4-3 空白と曖昧

 

 九月十日。

 植村は廊下を歩きながら小さく溜め息を吐く。


 少し疲れていた。

 というのもここ最近、新聞部ではほぼ休みなしの激務が続いているからだ。

 そこまでに新聞部を駆り立てている原因は──昨今、学園近くで頻発している謎の暴行事件である。

 一週間ほど前から始まったその事件は、帰宅途中の生徒を無理矢理に拉致し、別の場所に連れて行ってから殴る蹴るの暴行を加えるという凄惨なもので、被害者同士の関連性や犯人の正体などは今のところまったくわかっていない。

 新聞部は、被害にあった生徒に個別に合って詳細な調査をし、すべてを全生徒に知らしめることによって危機意識の引き上げを目指している。報道の使命に燃えている、というやつだった。


 だからといってこれほど疲労が溜まるまで働かなくとも良さそうなものだが、植村はどうにも部活動にのめり込み過ぎるところがある。

 本来、部活動は学生生活に張りを与えるためのものであって、あくまで日常生活に支障をきたさない余暇の活動の範囲内であるべき。そんな常識的な認識も頭の中に確かにあるのだが、それでも限界まで働いてしまうのは──植村の内心に一種の恐れがあるからなのだろう。

 空白への恐れ。

 自分のするべき仕事が何もない状態におかれると、植村は解放感よりも強く不安を感じるのだ。

 自分の存在が周囲と隔絶されているような──自分以外の誰からも必要とされていないような気がして、その空虚な気持ちを忙しさで埋めたくなる。

 その心配症が、現在の激務を生んでいるのだ。

 今こうして──新聞部の活動の合間を縫ってコンピュータ室に向かっているのも、植村のこの性質によるところが大きい。

 

「一つ、あたしから提案があるんだけど──聞いてもらえるかな?」


 三日前の昼休み──たまたま図書室に本を返却しに来ていた植村に声を掛けてきた連上は、植村を廊下に誘い出して開口一番にそう言った。


「提案、ですか?」


 自然と、敬語で答えてしまう。同じ一年のはずなのに、態度や物腰のせいで連上の方が先輩のような気がしてしまうのだ。


「考えてみたんだが、君とあたし達は、お互いに有益な関係を作れると思うんだ。どうかな、協力し合わないか?」

「協力?」

「そう。効率的に新聞を作るのにパソコンは必要不可欠と言っていい存在だ。情報集めに、紙面の字組みからレイアウトまで──パソコンがあればできないことはない。噂に聞いたんだが、新聞部で使われているのは職員室のを買い替えた時のお古なんだって?」

「ええ──まあ。新聞部には、予算の余裕がないから」

「そうだろうね、新聞づくりにはお金がかかる。そこであたしの提案が意味を持ってくるわけだよ──ここなら、とりあえず校内では一番新しいパソコンが完備されている。プリンターやなんかの周辺機器も充実しているし、有効に活用できると思わないかい?」

「まあ、それは──でも」

「わかっているよ。神田部長だろう?」


 連上はにっこりと笑った。

 神田部長は情報処理部との接触を避けている節がある。植村は彼の真意を計りかねていたが、島崎の突然の退部処分と何らかの関係があるらしいことは想像がついた。


「だから正式に申し込むのじゃなく、君個人に話をしているんだ。部と部なんて大仰な関係を持たなくとも──あたしと君の友達関係の中でうまく回すのは十分可能じゃないか」

「と、友達」


 植村はびっくりした。連上との関係は、植村の中では顔見知りというレベルのものでしかなかったからだ。

 連上と直接話したことがあるのは一度だけである。五月に廊下を歩いていたところを唐突に呼び止められ、島崎に校内新聞を渡すよう頼まれたのだ。まったく接点のない人間にいきなり頼みごとをされたのには驚いたが、おおかた植村が新聞部の部員で、しかも島崎と同じクラスだということを同じクラスの友達から聞いたか何かしていたのだろうと解釈していた。しかし──連上の中では、あの二言三言の会話を経ただけで二人の関係は友達という形に定着していたらしい。

 いや──むしろそのくらいが健全な考えなのかもしれない、と植村は考えた。植村は自分を引っ込み思案だと自覚している。生涯通して付き合うような親友だけが友達というわけでもなし、一度話して接点を持ってしまえば、そのあたりの敷居が高くない人からすれば友達ということになるのだろう。そして、そういう人ほど友達が多い傾向にある──そういう目で見るなら、人気者の連上はいかにもそんなような意識を持っていそうではある。

 植村の内心の混乱を完全に把握しているような様子で、連上は大きく頷いた。


「そう、友達だとも。それで、どうかな叶ちゃん」

「え──ええと、協力し合う、って言ってましたよね。連上さんがコンピュータ室を自由に使わせてくれるのなら──私は何をすればいいんですか?」

「さすがに話が早いね」連上は笑みをますます大きくする。「島崎君に聞いた通りの聡明さだ。いや、協力と言ってもそう大したことでもないんだが、実はあたしの選挙戦の補佐をお願いしたいんだ」

「……え?」

「もうすぐ生徒会選挙があるだろう? あたしは生徒会長に立候補したんだが──島崎君を倒すには、君の力がどうしても必要なんだ。頼まれてくれないかな」

「え? え?」


 島崎を──倒す?

