第02話 エルゼス地方は洗濯日和

 ──翌朝。

 洗顔用の手桶を持ったリゼットが部屋から出ていくと、私は早速ベッドから立ち上がった。部屋をくるりと見渡して、廊下へ続く扉とは反対側の壁際へ向かう。


 大きな木製の窓を軋ませながらなんとか開けると、心地よい程度の冷気と共に、柔らかな陽光が降り注いだ。きりりと澄みわたる晩秋の空気は透明で、まるで領地を一望できるかのようである。


 このオーヴェール城は、大人の足なら小一時間もあれば登れる低い山の上に立つ、平山城ひらやまじろである。豪華な宮殿ではなくごつごつと剥き出しの石を積み上げた、実用重視の城塞じょうさいだ。


 城壁の足元は深い森に潜むように、幾重にも空堀が張り巡らされている。そんな緑の罠をようやく抜けた向こうの平野部に、領都であるピエヴェールの街が広がっていた。


 城下の街をさらに越えると、なだらかな丘陵地帯を挟んで葡萄畑が広がっている。葡萄畑の向こう側で、魔王領との国境の川が遠くきらめいて見えた。


 薬師によると秋の盛りに発症した私の熱病は、季節外れの瘴気病マル・アリアだろうとのことだった。瘴気しょうきとは、魔族から発されるという「悪い空気」のことらしい。主に夏場に発症し熱発作を繰り返した挙げ句、その多くが死に至る病である。


 正直なところミヤコの感覚ではあの症状が呪いだなんて迷信としか思えないのだが、まあこの世界には魔法が存在するのだ。もしかしたらミヤコの常識が通用しない何かがあるのかもしれない。


 そんな病魔と幾日も戦い、薬師ももう次の熱発作が最期だろうと匙を投げた秋の終わり。私は謎の急回復を遂げ、そして今に至るという訳だ。


 そろそろコートが欲しくなるくらいの気温だが、反するようなぽかぽか陽気で悪くない。私は思いっきり窓を開け放つと、残る三つの窓も次々と開けていった。病人部屋特有の淀んだ臭気が、一気に新鮮な空気で吹き飛ばされていくようだ。


 カテーテルもない状況で寝たきりの病人につけられるのは、そう、古典的な布オムツである。もちろんゴム引きの防水布なんて、便利なものはここにはない。


 ──以下自粛。


 うん、こんな布団に寝てたらまた病気が悪化してしまいそうだね!

 私は呼び鈴の紐を引くと、リゼットに頼んで布団を洗ってもらうことにした。



 *****



 ガリア王国の北東の端にあるエルゼス地方は、ほんの三十数年前までは隣接するゲルマニア魔王国の領地だった。しかしさらに百数十年ほど遡ればガリア王国領という、とったりとられたりの厄介な土地である。


 両国がエルゼス地方を諦められず取り合いの歴史を繰り返している理由は、その資源にあった。エルゼス地方では製鉄に必要不可欠な鉄鉱石と石炭とが、便利なセットで産出するのである。


 加えて魅力的なのは、エルゼス侯爵領とゲルマニアのバルデン辺境伯領との境界を流れるルウィン川の存在だった。ルウィン川の沿岸は日当たりがとっても良好で、葡萄酒造りに適しているのである。


 それだけ聞けばエルゼス侯爵領が貧乏だとは思いもよらないかもしれないが、現実は厳しかった。


 戦争の勝利と同時に魔族は去ったが、百数十年前に魔王領となったときにもエルゼス地方に残った人間たち──先住民──は残っている。それに対してロシニョル家の叙爵とともに入植した移民たちは、元家臣の一族が中心だった。そんな両者の溝は埋めがたく、未だに対立が続いているのだ。


 先住民は移民を長き平和を破った侵略者として、移民は先住民をかつて魔族に寝返った裏切り者として、お互いを敵視していたのである。ロシニョル家の名の下に両者は平等な領民だとお触れを出したが、心に残るしこりは取り除けないままだった。


 気候の違う地域からの移民たちは土地に適した作物も農法も知らず、特にここ数年は気候の乱れで凶作に見舞われていた。だが食うにも困る移民に対し、長年の暮らしで土地を知りぬいた先住民は、豊かでないまでも困窮するほどには至らない状況である。


