16.果たし合い
闇夜に、ぼんやりと雲が光っている。稲妻を孕んで薄紫に色づいている。降りしきる雪もまた、雷光の色にあわく染まっている。地表へ近づくにつれて、雪は闇に馴染んでゆく。やがて幾つかの雪片は、寒風に吹かれて二度と舞い上がり、〈オオゲツヒメ〉から立ちのぼる虹色の煙と融け合って、空に還ってゆく。
夜の闇に浮かび上がる、その奇妙な色彩を背負いながら、カキノスケは深く息を吸う。吐く。不思議と心は凪いでいる。雪面に刺した〈スコップ〉の三角の持ち手は、握りこんだ手のひらの熱を受けて、すっかり温まっている。
待っていろ、リッカ。
カキノスケは遠い故郷に残された妹へ語りかける。そしてまた、ゆっくりと息を吸いながら、正面の敵を睨み据えた。
ユキノジョウ。〈雪除けの鬼〉。
エチゼン国を窮地に追いやり、また救うことのできる唯一の人物。
カキノスケは、一時も鬼から視線を逸らさず、肺腑に満ちた空気をするどく吐き出した。
その時、〈オオゲツヒメ〉の透明な扉がひとりでに開いた。闇の中から足音が先んでて、一拍の後にぬっと人影が現れる。食べカス交じりの唾を雪のなかに吐き捨てたその人物は、カキノスケの隣まで来て足を止める。ともに鬼を見据えた眼は、一方が白く濁り、異様な殺気を放っていた。
「あれも律儀なものよな。戦前の腹ごしらえを許すとは」
口許を拭いながらヒエモンは言った。そこには弟子に対する言外の皮肉が含まれていた。トウキチを人質にとらず、正々堂々の決戦の場を設けたことに、少なからぬ不満があるのだ。
カキノスケはそれを無視し、ヒエモンの肩に負われたものに注意を向けた。一瞥で済ますつもりだったが、思わず見入って息を呑んだ。こうしてじっくりと眺めるのは、これが初めてだった。驚きのあまり凍った睫毛が幾度も上下した。
「……〈スノーダンプ〉」
底の深い紅のシャベル、そこから延びたコの字型の持ち手。その威圧的な姿は、あたかも
これが最強の雪かき力を誇る遺物か。なるほど、民草が畏敬の念とともに〈ママさんダンプ〉などと称するのも頷ける。〝ママ〟とは母を意味する古代語であるから、この異名は「ママでも落命することなく雪を運べる」という凄まじい真理を体現しているのだ。
「技では鬼に勝てぬとしても、力ならば。数もこちらに利がある。よって勝機は充分。臆するなよ、カキノスケ」
「臆するなど」
カキノスケはヒエモンを見ずに言った。その目は、すでに〈スノーダンプ〉からユキノジョウに戻っていた。
迷える自分は、トウキチの眠るあの家に置いてきた。ここには最早〈スコップ〉と、この命の他にはない。カキノスケは地面に刺した〈スコップ〉を引き抜いた。
「おれとて寒窺です。戦場にあって腰を抜かすような青二才ではありません」
「ハッ! でかい口を利くようになったものだ」
ヒエモンは
ユキノジョウもまた〈スコップ〉の帯を解いた。
それぞれの眼光が、抜き身の刃のごとく光を放った。周囲に舞い落ちる雪が蒸発をはじめた。陽炎のごとく空間が歪んでゆく。やがて三人の背後に凝った殺気は、それぞれに鬼の面相を形作った。
最初に構えをとったのはカキノスケだった。
〈スコップ〉を地面と水平に掲げ、己の目の高さでぴたと留めてみせた。
霞の構え。
振り下ろしの隙を最小に留め、上段の防御に厚く、横に払うことで相手の目をつぶす攻防一体の構えである。
「……どちらが正しいか。あとは互いの刃が
次にユキノジョウが右足を踏みだし半身となった。すると、分厚い肩の後ろに得物がすっぽりと隠れた。手の内を読ませず、間合いを狂わせる――脇構え。
不穏な佇まいを前にして、カキノスケは踵でジリと雪を掻いた。ユキノジョウの背後に現出した鬼の形相が、何倍にも膨れ上がり、いっそう険しさを増した気がした。
しかしヒエモンはどうだ。
まったく動じていない。それどころか、ますます爛々と瞳を輝かせていた。
そして独特な構えをとっていた。
半身になって刃を下に向けているのである。
無論、重みのせいではない。
