第28話 対決

「この方を妃と呼ぶとは──シェルファレーズ大公本人か。弟君と似ているな……?」


 対峙する追手が何者かに気付いたのだろう、ロランは懸命に焦りを取り繕い、フェリクスに言及することでアロイスを挑発しようとしているようだった。もちろん、それでアロイスが顔色を変えるはずもないから、ロランが続ける声は一段と上擦り、激情を露わにしていく。


「そこを退くが良い……! 貴殿が一時でもこの方を得たのは間違いだったのだ。私こそ、愛する我が妃を迎えに来ただけだ。我が名は──」

「我が領を冒した賊の名を聞く必要はない」


 一方のアロイスは、ごく平静にロランの名乗りを遮った。既に予想がついているから、ではないだろう。本当に一切の興味がないとでも言いたげな、どこまでも冷たく鋭い物言いは、リアーヌが初めて聞くものだった。彼が睨んでいるのはロランだと分かっていてもなお、斬りつけるような視線に震えてしまいそうになるほどだ。

 アロイスは滑らかな動きで剣を抜き、ロランにその切っ先を突き付けた。


「すぐにその方を放せ。今さら罪が変わることはないが、だからこそ痛い思いをする必要はあるまい」


 リアーヌは、アロイスが剣を持っているところも初めて見た。昨日、弓や馬術の腕は目の当たりにしているから、流れるような乱れない剣さばきも不思議ではないし頼もしい。でも──最初の驚きと喜びが過ぎた後では気付いてしまう。アロイスも彼の馬も、激しく呼吸を乱していること。汗が彼の額から顎へと滴り、馬の体も白い泡のような汗に塗れていること。それは、彼がどうしてロランたちを追い抜くことができたかも説明しているようだった。

 ロランもリアーヌと同じことに気付いたのだろう。彼女を拘束する腕が、恐らくは安堵によって一瞬だけ緩み、抱え直すのと同時に弾むような調子の嘲笑が彼の唇から漏れる。


「……ひとりで駆けつけたということか。供も、護衛も連れずに! どうりで素早いはずだ! だた、なんと迂闊で、なんと愚かな!」


 アロイスは、たったひとりで森の中を駆けたのだ。フェリクスや、あの場にいた兵たちの証言を頼りに。シェルファレーズの地理の知識や、馬術の巧みさだけがこの素早さの理由ではない。集団では通れないような狭い場所や、リアーヌを連れた一行が避けたような難所を一息に、なりふり構わず駆け抜けたからこそアロイスは今、ここにいる。それはつまり、シェルファレーズの兵が追いつくにはもう少し時間が掛かるということだ。


(アロイス様……どうして姿を見せてしまったの……!?)


 リアーヌが恐怖に震える一方で、ロランの高らかな笑い声が響いた。


「よくもこの私を賊などと呼べたものだな? 小国とはいえ大公が、弟の裏切りによって山中で果てることになるとは! 大した笑い種になるだろう……!」

「止めてください! 私の夫です! あの方を傷つけないで……!」


 リアーヌは身体を捩って、ロランに縋るように懇願した。彼女がやっとまともに目を合わせたからだろうか、彼の黒い目が嬉しそうに細められた。けれどロランは彼女の言葉に耳を傾けた訳ではなかった。蕩けるような優しい声と微笑みで、彼は平然と残酷なことをうそぶく。


「あちらが退かぬのならば仕方ありますまい? これで貴女も諦めがつくことでしょう! 百歩譲ってシェルファレーズ大公を夫と呼ぶのを認めて差し上げたとしても、死者に貞節を尽くす必要はないのだから……!」


 リアーヌから目を上げて、ロランがアロイスを睨む。それに応じて、兵士たちが剣を構える。狭く足場も視界も悪い山中のこと、弓や槍を携えている者はいないけれど──それでも、多勢に無勢は明らかだというのに。アロイスは動じず、ただ、少しだけ眉を顰めた。


「その一言だけでもリアーヌ姫に相応しくないのが分かるな、ベルトラン公爵」

「何……!?」


 称号を言い当てられて驚いたのか、それとも言葉の内容が聞き捨てならなかったのか。静かに呟いたアロイスに、ロランは尖った声を上げた。その間も、アロイスが掲げた剣の先も彼の声も、一切ぶれない。むしろ、息を整える時間を得たことで、一層、深く静かに確かになっていくかのよう。


「リアーヌ姫が、これまでのご夫君のことでどれだけ心を痛めていたかも思い遣ることができないとは。姫の心の傷をさらに踏み躙ることを、笑いながら語れるとは。そのような男が愛などと口走るとは笑わせる……!」

「黙れ黙れ……っ」

「きゃ──」


 地団太を踏むように足をばたつかせたロランに腹を蹴られて、馬が軽くいなないて身動みじろぎした。ずり落ちそうになったリアーヌを、アロイスに見せつけるように抱き寄せて、ロランも剣を抜いた。間近に煌めく刃の鋭さにリアーヌが息を呑むのにも構わず、今度は彼がアロイスを遮って、喚く。


「貴様こそ、《黒の姫君》の評判を信じ込んでいたのだろう! 弟君からすべて聞いたぞ! 不吉な噂に怯えながら、ガルディーユの援助欲しさに身売りして、後にはこの方の美貌に目が眩んだ! この場に現れたのも金の卵を産む鶏を逃がしたくないだけだろう!」


 ロランは、フェリクスに欺かれたこともまだ気づいていない。他者を見下し嘲りながら、何ひとつ見ようとも聞こうともしていない。シェルファレーズの兵が、アロイスを追っていつ姿を見せるとも分からないのに──それでも、ひとつひとつ言われたことに反駁せずにはいられないようだった。


「私は最初から分かっていたぞ。ひとりやふたりが死んだからといってこの方の咎にするなどと馬鹿げている。悪評に惑わされずに求愛した私こそがリアーヌ姫の夫に相応しいのだ!」


 大声で森の鳥を驚かせて飛び立たせながらロランが叫ぶのは、先ほどと聞いたのと似たようなこと、思い込みや思い違いも甚だしいこと。だから、彼の声はリアーヌの耳をほとんど素通りしていた。彼女の意識が向いているのは、手が届きそうな距離にいるのにもどかしいほど遠い、アロイスだけ。その青い目を見れば、彼もロランの言葉に惑わされていないことが分かる。


(違うわ……!)

