4-4 トラウマと最終作戦
梁山は、情報処理部の備品である簡素なパイプ椅子に身を沈めながら室内を眺め回していた。
情報処理部部室──連上の根拠地である。
梁山は書類上では未だにテコンドー部部長だったが、部の実権はすでに連上に握られ、黒幕の意向通りに動くだけの傀儡と化していた。決定的な弱みを握られている以上、文句も言えない──思えば梁山の生き残りを連上が黙認したのも、元々のリーダーを残した方がより効果的に部を掌握することができるからという極めて合理的な思惑ゆえだったのではないかと梁山は疑っている。
今日こうして呼ばれたのも、テコンドー部を動かすためなのだろう。
傍らの椅子には植村が座り、こちらをちらちらと見ながら気まずそうに身じろぎしている。部屋の奥では、連上がこちらに背を向けた状態で窓の外を見ながら携帯で誰かと話していた。
植村の話では、連上はついさっきまで十人の美男美女を生徒会長に立候補させるために動いていたらしい。自ら対立候補を作り出すなどという不可思議な行動の意味を、梁山は測れないでいた。植村に訊ねても明確な回答は返ってこなかった──どうやら連上は右腕のように扱っている植村にすら、策の全貌を明かしていないらしい。
徹底した秘密主義──連上は自分以外の人間を仲間として信用しているわけではなく、あくまで作戦遂行のために必要な要素としてしか見ていないのだろう。
しかし、そんな連上も島崎にだけはある程度事前に自らの考えを開示していたらしい。個人的な事情もいくつか明かしていたというし、連上にとって島崎だけは例外──共に戦う、対等な仲間だったのかもしれない。
しかし、今や連上はその唯一の仲間だった男を陥れるために策を巡らせている。
梁山も朱河原も南岳も、かつては連上を所詮は年下と見くびっていた。本気で立ち向かわなければならない相手だと気付いた頃にはもう手遅れで、あれよあれよという間に術中に嵌まっていってしまった。連上に対して、その才能をはっきりと認識した上で明確に敵対宣言をした最初の人間が島崎栄一だというのは──考えてみれば皮肉な話だ。
連上自身はそのことについてどう考えているのだろうか。今の連上の心には、何があるのだろうか。そんなことを思いながら梁山は連上を見やる。
「そう、ありがとう。大丈夫、悪いようにはしないから。うん、じゃあまたね」
連上は通話を終了して携帯を閉じ、二人に向き直った。
「最初の一手──その準備は整った」
「立候補の件ですか?」
待ちに待ったといわんばかりの様子の植村の問いに、ああ──と連上は鷹揚に頷いた。
「予定していた十人は全員出馬を決意してくれた。工作はこれでとりあえず一段落──あとはじっくりと経過を観察して、計画の通りに事態が推移していくために必要に応じて手を加えていけばいい。叶ちゃんは立ち会い作業が終わればあたしと一緒にしばらく待機してもらうことになるけど──」
連上は梁山の方を見た。
目が合った時、心音がひときわ高く鳴った。
すべてを取り込み、吸い込み、呑み込んでしまいそうな──虚無的なまでに無限の容量を感じさせる茶色の瞳。それは、対峙した梁山をして、自らの全存在をまったく取るに足らない瑣末でちっぽけな下らないものとして感じさせた。
自分が全力を全開に出して、全身全霊を総動員して、全知全能を傾けても──いとも簡単に、それを凌駕されるという予感。それは単なる妄想なのかもしれないが、過去の敗北によってトラウマを植え付けられた梁山にとっては何よりもリアルに感じられる想像だった。
恐ろしい──。
一つ年下の少女に見つめられて、梁山は心の底から怯えていた。
目を見続けることに耐えられず、思わず目を逸らしてしまう。そんな態度を意に介す風でもなく──もしかするとすべてを分かった上で無視しているのかも知れないが──連上は軽々しい動作で折りたたまれた紙を差し出した。
「梁山部長。君にはこれを渡しておくよ」
「こ……これは?」
「とても重要な資料なんだ。制服の内ポケットにでも入れて、肌身離さず持っておいてね──近いうちに必ずこれを使う時が来る。その時に間違いなく務めを果たしてくれれば、あんたの役目はそれで完了。例の録音データは渡してあげるから、もう貸し借りは無しになる」
「本当……なのか?」
「勿論さ」
梁山の肩に、連上の手が置かれた。
びくり、と体全体が痙攣する。
小さくてほっそりとしたその手から、限りない重圧が生み出されているように感じられた。
首の回りがじっとりと汗ばむ。動悸が乱れて息が苦しくなった。
「部長、くれぐれも頑張ってね。そうすれば──恐ろしい恐ろしいこのあたしと手が切れるからね」
連上はそう言うと、梁山の顔を覗き込んでにっこりと笑った。
その深い色の瞳の奥には、笑顔とは程遠い漆黒がとぐろを巻いていた。
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