37 聖女のキスはご褒美です

 その晩、イシュタッドに客室を案内したノアは、ルルが使っている部屋に入った。


 応接間のソファに姿が見えないと思ったら、すっかり寝る支度を調えられて、ベッドにあがっていた。


 兄から「聖王になれ」と言われたのを腹にすえかねているらしく、クッションを抱えてむくれている。

 思わず笑ってしまうと、ルルにギンと睨みつけられた。


「笑いごとではないわ。お兄様まで、わたしを聖王にしようとするなんて! しかも完全に私的な理由でよ。信じられないわ」

「イシュタッド陛下は元からそういう人間でしょう。私利私欲が強すぎるので、聖王に相応しい器ではないと思っていました」


 最古の戴冠式では、一角獣ユニコーンの王――すなわち二角獣バイコーンに選ばれた人間が聖王の座についた。


 同種のノアは、見ればその人間が聖王に相応しいかどうか、分かるようになっている。嘘を吐いたり対面だけ取りつくろってもむだだ。

 人となりは、魂に、体に、心に刻まれる。


「ルルーティカ様より聖王に相応しい方はいません」


 出会い頭から一貫して伝えてきたこの言葉は、ルルの心にどんな風に響いているのだろう。

 ベッドに腰かけて銀色の髪を撫でると、彼女は気まぐれな子猫みたいに目を細めた。


「わたしは自分のことを少しもすごいと思えないわ。お兄様ほど聡明ではないし、興味があったらすぐ出掛けていく行動力もないし、金貨を使わないと王女らしく見えないもの。お部屋のなかでは最強でも、世間的には無価値もいいところよ」

「教えて差し上げましょうか。ルルーティカ様の良いところ」


 目を閉じたノアは、研究所で人間への恨みや憎しみを募らせていた頃を思い出す。


「ルルーティカ様は、檻に捕えられていた私を助けてくださった。暴走して周りを破壊する私を止めようと立ち塞がりもした。幼い頃から優しく勇敢で、ご両親から酷い目に合わされても恨まずに、イシュタッド陛下の言いつけを守って、修道院で清らかに生きてこられた――」


 教会に押し入ったとき、壁のくぼみで丸くなっていたルルは、頭から白いベールを被ったように輝いて見えた。

 ノアが騎士学校や聖騎士団で見知った『人間』は、大なり小なり欲や見栄や嘘を塗り固めてできていたのに、小さな礼拝室にいた彼女はまっさらだった。


 余分も不足もなく満ち足りていたルルをこそ聖なると表現するなら、彼女こそ聖王に相応しいと思った。


「――カントにお連れしてからは王女としてご立派に振る舞われました。立場を得るにつれて傲慢になる人間は多いものですが、ルルーティカ様の心根はお美しいままでした。孤児や一角獣にも優しく、国を守ろうという気持ちは強く、ジュリオに対向する姿勢は勇ましく、お昼寝のために丸くなっていると愛嬌があって、一人きりで身を守ろうとする姿はいじらしく、毎晩かかさず勉強する真摯さは尊く、美味しいものを食べる表情は可愛らしく、寝顔は触れたくなるほどあどけなくて――」


 ふと目蓋を開けると、ルルは熟れたイチゴみたいに真っ赤になっていた。はわわとした表情を見るに、ここまで褒められるとは思っていなかったのだろう。


「――私がここまで夢中になった人間は、ルルーティカ様だけです」


 ノアが目を細めて笑うと、ルルは顔に両手を当てて「恥ずかしい」とベッドに倒れてしまった。


「ノア……?」

「はい」


 無言で腕を伸ばされた。覆い被さるように抱きしめると、胸元にほっと熱い息を感じた。


「ノアがそばにいてくれたら、少しは頑張れそう……。そうだわ。腕が透けてしまわないように、ちゃんと渡しておくわね」


 ルルは、手を伸ばしてたぐり寄せた巾着から金貨を一枚取り出すと、ノアの鼻先に押し当てた。


「はい。一晩、わたしを守ってくれる分の代償よ」

「ありがとうございます。守る分はこれで十分ですが、一晩気持ちを抑えるには足りないので、別のものをいただいても?」

「渡せるものならいいけど。気持ちを抑えるとは……?」


 ルルはうーんと考える。ノアは黙って、悩む様子を見つめていた。


 最古の聖王を選んだ二角獣も、こんな風に愛しさを募らせていたのだろうか。

 何も知らない相手を何も知らないまま残しておきたいと思いながら、ぐずぐずに溶けて一つになってしまいたいという渇望を抱いたことはあっただろうか。


 恐らく、清らかさとは真逆の醜穢しゅうわいさで相手を汚さないように、長い夜をどんな風にやり過ごそうか考えたのは、己だけのはずだ。


「いつか私から教えて差し上げます。一晩大人しくしているので、先にご褒美を」


 ノアが口づけると、ルルは静かに目を閉じた。

 服をぎゅうと握りしめられたので、安心させるように手を重ねる。彼女の手は熱くて、小さくて、まるで自分の心のようだとノアは思った。


 その夜のキスは、小鳥がついばむように軽く、甘い夢のように長く、長く続いたのだった。

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