18.雲の向こう、地平の果て

 谷底の村。

 その坂の麓に五つの人影がある。大きいのがみっつ、小さいのがふたつ。それぞれ全身を覆った茣蓙帽子の上には僅かに雪が積もっている。


「いまさら返せと言っても、もう返さぬぞ」


 生きた目を眇め、ヒエモンが言った。その正面には、腰の高さほどもある紺青の筐があった。前方に四枚の粗い丸鋸、後方から二本の長い把手と湾曲した筒を備えた絡繰りの。


「構わぬ。どのみち誰も動かし方を知らぬ」

「かたじけない。国には博学多才な者もおりますから、決して無駄にはならぬでしょう」


 不愛想な師に代わって、カキノスケが頭を下げた。

 ユキノジョウは微笑み返すと、若者の手に大ぶりな竹皮の包みを握らせた。


「腹の足しにしてくれ」

「何からなにまで、かたじけない」

「気にするな。人を救うのに理由はいらぬのだ」


 カキノスケとユキノジョウはしばし視線を交わし合い、やがてどちらからともなく笑い声を上げた。そこにトウキチがやって来た。ぐいと押し付けられたのは、ユキノジョウのものよりも、やや小ぶりな包みだった。


「やるよ」


 トウキチは、カキノスケの顔を見なかった。カキノスケはそっと包みを受けとった。突然、鼻の奥にツンと来た。あんなことをしたにも拘わらず、トウキチが来てくれたことが嬉しかった。


「ありがとう、トウキチ殿」


 カキノスケはその場に屈み込んだ。トウキチの頭に触れようとして、しかしすんでのところで手を止めた。


「……そして、すまなかった。許してくれとは言わない。信じてくれとも。だが、あの時つくってくれた鍋の味は生涯忘れない」


 小さな肩がわずかに震えた。恐るおそるといった様子で、トウキチが顔を上げた。ようやく目が合った。潤んでいた。


「それ、オレが作ったんだぜ」

「忘れられぬ味が増えるな」

「わかってないな、兄ちゃん。毒入りかもしれないってことさ」

「覚悟していただくことにしよう」


 露悪的に笑ったトウキチに、カキノスケは肩をすくめて微笑み返した。

 一連のやり取りを冷ややかに眺めていたヒエモンは、とうとう痺れを切らしたのか筐の遺物をトントンと叩いた。


「長居は無用」

「……はい。それでは」


 名残り惜しさを覚えながらも、カキノスケは深々と頭を下げた。ユキノジョウが頷き、トウキチは俯いた。

 遺物を押しながら、ヒエモンが坂を上りはじめた。最後にもう一度あたまを下げてから、カキノスケも踵を返した。後ろ髪を引かれる思いで坂をのぼった。


 もっと言うべきことはなかったか。できることが何か……。


 考えてはみたが、どんな言葉も行いも、きっと白々しくなるだけだろうと思った。

 いつかこの身を打ち砕かんとした坂は、思っていたほど長くはなかった。気付けば、もう頂上だ。目の前に果てしない雪原が広がっていた。また長い旅がはじまる。踏みだしかけたその時、谷底の空気がジンジンと震えた。


「またァ! 鍋、食いに来いよなああああァ!」


 ふり返ると、豆粒のような影が――トウキチが大きく手を振っているのが見えた。声が谺して、何度もなんども心を打った。カキノスケはしゃくりあげながらブンブンと手を振り返した。


「またァ! いずれ、必ず!」


 長い間、カキノスケたちは手を振り合っていた。腕が棒のようになるまで。

 最後の別れも終えて雪原に向きなおると、ヒエモンが遺物に腰かけて待っていた。


「まったく見苦しい。エチゼン国の寒窺ともあろうものが、まなじりを赤く腫らしおって」

「申し訳ございません」


 カキノスケは涙を拭うと、ヒエモンは遺物から下り、〈スコップ〉を結わえた帯を締め直した。


「……気は済んだか」

「ええ」


 今度こそ二人は歩き出した。

 道中、カキノスケは何度も筐の遺物に目をやりながら考えた。これがエチゼン国を救う希望になるだろうか、と。無論、答えなど出るはずもない。だから彼は、盲目に信じることにした。ユキノジョウがそうしたように。すこしでも明るい未来を。


 ふと空を見上げれば、雪はしんしんと降り続けている。止む気配は一向にない。

 それでも厚い雲の向こうにも光が滲んで見えている。ほんの微かであろうとも光は確かに、あの場所にある。

 谷底の村も。エチゼン国も。

 灰の地平の果てに、確かにある。


 カキノスケは、それを知っている。

 だから、いつまでも歩き続けられる。

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雪除けの鬼 笹野にゃん吉 @nyankawa

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