刃を下げることで、シャベルの底を盾にしているのだ。さらに、斜に構えることで、コの字の持ち手の間から露出した腕を、把手が守る形にもなっている。〈スノーダンプ〉の特殊な形状だからこそ生みだされる絶対防御の構えである。
「鬼よ、裏切りの代償、ここで支払ってもらうぞ」
いつの間にか寒風は止み、吐きだされた息が、その場に白く膨れた。ピンと空気が張りつめ、それぞれの鬼が霧散した。
カキノスケは相手を牽制すべく、じりじりと前に出た。
すると、そこに鋭い風が吹きつけてきた。寒さが目に沁みて、カキノスケは目を眇めた。狭まった視界が、舞い上がった粉雪で曇った。
一瞬、その一瞬であった。
ユキノジョウの輪郭がかすみ散ったのは。
「下だッ!」
ヒエモンの叫びと同時に、カキノスケの喉許を殺気が貫いた。視線を叩き落とせば、そこにもうユキノジョウがいた。
「ッ!」
思慮の間もなく体が動いた。刃の起こりのない振り下ろしが、掬い上げるような逆袈裟をかろうじて防いだ。火花が散り、切れた茣蓙帽子の裾がばさりと落ちた。カキノスケはすかさず当身を繰りだそうとした。ところが、その時にはすでにユキノジョウの掌打が鳩尾を抉っていた。
「ガハッ……!」
凄まじい衝撃が襲った。背をつき抜けるばかりか、脳天までも揺さぶる一撃。たちまち視界が白一色に染まった。
「シ、ッ……!」
カキノスケは痙攣する横隔膜を、腹のちからで無理やり押さえ込む。そうして僅かに空気を吸いこんだ。たちまち正体をとり戻す。視野が蘇る。そこに、赤。すわ、斬られたのか?
「ぬぇやァ!」
否、それは錯覚であった。血ではなく、〈スノーダンプ〉の赤が眼前にあったのだ。
横っ面に飛びこんできた大業物を、ユキノジョウは跳んで躱した。くるくると宙を舞いながら。着地と同時、粉雪が放射状に吹き荒ぶ。
「目を閉じるな、また来るぞ!」
「はい……ッ!」
ユキノジョウは飛び石を渡るようにジグザクと迫りくる。カキノスケは構えを正す。相手の得物はやはり肩の陰になって見えない。
どこで来る? 何が来る?
思考が極限まで加速する。突如、辺りが水を打ったように静まり返る。泥のように粘ついた時間が流れる。
雪が爆ぜ、ユキノジョウが右斜め前方に跳ねた。視線がかち合い、火花が散った。肩の陰から〈スコップ〉が閃く。わかる。小手を斬る軌道だ。
カキノスケは足許に弧をえがき、半身になる形で躱した。そこにすかさず反撃の斬撃をくり出した。躱されるのはわかり切っていた。しかしカキノスケは、今やユキノジョウを見てはいない。視線はその肩越し。大業物を振りかぶるヒエモンに注がれていた。
「つらァ!」
敵の前後に退路はない。
右か、左か。どちらに避ける?
これを読み切れば刃が届く。カキノスケは確信した。
「な……ッ!?」
ところが、ユキノジョウは、振り向きもせず後ろに跳んだ。
横一文字に振り抜かれる〈スノーダンプ〉目がけて跳んだのである。
ユキノジョウは宙で大きくその身を捻り、くるくると舞った。死刃が
「化け物め……ェ!」
ヒエモンは全身から陽炎を立ち昇らせ、〈スノーダンプ〉を掬い上げた。無理矢理ユキノジョウを高みへと吹っ飛ばし、自らは大股に屈んで大地を踏みしめた。大地に亀裂が生じ、弾かれたように地面の雪が舞い上がった。ヒエモンは地を蹴った。溜め込んだ力を一挙に解き放ち、逆しまに落下するユキノジョウの眼前へと瞬時に達した。
「観念しろぉ!」
ヒエモンは鬼の真上から〈スノーダンプ〉を叩きつけた。
そこでユキノジョウが、またしても信じ難い挙動を見せた。空中で身を翻し、〈スノーダンプ〉を蹴ったのだ。
ヒエモンは舌打ちしながら、流星のごとく落下してゆくユキノジョウを
次の瞬間、地上が爆ぜた。雪という雪が吹き荒んで渦を巻き、高台を呑み込んだ。
「ッ、これでは、なにも……!」
カキノスケは一瞬にして逆巻く渦の中に取り込まれた。だがヒエモンは、渦の外だ。分断されたのだ。
その事実に気付いた瞬間、背筋がゾクゾクと震えた。
雪煙の中から稲妻じみた殺気が迸った。
鬼が、来る……!
