浮かぶ

@0111nyo

第1話

 目前に迫る黒くて細い束のカーテンの隙間から、やわらかい光の粒が入り込んでくる。それらは暖かい温度と鮮やかな色彩を伴っていて、まるで真っ暗な世界を照らす灯籠みたいだった。街灯に吸い寄せられる羽虫のように、わたしはふらふらと視線を揺らす。明るすぎる光の前で、このままこの身が焼き尽くされてしまえばいいのにと願いながら。


◆◆◆


 はじめてあなたの姿を瞳に焼き付けたのはいつだっただろうか。いつも通り自分の影だけを見つめながら足を引き摺るようにして歩いていたら、突然に光が視界に飛び込んできてわたしの影を塵にしてしまった。迷惑な存在もあるものだと半ば不機嫌な感情を抱きながら光源を見やると、そこには、その源には、光り輝くあなたがいた。

 光っていて、透きとおっていて、脈々と血が流れている音がして、あなたはそこにあって、どくどくと音を立てながら生きていた。こんなにも満ち溢れた音が、色が、生が、この世の中にあったのだと、はじめて世界に触れたような、そんな気すらした。


◇◇◇


 はじめてあなたの姿が目に入ったのはいつだったでしょうか。もう覚えていないほどに、その日が随分と遠くに感じます。ふらふらと何に縛られることもなく、かといってなにかを縛ることもなく、私はただ歩いていました。身体に纏う風埃のことを鬱陶しくも愛おしくも感じながら、ただ足が赴くままに前へ前へと進んでいました。

 ただただ漫然とした、真っ平らに延びた私の道に、ある瞬間それは静かに存在を知らせたのです。私の世界ははじまりもなければ終わりもなくて、水平線のように真っ平らでした。ただただ明るいだけの世界に、その世界を静かに分ける影が現れたのです。静かで、夜空のように青くて、とくとくと鼓動する影が。こんなにも美しい世界があったのかと、はじめて世界に触れたような、そんな気すらしました。


◆◆◆


 わたしたちは、互いの発する空気に慄きながらも水を掻き分けるように少しづつ互いに触れていった。あなたは触れるととても暖かくて、時には湯気が出るほどに熱かった。どこに触れても柔らかくて、少し湿っていて、そして焼き立てのなにかふくふくとした食べ物みたいな香りがした。その香りを胸いっぱいに吸い込みたくて、あなたにばれないように近づいてはこそこそとその香りを堪能した。そうするとあなたは、唇だけで僅かに笑った後、わたしの方に手首を手向けてその柔らかい香りを匂立たせてくれた。


◇◇◇


 あなたは、いくら鼻を近づけてみてもなんの香りもしませんでした。繰り返し細胞が生きて、死んでいるはずなのにどうしてなんの香りもしないのでしょう。不思議に思って香り高いでろう首筋や生え際に鼻を寄せてみてもなんの香りもしないのでした。あなたはといえば、そんな私の素振りを受けてとても気不味そうな顔をして、けれど身を捩ることはせずに耐えてくれました。時折、何かをするふりをしてそろそろと近寄り鼻筋を動かすあなたはとても愛らしくて、私はぎゅうと腕の中に引き寄せてしまいたくなる衝動と戦っていました。ぎゅうと抱きしめて、この胸のうちにあなたを吸収してしまいたい。そんな邪な感情が、時に私を支配しました。


◆◆◆


 ある時、あなたの瞳の奥に小さな小さな暗い光が灯っているのをみつけてしまった。あんなにも明るかったあなたの、あんなにも透きとおった、きらきらと瞬くあなたの瞳に。

 そんなあなたはあなたではない、わたしの明るい光はどこに旅立ってしまったのか。光が強ければ強いほどにわたしの影は暗くなってしまうけれど、完全な暗い世界に沈めることが、暗い世界から完全に明るい世界を見つめることがわたしは好きだったのに。暗い光がある光なんて光じゃない。


◇◇◇


 あなたの様子がおかしい。いつもどこか虚ろな眼差しをして、かつてのようなふたりの間に流れる穏やかな空気はどこにもありません。そろそろと近寄るあの可愛らしい仕草はついぞ見られていませんし、なにか透明な壁があるようです。必死で投げかける言葉の数々は成す術もなく壁にぶつかり、途中で息絶えて死んでゆきます。どうして、なのでしょうか。私が、なにかを、なにか失敗をしてしまったのでしょうか。邪な心を持つ私を、純粋で素直でまっすぐなあなたは感じ取ってしまったのでしょうか。もうすでにあなたのいない日々など想像もできないほどにあなたに沈み込んでいるというのに。


◆◆◆


 地平線に陽が沈んでいくかのように、あなたの光はどんどん死んでゆく。そこにあったはずの光はもう半ばほども消えかかっていて、どくどくと力強かった脈々とした音は今ではもうとても弱くて、ぶぶぶと浮き立つ羽音のように微かだった。


◇◇◇


 どんどん沈み込んでしまいます。私の世界を分けたあなたの影に引き寄せられるようにして。けれど、私が沈めば沈むほどあなたの影は濃くなって、私から離れてゆきます。とくとくと鼓動する小さな影は今ではもう目に見えないほどに遠くへ小さくなってしまいました。それなのにもう私の心はあなたに縛られて身動きができないのです。足はもう一歩も前に出なくて、もはや歩くこともできないのです。地に伏した私の視界に映るのはただただ真っ平らな水平線でした。


◆◆◆


 陽は、完全に沈んでしまった。見る影もなくそこに横たわるあなたの身体からは、あの満ち足りた音も、焼きたてのなにかふくふくした食べ物のような香りもしない。そっとその皮膚に触れると、それはとても冷たくて硬かった。


 そこでわたしは気がついた。あなたもわたしと同じただの生き物であるということを。神でも、自然でも、陽でもない、感情をもつただの生き物であるということを。


 ああ、わたしの光は絶えてしまった。わたしがその頭を押さえつけて、水面へと、ぶくぶくと。


 わたしはそうっとあなたの横に寝そべり、冷たくて硬くなった身体に身を寄せた。抑えても震えてしまう手を、もう一方の手でぐうと支えて、あなたの顔にかかる砂粒を払い除ける。死者への花向けのように、わたしの乾いて貧相な手首をあなたに手向ける。


◇◇◇


 ふと、なにかあたたかい音が聴こえました。とく、とく、とく、とく、と。

 冷たい水の淵に沈み込んで、空気を吸うことも、吐くこともできないままに瞳を閉じていました。そうっと手首を泳がせると、やわらかい蕾のような手に触れました。その手に引っ張られるようにしてぷかぷかと水面に浮かぶと、そこにはあなたの冷たい横顔がありました。


 ふたりで手を取り合うようにして岸へと上がり、冷えた身体を互いの体温を少しでもあげようとぎゅうぎゅうと抱きしめ合いました。互いの熱が互いにうつりあって、吸収されて、鼓動もともに歩みを進めました。



 目の前のいとおしい存在の顔を覆い隠す長くて黒い前髪を指で払い除ける。そうすると、雲から顔を覗かせる月のようにあなたの顔が現れました。それらは胸がスッとするような冷たい空気と星屑のようにきらめく瞬きを伴っていて、まるで月面に辿り着いたようでした。私は一歩、一歩、足を踏みしめながらあなたに近付き、その手を握ったのです。ふたりが溶け合って、ともに生きていけますようにと願いながら。


fin

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