第03話 シャンプーないなら小麦粉で

 ──1時間後。


 私は厨房の一角に陣取って、昼食に出された玉ねぎのタルトにかじりついていた。タルトという名前だが甘いケーキではなく、キッシュと言われた方がイメージに近いだろうか。


 ふわっふわの卵液に隠されている具材は、単に玉ねぎを少しの塩とスパイス、そしてバターで炒めただけのものだ。だがじっくりと甘味と旨味を引き出された玉ねぎはとってもジューシーで、シンプルながらバランス良く仕上がっている。外側を覆うサクサクのタルト生地とのコントラストも絶妙で、いくらでも食べられそうだ。


 私は何気なくバターのついた指をぺろりと舐めようとして、ハッとして手を止めた。慌てて背筋を伸ばしてごまかすと、皿の横に置かれた小さな鉢フィンガーボウルで指を洗う。


 貴族の子女が素手でタルトにかぶりつき!? と思われるかもしれないが、ここガリアでは汁物に匙を使う以外、食事は基本的に手掴みだ。共用のナイフを使って大皿から個人の皿に取り分けたら、あとは指を洗いながら手掴みで食べるのが正しいマナーである。


 とはいえカトラリーが全くない訳ではなくて、隣国ロマーニアでは庶民にまでカトラリーが普及しているらしい。


 地球でも発祥とされるイタリアからフランスにカトラリーが伝わったのは、十六世紀にイタリアの豪商の娘カトリーヌ・ド・メディチがフランス王家に嫁いだ時と言われている。その後ヨーロッパでカトラリーが一般化したのは十八世紀近くのことで、それまでは手食文化が主流だった。


 古事記にお箸が登場する日本を始め、東アジア圏のお箸の歴史の古さに比べると、カトラリーはとても新しいものだ。だがそれは別に西洋が遅れているという訳ではなく、宗教的な理由が影響しているらしい。


 こちらの理由もそれと同じだ。敬虔なフィリウス教徒の多いガリア人は、神から頂いた最初の道具である手を神聖視しているのである。


 という訳で、マナーの方には何ら問題がないとお分かり頂けただろうか。もっとも、場所の方には問題大アリなんだけど。


「おかわり頂けるかしら?」


「はい、もちろん!」


 料理番のエメは満面の笑みを浮かべて新しい皿を取り出すと、大きめに切ったタルトを一切れ載せて私の前に差し出した。


「ありがとう!」


 貴族然とした上品さは失わない程度に、だが流れるようなスピードでおかわりを平らげると、私はエメに向き直って微笑んだ。


「ごちそうさまでした。今日も美味しかったわ」


 リゼットを陥落させたあと。昼食を受け取りに行くという彼女を説き伏せて、私は厨房への侵入に成功した。


 エメも初めは驚き抵抗したが、五十歳手前にして初孫が生まれたばかりという彼女は、もともと私にかなり同情的だったらしい。おばちゃん特有のコミュ力の高さも相まって、一食終える頃にはもうすっかり身内の距離感である。


 笑顔でお皿を片付けた彼女が代わりに置いて行ったのは、温かい香草茶ティザーヌのカップだった。私がゆっくりとそれを傾けていると、同席を固辞して別のテーブルで昼食をとっていたリゼットが、私の傍らに戻ってきた。



 *****



「お嬢さま、午後はいかが過ごされますか?」


「そうね……せっかくお布団が綺麗になったのだし、湯浴みをしたいわ」


 もう何週間も浴槽に浸かっていない私の身体は、実は汗やら何やらでベットベトだ。いくらリゼットがこまめに身体を拭いてくれていたとはいっても、日本人的には我慢の限界である。


 だがお風呂に入っていない理由は、実は闘病中だったからというだけではない。そもそも寒くて乾燥気味のこの国には、浴槽に浸かる習慣がほとんどないのだ。


 だが魔族の侵攻前に西大陸一帯を支配していたとされる大帝国には、銭湯文化があったらしい。しかし大衆浴場はその後感染症の温床となり、いつの間にか「浴場=病気になる」という真逆のイメージを呼んでしまった。そうして一気にお風呂の文化は廃れてゆき、今ではごく一部の貴族のみが所有する贅沢品である。


 だが実は、この城には一つだけ浴室が作られていた。現在は空き部屋である元両親の寝室から続くその浴室は、亡き母の希望で設置されたものだ。隣国ロマーニアでは近年お風呂人気が復活したのだが、母はそのロマーニア出身なのである。

 母の存命中は頻繁に入浴したものだが、部屋の主が不在となってからは遠慮して入ることができなくなっていたのだ。


「かしこまりました。すぐにお湯の準備を致します」


「そんなすぐに準備できるの!?」


 お風呂なんて、もう何年も使っていないはずなのに。驚いてミヤコの地が出そうになる私と対照的に、リゼットは涼しい顔で答えた。


「旦那様のお部屋のお手入れは、欠かしておりません」


「リゼットがやってくれていたの!?」


「はい、いいえ。お手入れを行ったのは私ですが、ご指示はルシーヌ様より頂いております」


 そう謙遜するよう答えて、リゼットはひかえめに笑った。


「ではお湯を……」


「待って! その必要はないわ」


 エメに大鍋を用意するよう頼もうとしているリゼットを、私は慌てて引きとめた。そういや母が亡くなった5年前、リゼットはまだうちで雇われたばかりの見習いだったっけ。我が家独特の湯沸かし方法を知らなくても、無理はない。


 私はリゼットと共に両親の寝室へ向かうと、浴室の状態を確認した。磨き上げられた大理石の浴槽はピカピカで、とても何年も放置されていたとは思えない。浴槽へと続く上水路の水門を開けると、水も問題なく注ぎこまれるようだ。


 私は満足して水門をいったん閉じると、リゼットにバスローブの準備を頼んで再び厨房へ向かった。母の存命中はロマーニアから取り寄せたオリーブ石鹸と葡萄酒酢リンス、仕上げにオリーブのトリートメントオイルを使っていたが、今や贅沢品は軒並み在庫切れである。


 私は厨房でエメに頼んで小鍋を弱火にかけてもらうと、水の重さの一割くらいの量の小麦粉を用意した。ダマにならないよう少しずつ鍋に加えながら、根気よく混ぜていく。


「何を作られるのです?」


「これはね、洗髪料よ!」


 これは現代日本では、小麦粉シャンプーと呼ばれているものだ。界面活性剤がお肌に合わない人などに、人気の洗髪方法である。


「この小麦湯が、ですかい!?」


「そうよ。まあ見ていてね」


 話しながらも休まずヘラでかき混ぜていると、やがて粉は溶けこみ、とろりとした半透明の液体が出来上がった。それを小さな容器に移し替えると、私はリゼットの待つ浴室へと向かった。

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