「そこかッ!」
カキノスケは気配だけを頼りにふり向き、〈スコップ〉を打ち下ろした。眼前を鮮やかな火花が彩った。〈スコップ〉越しにユキノジョウの姿を認めると、カキノスケは手首をひねり相手の逆袈裟の斬撃を受け流した。
「……なかなかやれる」
たて続けに弐の太刀が迫りくる。カキノスケはこれもかろうじて受ける。刃がはっしと打ち合い、鍔迫り合い。互いに利き足を踏みだし、至近で睨み合う。
「敗け、られぬ……ッ!」
両者、跳びはなれ仕切り直す。
カキノスケはふたたび霞の構えをとって敵の手の内を予測する。おそらく、また下からだ。身体能力こそ化け物じみているものの、これまで見てきた太刀筋はいずれも無難で堅実だった。現に、霞の構えに対して繰り出してきた剣戟は逆袈裟ばかりだった。
ヒエモンに頼りきりにならずとも、切り抜けてみせる。カキノスケはメギと筋肉を鳴らした。
その時、ユキノジョウが地を蹴った。白い息を吹き流しながら。
息つく間もなく剣の間合いだ。カキノスケは得物を振り下ろさんとした。ところが、そこでなぜか胸がざわついた。ここではない。予感があった。とっさに踏みとどまると、ユキノジョウが、
「カッ!」
跳んだ。
莫迦な……っ!
足許に影が落ちた。兜割り。稲妻のごとく刃が降ってくる。
カキノスケは得物を斜めに構えた。両手を柄にそえながら。
「ぐ、ぅヌ、ッ!」
衝撃。空が落ちてきたかのような。
しかし、それは刹那の衝突だ。次の瞬間には、まるで幻であったかのように重みは消え、背後に熱がわだかまった。
カキノスケは、肩越しにそれを見た。背中合わせにユキノジョウが立っていた。逆手に持ち替えられた〈スコップ〉が、カキノスケを突いた。
「ぐ、ゥ……!」
カキノスケはとっさに身を翻して、直撃を避けた。
跳び離れ、地面に〈スコップ〉を刺した。それを支えに歯を食いしばり、脇腹を押さえつけた。じわりと赤いものが滲んでゆく。
「痛かろう。すぐに終わらせてやる」
「なんの、これしきの傷……!」
迫りくるユキノジョウ。
カキノスケは相手が間合いに入らぬうちから刺した〈スコップ〉を振りあげた。刃は虚空をかく。
だが、これでいい。カキノスケはほくそ笑んだ。狙いは敵を斬ることではなかった。
〈スコップ〉はそもそも雪かき力を司るものである。方形の刃は、地面の雪を掬い、ユキノジョウの眼前にばら撒いた。
「……小賢しいぞ」
鬼の〈スコップ〉が一閃した。目潰しは、その風圧でたちどころにふり払われた。それすらも、いや、それこそがカキノスケの狙いであった。辺りに逆巻く雪の帳もまた、その一閃によってふり払われたのである。
「見つけたぞ、鬼」
隻眼の眼光がぬらりと尾を引き、ユキノジョウの背後に迫った。大質量の〈スノーダンプ〉が縦一文字に振り下ろされた。
「ぬッ」
ユキノジョウは振り向きざまに〈スコップ〉を閃かせた。得物同士が打ち合い、カカッとまばゆい火花を散らした。鬼の業前を以てしても、この大業物を押し切ることはできなかった。押し負けたユキノジョウが、後ろに大きく滑った。
……終わりだ。
その先で、カキノスケは腕をひき絞り力を溜めていた。内から湧きでる熱で周囲の雪が蒸発し、着物がばさばさと
「やめろオオオオオッ!」
突如、子どもの叫び声が戦場の空気を震わせた。
捨て置いたはずの迷いが、たちどころに蘇った。動揺が、直接、手許に伝わった。
それは一つと数える間もない遅れに過ぎなかった。だが寒窺同士の戦いにおいては、そのたった一秒で趨勢は移ろうのだ。
ユキノジョウが滑りながら屈むと、刃はそのうなじの僅かに上、虚空を、斬った。
「くッ……!」
カキノスケは刃を戻そうとした。が、間に合わなかった。敵はすでに懐。当身が鳩尾を抉っていた。なす術もなくカキノスケは吹っ飛ばされた。
宙に投げ出され、吐瀉物をまき散らしながら、カキノスケは少年の姿を認めた。トウキチは拳を握り、ワナワナと震えていた。
反吐以上のなにかが内側から零れ落ちていった。カキノスケは受け身も取れず、ごろごろと地面を転がった。
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