 しかし先住民を裏切者と蔑む移民は頭を下げて教えを乞おうとはしなかったし、先住民たちにもわざわざ教えてやる義理もなかった。そんな状況で製鉄事業が進むはずもなく、国境守備等の費用ばかりがかさむエルゼス領の財政は、火の車となっていたのである。


 そして領主であるロシニョル家のお財布事情もまた、貴族としてはかなり寂しいものとなっていた。侯爵令嬢の寝台に藁が詰まっているくらいなのだから、説明は不要だろう。


 私は渋るリゼットを強引に押し切って、マットレスの中に詰まっていた古い寝藁をカバーから掻き出す手伝いをすることにした。交換用の寝藁作りを森番の息子に注文しに行ったリゼットが帰ってきたら、次に向かうのは中庭の洗濯場である。


 使用人が極限まで減らされているおかげで誰にも見とがめられないまま、私達は無事洗濯場にたどり着いた。城中に張り巡らされている上水路の蓋を開けると、中には山から引いている沢の水がたっぷりと流れている。


「ひゃー、冷たっ!」


「お嬢さま、やっぱりいけません! お嬢様は病み上がりでいらっしゃるのですよ? それに、こんなところルシーヌ様に見られでもしたら……」


 ルシーヌとは、女中頭の名前である。彼女に見つかってしまっては、きっと大目玉だろう。だがテンションが上がり切っていた私は、とりあえず忘れておくことにした。


「大丈夫! 私が二人ぶん謝っておくから!」


 今までになく軽い身体と、そして自由に慣れたミヤコの記憶が目覚めた影響なのだろう。私はリゼットの立場も忘れて、すっかり調子に乗っていた。


 水路から水を汲み上げては、大きな桶に注いでゆく。そこに藁を抜いて空っぽになった布団カバーを落とすと、リゼットは小さく呟いた。


「失礼いたします……」


「あっ、うん」


 私が間の抜けた返答を返し終えないうちに、リゼットは靴を脱いで素足になる。そのまま桶の中に入ると、足首まであるロングスカートの裾を持ち上げて、ぐっしゃぐっしゃと洗濯物を踏み洗いし始めた。


 ぽかぽか暖かい陽気とはいえ、冬直前の冷たい湧き水に浸された足はみるみる赤くなってゆく。黙って見ているのが申し訳なくなって、私は口を開いた。


「ねえ、やっぱり私も手伝っていい? 邪魔はしないようにするから!」


 すると足踏みをしていたリゼットが、こちらを振り返った。鬼の形相である。


「お嬢さまがおみ足を晒すなど、ぜっっっっ対に、なりません!!」


「ご、ごめんなさい……」


 あまりの剣幕に思わず謝ると、リゼットはひとつ頷いて、また洗濯物を踏みつけ始めた。


 この国の価値観では、良家の女性が異性に素足を見せるのは大問題である。深窓のご令嬢にとっては、ふくらはぎがちらりと見えただけでもパンチラ並みの事件なのだ。

 もっともこの場に異性などいないのだが、いつ通りかかってもいいように気を付けておくのが淑女の嗜みとされていた。


 それにしても、リゼットがこんな風に怒るなんて生まれて初めてである。ちょっと調子に乗りすぎてしまったようだった。


 困ったような顔で黙り込んだ私に、リゼットは僅かにいぶかしげな目を向けた。


「一体どうなさったのですか? まるで以前とはお人が変わったような……」


 だがそこまで言いかけて、リゼットは慌てて口をつぐんだ。不敬になることを危ぶんだのだろう。


「ええと、いったん死を覚悟したからかしら。全てが新鮮でなんでもやってみたいと思うようになってしまったの。リゼットのお仕事を邪魔してしまったこと、謝るわ」


「えっ、いえそんな私っ、申しわけっ……!」


 ああまたやってしまった。貴族が下級使用人に謝るなんて、あり得ないことなんだった。これからはちゃんと令嬢っぽい言動と行動を心がけなくては、逆に困らせてしまうだろう。無意識のパワハラにならないよう、気を付けなくては。


