第29話 決闘の行方

 命を懸けての決闘など、リアーヌはもちろん見たことがない。祖国やこれまでの嫁ぎ先では、式典の折などに馬上試合を観覧することもあったけれど。たとえ刃を潰した試合用の槍や剣でも、金属がぶつかり合う鋭い音は怖くてならなかったし、怪我をする選手も見てきたというのに。ろくな防具もなく、足場も悪く、敵に囲まれたこんな状況で、夫が真剣勝負に臨むのを見なければならないなんて。この場には公平な立会人さえいないというのに。


「手を出すなよ。私の手でこやつをくださねば意味がないのだ」


 ロランはそんなことを命じ、兵たちも無言で従う構えを見せるけれど、信用できるものではない。アロイスが敗れれば命が危ないのはもちろんのこと、仮に彼が優勢になったとしても、兵たちは主のために動き出すのではないだろうか。だから、どう転んでもアロイスが無事に済む未来など見えないのだ。


(誰か……早く来てくれれば……!)


 手を胸の前で組み合わせて、リアーヌは祈り、懸命に耳を澄ませる。兵たちの息遣いや彼女自身の心臓の音だけではなくて、馬の蹄が下生えを踏む音が聞こえないかどうか。アロイスだって、何の指針も示さずに飛び出したはずはない。シェルファレーズの兵たちも、大公をひとりで敵地に向かわせて平気なはずがない。今この瞬間にも、救援が現れてもおかしくないはずなのに──なのに、何も起きない。

 アロイスとロランは、剣を掲げて目礼を交わす。多少は拓けた場所とはいえ、整地された試合場のようにはいかないだろうに。足元さえ見なければ、観客の歓声が聞こえないのが不思議なほどに優雅で美しい騎手ふたりだった。それだけ、彼らの馬術が優れているということなのかもしれないけれど、でも、そんなことはリアーヌに何の慰めももたらさない。


「いざ──」


 呟いたのがどちらの男かさえ分からないほど、リアーヌの神経は張り詰めていた。二頭の馬が動く空気の動きが風となって頬を撫で、一瞬の後に剣がぶつかり合う激しい音が耳を打つ。アロイスの集中を乱すまいと、リアーヌは必死に悲鳴を呑み込んだ。

 一合目では、どちらの剣も相手には届かなかったようだった。馬をすれ違わせた瞬間に剣を合わせたふたりは、すぐさま馬首を巡らせて次の突撃に備えて身構える。再び剣戟が響いた後も、やはりいずれの騎手も馬上に姿勢を保っていた。


「なかなかやるな……!?」

「自ら賊を狩ることもあるからな……!」

「ほざけ!」


 ロランが叫ぶとほぼ同時に、三度目に馬がすれ違い、またも高い金属音だけが響く──人も馬も、まだ無傷だ。


(アロイス様……どうか……!)


 決闘というものは、普通はそう長く続くものではないのだろう。馬上試合よりもなお、一合ごとに体力も気力も削られるものなのだろうから。いつアロイスの血が流れてしまうか、あるいはロランに加勢しようと兵たちが動き出すのか──彼女自身も気が遠くなるような極度の緊張に呼吸を乱しながら、リアーヌは指先でドレスの生地を手繰った。兵たちも決闘の行方を注視している今、彼女への拘束は緩んでいる。先ほどはアロイスが現れてくれたから、ロランの手勢はリアーヌが短剣を隠し持っていることにまだ気づいていない。非力な彼女が夫に加勢できるかもしれない、唯一の希望がその短剣だった。だから、決闘に臨んでいるふたりにも、兵たちにも気づかれないように。いつでも抜き放てるようにしておかなければ。


 リアーヌの手が短剣の柄を握った瞬間に、これまでとは異なる響きの剣戟が空気を揺らした。はっと顔を上げると、ひと振りの剣がくるくると回って宙に飛んだところだった。どちらの剣かは──悔しげな声が、教えてくれる。


「くそ……っ」


 鈍く重い音を立てて、ロランは地に落ちた。主を案じて一歩を踏み出す兵たちに、けれど彼は低く鋭く制止の命令を下す。


「まだだ、まだ手を出すな!」


 相手の落馬はアロイスにとっては好機、いまだ馬上にいる彼は手綱を繰ってロランを蹴り飛ばさせようとする──でも、ロランは間一髪で転がって馬の蹄を逃れていた。狙ってのことか偶然か、転がった先に落ちていた剣を拾って、アロイスの馬に投げつける。