 連上と島崎は仲間ではなかったのか。何のために生徒会選挙で戦う必要があるのか。そこまでして勝ちたい理由とは何なのか。そもそも、自分に何ができるというのか。

 いくつもの疑問が植村の意識を占拠した。

 まったく話が見えない──臆病な植村であれば、通常ではこんな何が起きるのか見当もつかないような話には乗らない。

 しかし。


「嫌かい?」

「あ、あのいえ別に……嫌というわけではないですけど。はい」


 首を縦に振ってしまっていた。

 別に連上に気を遣ったわけではない。拒否することもできた──答えを保留することだってできたはずなのに、植村は気付けば肯定的な返事をしてしまっていた。

 ──君の力がどうしても必要なんだ。

 連上のその言葉が、植村の核となっている部分を刺激したのだ。

 校内でも有名な、勉強もスポーツもそつなくこなす完璧な美少女が、自分の力を評価してくれている。その上で頼ってくれている。

 生来思慮深くもある植村は連上の言葉を鵜呑みにしたわけではない──混じり気なしの本心だとはとても思えはしなかったが、それでも自分が必要だという言葉には惹かれるものがあった。

 それはいつも抱えている、漠然とした恐れ──背を向けられることへの恐怖が裏返ったものでしかないと、わかってもいたのだが。

 植村の満更でもないような返答に、連上は華やかな笑みで応えた。


「そうか、じゃあ引き受けてもらえるんだね。いや良かった、君に断られたらと思うと夜も眠れない思いだったよ──お返しにこの部屋の設備はいつでも自由に使ってくれて構わないからね。それじゃ、これからよろしく頼むよ叶ちゃん」

「あ……あの、えっと、はい」


 そんなわけで。

 自分でもよく話が理解できないうちに、植村は連上の補佐役となったのだった。

 



 植村はコンピュータ室に到着し、戸を開けた。


「──ああ、鶴崎君。この前のお願い、考えてくれたかな?」


 連上が携帯に猫撫で声を吹き込んでいた。


「ううん、そんなことないよ。後になればわかるけれど、君に面倒なことを押しつけるつもりなんて全然ないんだ。もちろん無理にお願いするわけにはいかないけれど──もしよければ、あたしのために少しだけ力を貸してもらえないかな?」


 部屋の中に入り、後ろ手でそろそろと戸を閉める。


「ありがとう! 嬉しいな、君なら引き受けてくれると思ってたよ。うん、それじゃ詳しいことはまた後でね」


 連上ははしゃいだ声でそう言うと電話を切った。携帯を脇に置くと、表らしきものに鉛筆で丸印をつける。


「ふふん、これで半数はOKだ。あと五人をどう落とすかだな──」

「あの……連上さん、何の相談をしてたんですか?」

「ああ、叶ちゃん」


 連上は振り返って右手を上げた。


「いや、何人かの友達に働きかけていたんだよ──生徒会選挙に立候補してくれるようにね」

「立候補?」

「そう──それもみんな生徒会長にね。A組からは鶴崎亮太君、功刀弘毅君、小野寺明日実さん。B組からは三田香苗さんと長屋優一君。C組からは葛西るるさんが出て、D組からは六番町詩乃さん、七川光さん、内山朋子さん、秋原当麻君だ」

「それって──」

「そう」


 連上はにやりと笑った。


「学年中で噂の的になっている美男美女を根こそぎ生徒会長候補に据えてやるのさ」


 そうなのだ。

 連上が今読み上げた十人は学年の中でもトップクラスの美形揃いで、華々しい色恋沙汰には比較的無頓着な植村でも知っている程の人気者ばかりなのである。そこにあらゆる方面で評判の高い転校生、連上千洋が加わる──まさに錚々たる面子だ。

 島崎の印象を薄めようという戦略なのだろうか、と植村は考えた。これだけの人物が揃った中では、確かに島崎は通常にもまして凡庸に見えてしまうだろう。そして票は入りにくくなる──それ自体は間違っていない。しかし。


「でも、そんなことしたら──票がばらけて大変なことになるんじゃ」

「なるだろうね」


 連上は頷いた。

 そう、確かにこれで島崎の得票率をある程度下げることは可能かもしれない。しかしそれは連上の勝ちを保証する結果になってはいないのである。むしろ多くの人気者の中に埋もれることで勝敗は限りなく曖昧になってしまう。必ずしも連上に有益な一手ではないような気がする。

 連上は笑った。


「大丈夫、おそらく君の心配は杞憂に終わるだろう。あたしの目的は──別にある」

「そうなんですか。でも、よくそんな人脈があるんですね……ここに転校してきてからまだ半年も経ってないのに」

「うん、以前にちょっとした出会いがあってね。演劇部の人達にはそれなりに顔がきくようになったのさ」


 言われてみれば十人のうち半数以上は演劇部で芝居をしているのを見たことがあった。それに演劇部は文化部中最大規模の部活だから、各部員の友人関係などから辿っていくことができるのならコネクションを作ることのできない生徒というのはほとんどいないことになるだろう。

 しかしどうして連上が演劇部と繋がっているのか──植村には知る由もなかったし、連上に訊いても教えてくれるとは思えなかった。


「さて、それじゃ早速で悪いんだけれど仕事をお願いしようかな。まずは、現時点で出馬を表明してくれた五人が届け出をしたという確証を得るために、立候補書類提出の立会人になってほしい。必要な書類は全部揃えてあるから、この五人の所を順番に回って間違いなく見届けてきてくれ」


 連上が差し出した書類の束と立ち会う立候補者のリストを受け取りながら、植村は複雑な思いを感じていた。

 ミス、あるいは裏切り──それらがどんなに小さな可能性でも、確実に潰すために立会人を介在させて確認する。つまり、連上は誰一人として手放しで信じてはいないのだ──それは、補佐役として常に近くにいる植村自身でさえも例外ではなかった。連上は植村を補佐役に迎えるにあたって陽陵学園の実態について通り一遍の説明はして聞かせたが、植村が突っ込んだことを訊くと曖昧にごまかしてしまう。

 すべてを明かしてくれないということは、未だに完全には信用されていないのだ──そう考えると、少し悲しかった。

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