葉、受け入れられる言葉。

それは大抵相手の頭の中にある辞書にある分だけだ。



だから私は結果的に、人の言葉やコンテンツから引用したり共通認識の下地として使うことが多い。私の言葉そのままで話せないのならば、ラジオに話してもらえばいい。私はカオナシのようなバケモノかもしれないが、バンブルビーにだってなれる。今はとても良い時代だ。どんなコンテンツでも広く深くいつでも知れる。簡単に手に入って楽しめる。




そうしてどんな形で、どんな手段ででも私の意思をその脳に届かせてみせる。

そうして自分の望む結果を手に入れる。それが私のしてきたことで、これからもすることだ。




これをもし、思考誘導などと呼ぶとしたらそれは言いすぎかもしれないな。


コミュニケーションだ。

気持・意見などを、言葉を通じて相手に伝えること。



私は生まれつき神の言葉を話すコミュ障なので、こうやってこれからもレベル上げをさせてもらおう。

ムラ社会、人間社会から外れた者たちの呼称:それが昔の、本物の妖怪たちだ。


どうかそんな私が紡ぐ物語をこれからも楽しみにしていて欲しい。



付喪神とは神であり、心であり、妖怪であって、

……その神性の正体は人間だ。



わたしのあいする彼女も、これから描く物語も、すべて人間達の物語。


ヒューマンドラマになるだろう。





stay tuned


どうかおたのしみに。




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着物と狐とあやかしの話 @NanOoo_87

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