「く──」

「アロイス様!」


 剣身が反射した光に目が眩んで、アロイスに剣が当たったかは一瞬見えなかった。思わず漏れたリアーヌの悲鳴に、驚いた馬のいななきと、聞いたばかりの人が落馬する鈍い音が重なる。アロイスも、馬を失ってしまったのだ。条件は同じ──ではない。先に地上に落ちていたロランの方が、体勢を整えるのが少し、早い。


「くらえっ」

「……っ」


 ロランの蹴りを、今度はアロイスが転がって避ける。でも、彼が逃げた先には剣がない。落馬の際に手放したアロイスの剣は、ロランに近いところに落ちていた。アロイスが立ち上がるまでの間に、ロランはそれを蹴り飛ばしていた。剣の煌めきは草むらに消え、徒手の男がふたり、今は地上に対峙する。目に見える範囲に落ちているのは、ロランの剣。距離は、ふたりからほぼ等しいと見える。屈んで体勢を崩して、隙を見せても武器を手にすべきかどうかの逡巡が、ふたりの目に同時に浮かぶ──そして、決断したのはロランの方が早かった。体勢を低くしながら剣に手を伸ばすロランにどう対応すべきか迷うのだろう、アロイスは一瞬だけ動きを止める。


(今しか……!)


 その一瞬の空白に、リアーヌは精一杯声を張り上げた。


「アロイス様、これを……!」


 アロイスの目が彼女に向いたのを確かめてから、短剣を鞘ごと放る。鞘にあしらわれた宝石が眩い虹の軌跡を描く。リアーヌが短剣を帯びていたのを思い出してくれたのかどうか、アロイスはみごとに柄を掴んだ。その時には、ロランが剣を掴んで跳ね起きている。


 革や木も使った短剣の鞘が、下から襲う剣身を弾く音は鈍かった。間合いの差ゆえに、それでもアロイスの髪が幾筋か断たれて宙を踊る。アロイスの手に予期せぬ武器が握られているのを見て、ロランの目が信じられないというように見開かれる。アロイスを薙ぎ払うはずの一閃が弾かれた後は、彼の懐が無防備に晒されている。体勢を変えるには、既に勢いがつきすぎている。アロイスは、腕を振り上げる動きで短剣の鞘を払っている。護身用の薄い刃でも、ロランはまともに防具を身に着けていない。布地の数枚なら、簡単に貫通することができる。


「ぐ……ぁ」


 肩口に刃を受けてよろめくロランを、さらにアロイスの肘と拳が立て続けに襲う。堪らず仰向けに倒れた敵手にアロイスはすかさず馬乗りになり、その首筋に短剣を擬す。


 決闘の勝敗は決した。でも、まだ安心することなどできはしない。


「で、殿下──」

「動かず武器を置け。主の血を無駄に流したくないのなら」


 荒い息の下で、アロイスは動揺する兵たちに短く命じた。ロランが落馬した時、既に一歩包囲を縮めていた彼らはリアーヌが恐ろしくなるほどアロイスに近付いている。呼吸を合わせて彼らが襲い掛かれば、ロランが絶命する前にアロイスを取り押さえることができてしまうのではないかと思うほど。


「や、止めて……どうか、動かないで……」


 リアーヌの声で、兵たちは躊躇いの視線を交わし合った。ロランを案じる思い、アロイスへの敵意、間近に迫っているかもしれない追手への不安。馬の方へ目を向けた者は、退路を探したのだろうか。リアーヌに対して半端に腕を上げた者は、彼女をアロイスに対する盾にしようとでも考えたのだろうか。


(逃げても良い……私はどうなっても良い……アロイス様さえ無事なら……!)


 少なくとも、ロランの計画はもう潰えたはず。主を失い、数も減らした一団にまた攫われたとしても、先ほどよりも危険はずっと低いはず。アロイスはすぐに追手を指揮して取り戻してくれるはずだ。いっそ、自ら人質になることを申し出ようと、リアーヌが息を吸った、その瞬間だった。


「大公殿下! 公妃殿下! ご無事ですか!?」


 後方の森から、声高に叫ぶ声が聞こえた。馬の嘶きや、武具が擦れる音も。リアーヌが待ち望んでいた、シェルファレーズの兵たちがやっと到着したのだ。彼女が吸った息を深く吐き出す一方で、ロランの配下たちの口からは絶望の溜息が漏れる。抵抗するにも逃げるにも、機を逸したと悟ったのだ。


「──ここだ。怪我人もいる。医術の心得がある者を、早く……!」


 最も深い傷を負っているであろうロランは、アロイスの言葉を聞いて顔を顰めた。恐らくは痛みではなく、屈辱のために。でも、彼の内心などどうでも良い。これで、またアロイスを抱き締めることができる。彼と共に、シェルファレーズの美しい城に帰ることができる。喜びと安堵が、じわじわとリアーヌの胸に湧き上がっていた。

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