「それは、違う」


 ほら、リアーヌが心の中で叫んだことと、アロイスが強く言い切ったことが重なった。まるで心がひとつになったかのようで──ほんの少しだけ、微笑む余裕を思い出したリアーヌの耳に、愛する夫の静かな、けれど確かな宣言が届く。


「リアーヌ姫は私を愛していると言ってくださった。私との未来を望む、と。その言葉に応えるためにこそ、私は隠れている訳にはいかなかったのだ。《黒の姫君》と呼ばれた方が最後に添い遂げるのはこの私だ。どうしても異を唱えるというのなら──剣でもって押し通すしかないだろう」

「決闘の申し込みという訳か? 身の程知らずな……!」


 アロイスの言葉に、場違いにも胸が高鳴ったのも一瞬のことだった。ロランが不機嫌に唸りながら、それでもはっきりと嘲りを滲ませて呟いた理由が、リアーヌにも分かってしまう。


(正々堂々とした決闘なんて……あり得ない……)


 斜面を下った先に待ち構えていたのだから、低い位置に陣取るアロイスの方が明らかに不利だ。そうでなくても、アロイスが命を懸けて戦う状況それ自体が、耐えられそうにない恐ろしいものなのに。しかも、それ以前の問題として、そもそもロランがアロイスの挑発に乗る必要はまったくないのだ。数で勝る優位をむざむざ捨てて、一対一の決闘に応じるほどロランが愚かだとは期待できない。今は様子を窺う姿勢の兵たちも、主人の命令ひとつでアロイスに襲い掛かるのだろうに。ロランが会話に応じているのを幸いに、できるだけ引き延ばして援軍を待てば良いと思うのに。


「心配はご無用です、リアーヌ姫」


 どうしてわざわざ危険な真似をするのか、と。リアーヌの目が潤んだのが離れた場所からでも分かったのだろうか。アロイスが表情を緩めて微笑んでくれた。ロランに対する低く険しい声とは違う、いつもの優しい声が、いつものように彼女の心を解そうとしてくれる。


「手紙を見ていただけでも、この男が打算だけで動いているのではないのが分かりました。斃すべき恋敵なのだと。ならば、計算高く振る舞うことなどできますまい。数をたのんで私を葬ったとして、それで貴女の心が得られると思うはずがない……!」

「あの男……そもそも筒抜けだったのか。間抜けな者の誘いに乗ったものだったな。違う道を取ったのは正解だったか」


 ロランは、アロイスが手紙を見ていたことには気づいても、フェリクスと通じ合って策を練っていた可能性にはどうしても思い至らないらしい。近しい血縁だったはずのクロードを謀殺することができた彼には、協力し合う兄弟など想像の外なのかもしれない。そんな、何気ない言動のひとつひとつで、リアーヌのロランへの嫌悪は高まっていく。リアーヌが身体を震わせた理由にも気づかないのだろう、彼はリアーヌの腰を抱き、わざわざ耳元に唇を寄せて、アロイスに見せつけるようにしてから吐き捨てる。


「見え透いた時間稼ぎだ。だが、確かに聞き捨てならないな」


 この間、アロイスが掲げた剣は少しもぶれてはいない。でも、平静にロランに対峙しているようでいて、彼の目に怒りが燃えているのがリアーヌにはよく見えた。ロランは目線で兵たちに道を開けるように命じる。多数を相手にするのではなく、一対一の状況に持ち込んだのは、彼の策と考えて良いのだろうか。ロランの言動は、確実にアロイスを苛立たせて神経を逆撫でている。怒りによって、彼が冷静な判断をできなくなっているとしたら?


「一撃で決めてやる。最後にリアーヌ姫を勝ち取るのはこの私だ」

「アロイス様……!」


 ロランの馬から降ろされたリアーヌは、アロイスに駆け寄ろうとした。でも、許されるはずがない。ロランが命じるまでもなく、ある兵は馬を操って彼女の道をふさぎ、かつ、下馬した者がすかさず彼女の腕を捕らえる。男の力に抗えないのはもちろんのこと、ただでさえ動きづらいドレスでは、密に生えた草や枝から落ちた葉に足を取られてまともに歩くこともできなさそうだった。


「大丈夫です。貴女は二度と夫を喪うことはありません。私はそれを、証明して差し上げなければならないのです」

「そんな──」


 こんな状況だというのに、アロイスはなんと甘く嬉しいことを言ってくれるのだろう。そして、リアーヌの胸はどうして場違いに弾んでしまうのだろう。喜びと不安が同時に押し寄せて、リアーヌは何も言えなくなってしまう。こんな決闘など止めなければならないと思うのに、愛する人が剣を構え、剣を向けられるのを傍観するしかできないのだ。

 リアーヌと兵たちが息を詰めて見守る中、アロイスとロランは馬上で睨み合っていた。

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