 でも気を付けた上で、もう少し仲良くなりたいのも本音である。何しろ兄がひきこもってしまったここ四年くらい、一部の親戚以外との交流が全くないのだ。


 貴族の子女が護衛もなしに外出するなんてもってのほかだし、数少ない家族も気難しい祖父と引きこもりの兄だけという、物理的ぼっち状態。来客と言えば商人と家庭教師がたまに来るくらいで、学校にも行ってない。

 いくら私がコミュニケーション大好き人間ではないとは言っても、さすがに話し相手に飢えるというものだ。


「ええと、ごめ……じゃない、リゼットが謝る必要はないわ。もう無理にお手伝いをさせてとは言わないから、どうか私の話し相手となってほしいの」


「それなら……」と言いかけたリゼットだが、はっとしたように手を口元にやると頭を下げた。


「どうぞお許しくださいませ」


「どうして? 私はもっと前のようにリゼットとお話できるとうれしいのだけど」


 彼女は一瞬逡巡したような顔を見せたが、すぐに諦めたように首を振った。


「大旦那様や公爵夫人がお許しになりません」


 母亡きあと淑女教育を施す家庭教師としてやってきたのは、祖父の兄の妻、つまり大伯母である。隣領ロートリンジュの公爵夫人である彼女は、実のところそれほど厳格な人物ではない。むしろ大の噂好きで親しみやすいおばあちゃんなのだが、なぜか彼女にしょっちゅう付いてくる彼女の孫が面倒なのだった。


 本家の息子を自負する彼は気位が天よりも高く、リゼットのような下級使用人とは必要以上の会話をすべきではないと、いちいち文句をつけて来るのである。


 実は使用人には、おおざっぱに分けて上級と下級の二種類がある。例えば執事や女中頭といった管理職のほか、直接貴族の身の回りの世話をする侍女や侍従、乳母などが上級職だ。

 上級職には家臣を始めとした中流階級以上の子女が行儀見習いを兼ねて雇われることが多いのだが、全員寿退職して行った今、人員を補充する余裕はないのが現状である。

 そんな状況で私の世話をしてくれているリゼットは、城下の孤児から召し抱えられた下級の雑役女中だった。


 だが成人前でまだ専属の侍女を持たないフロルの世話の適任者は、リゼット以外いなかった。優しいリゼットとは最初は楽しく過ごしていたが、あの底意地の悪い親戚に見とがめられて以来、業務を超えた会話を禁止されてしまったのである。


「誰も見てないときだけでいいから……だめ?」


 私は目に涙をいっぱいに溜めると、頭ふたつ分くらい背の高いリゼットを見上げた。こちらを見下ろすリゼットの表情に、ためらいの色が浮かぶ。


 ──よし、もう一押し。


「さみしいの……」


 目じりに溜まっていた雫が、ひと粒零れ落ちてゆく。


「その……誰も見ていないときだけ、でしたら……」


「ありがとう、リゼット!」


 私は瞬時に笑顔を作ると、リゼットに思いきり抱きついた。彼女の細身のわりに発育の良い胸が衝撃で浮き上がると、私の頭上にたぷんと着地する。そういやこの国って地球のヨーロッパっぽい感じだけど、コルセット文化はないのよね。


「おっ、おじょうさま!?」


「リゼット、大好きよ!」


 私はリゼットのお腹に顔をうずめたままそう言うと、ぱっと身を離して笑いかけた。


「えっ、あっ、その……わたしも……です」


 混乱で目を白黒させていた彼女だったが、なんとかそれだけ言葉を絞り出すと、観念したように笑みを浮かべる。


「お嬢さまにはかないませんね」


 リゼット砦、攻略完了。

 私は内心ガッツポーズをとった。


 今の私は、十二歳の少女である。その事実を有効活用しない手はないのだ。


 ミヤコがリアルに若い頃は「大人に媚びたりしない」なんて斜に構えていたものだったが、人間関係を円滑に進めていくには柔軟性が必要だ。遠慮しすぎる子より、ちょっとおねだりしてくるくらいの方が可愛げがあるというのは、悲しいかな現実である。


 困ったように笑いながらもそっと肩に手を置いてくれる彼女を見上げて、私は心底嬉しくなって微笑んだ。リゼットが大好きなのは、そもそもフロルの本心である。でもちゃんと言葉にしなければ、思うだけでは伝わらないのだ。


「これからもよろしくね!」

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