15.葛藤

「そしてこの村に辿り着いたのだ」


 ユキノジョウはそう結んだ。

 囲炉裏の火は消えかけていた。カキノスケは、じっとその揺らめきを見つめたまま押し黙っている。ひどく体が重かった。明かりの外に揺蕩う闇が、肩の上に圧し掛かってくるかのようだ。


「……なぜ、そのような話を」


 やっとカキノスケは言った。かき混ぜられる炭のような擦れた声だった。


「わたしを追ってきたのだろう?」


 ユキノジョウは事もなげに言った。

 いまさらカキノスケは驚かなかった。ただ、くしゃりと顔を歪めた。カキノスケがここにいる訳は、多くのものを失ったこの男から未来を奪うためだった。


「気付いていたのなら、なぜ助けたのですか」

「醜い鬼には戻りたくなかった」


 ユキノジョウはトウキチの背中を一瞥すると、続けた。


「あの子には健やかに育って欲しいからだ。おぞましい鬼の背中など、もう見せたくはなかった」

「ならば猶更、俺たちを助けるべきではなかった。刃を向けられれば、抜かぬわけにはゆかぬでしょう」

「カキノスケ殿の心は、すでに決まっているのだな?」


 哀しげにユキノジョウが問うた。

 カキノスケは歯を食いしばって俯いた。

 いまさら迷うな。カキノスケは己の軟弱な心を叱咤した。〈スコップ〉を磨くあの音を、記憶の中に探した。すると、一緒に消え入るような妹の声が浮上してきた。


 リッカは、兄上のお帰りを、いつまでもお待ちしております。


 カキノスケはギュッと目を瞑った。己の妹以外には、もう何も目にはすまいと。

 やがて心は決まった。まぶたを上げ、ユキノジョウを見返した。ゆっくりとかぶりを振った。


「……ありません。あなたにトウキチ殿がいるように、我らにもそのような者がいるのです」

「こうなることは避けられん、か」


 カキノスケは頷こうとしたが、今度はうまく首が動かなかった。肩が震えて胸が詰まった。左耳にはトウキチの笑い声が、右耳には妹のすすり泣きが聞こえていた。それらが両側から自分を引き裂こうとしているように思えた。


「このような道を、選びたくはなかった……。いまでも他の方法はないのかとそればかり考えてしまう。けれど、ないのです。なにも。あなたに刃を向ける以外には、なにも」


 カキノスケはギリと奥歯を鳴らした。

 ユキノジョウは膝の上に置いた拳を、関節が白くなるまで握った。


「ならば、私も覚悟を決めよう。一時、鬼に戻ろう。トウキチのためだけではなく、カキノスケ殿のためにも」


 そう言い終えるやいなや、ユキノジョウの眼光が鋭く光った。

 両者の視線が火花を散らした。もし、そこに色があるとするならば、それは遥か遠い地平にかすむ哀しき藍の色であっただろう。


「恨め、カキノスケ殿。すべては私が始めたことなのだ。あの日、私が刃を抜かれなければ、彼の国が衰えることはなかった。当代城主が憎悪する男も、この世にいなかった。カキノスケ殿の苦しみは、この鬼がもたらしたものなのだ」


 カキノスケはたまらず腰を浮かせた。違う、あなたのせいではない。先代の城主が愚かな決断を下さなければ――思わずそう叫びかけていた。

 しかしカキノスケは、すんでのところで己を留め、ゆるゆると浮かせた腰を下ろしていった。ユキノジョウの言葉を否定することは、畢竟、互いの覚悟に否を突き付けることだと気付いたのだ。


 今すべきことは、ユキノジョウの言葉通りにすることだった。

 カキノスケは静かに瞼を閉ざした。そうして闇の中にエチゼン国の凄惨な現実を描写した。物心つかぬうちから過酷な修行に送り出される子どもたち。屋根から滑落する老人たち。雪煙を舞い上げながら潰れる家々――。


 そうだ。この男が元凶だ。エチゼン国はこいつが壊した。鬼は報いを受けるべきなのだ。


 カキノスケは、強いて己に言い聞かせた。そして、震える膝をぴしゃりと打った。いきおい立ち上がり、鬼を見下ろせば、剣呑な眼差しが返ってきた。燻る炎の明かりを受けて、どろりと光るそのまなこ。なるほど鬼だ。


 じっと相手を睨み付けたまま、カキノスケは歩いた。框を下りて、壁に立てかけられた〈スコップ〉を握った。ずっしりと重かった。

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