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今際の際に聴くならこの音が良いと思ったのは、わたしがまた三つか四つのときだ。
凡才である両親から、なんの手違いか音楽の神様のような子供が産まれた。
それがわたしのにいさまである。
家族というごく小さな社会においてにいさまは王様で、わたしと両親は彼に隷属する奴隷だった。
奴隷は王様につき従わなければならない。
一人だけ抜け駆けして自由を求めるなんて、あってはならないのだ。
わたしは、自分が美しいだけで、学のないつまらない女だと理解している。
わたしの顔の造形はとてつもなく美しかった。
でも、それだけなのだ。
わたしは人間の外見的な美醜に大した価値を見出せない。
わたしは肉の微々たる位置の違いより、にいさまの奏でる春の日差しのようなピアノの声を愛している。
にいさまの演奏は両親から自室すら与えられないわたしがただ一つ心の拠り所にしていたもので、わたしの理想の全てなのだ。
しかし、にいさまが海外に留学してから、家という監獄にわたしの居場所は無くなってしまった。
家に帰りたくない。一夜を越す宿を得るために、わたしは立ちんぼをする。
携帯電話なんて持っていないわたしは、運良く話しかけられるのを待つだけだったが、幸いにも客足が途絶えたことはない。
わたしを買った客の一人に、わたしの夫である春瀬さんはいた。
春瀬さんの手は、わたしを守ってくれる。
守ってくれるけれど、それはわたしを常に安全地帯に囲っておくという意味ではない。
そもそもそんな男だったら、誰のものかもわからない子種を腹に宿した女からのプロポーズなんてきっと受けたりしないだろう。
わたしが春瀬さんを選んだ理由は、安定した収入があって、育児ができる子供好きで、わたしに甘くて、何より春がつく苗字だったから。
わたしには人生を賭けた夢がある。
それを叶えるためには、わたしは結婚して自分以外の安定した収入源を得る必要があった。
わたしは、子供に必ず音楽をやらせたい。
結婚式なんかしない、そんなくだらないことにお金をかけるより、わたしはお腹の子がのびのびと音楽の才が伸ばせる環境を整えることを優先したいのだ。
春瀬さんは、わたしの子育てへの熱量に少し驚いた様子だったけど、いつだって穏やかに笑って快諾してくれる。
それは子供が産まれても変わらなかった。
あとひと月もすれば、暖かな季節が再び巡り、桜の咲く季節になる。
今年の春、娘のショコラは四歳になるのだ。
自らの手腕に惚れ惚れするほど、計画は順調だった。
少し予想外だったのは、ショコラを産んでから毎月一通だけ、わたしへの罵詈雑言と許しを乞う内容の長文メールが来るようになったことだろうか。
暗闇を背景に、リビングの蛍光灯に照らされる夫と娘。
二人が眠っていることをきちんと確認してから、ショコラの手に握られていたリモコンを抜き取る。
チャンネルが切り替わり、テレビはニュースを流し始めた。
内容は海外を拠点としている天才ピアニストが五年ぶりに来日したというものだ。
わたしは、ショコラの寝顔を見下ろした。
わたしとにいさまの愛の結晶が、想像した通りの姿に成長して、眠っている。
すやすや、穏やかに、何も知らず、自分がどういった経緯で産まれたかも知らずに。
「ありがとう、春瀬さん」
わたしは夫の耳元で囁いた。
わたしが居なくなっても、きちんと持ち直してね。約束よ。
夕食に入れた薬の量なら、二人が起きるのは早くても明日の朝だ。
わたしは二人の頭を優しく撫でてから、玄関を出た。もう帰ることもないだろう。
外に出ると、薄い頬に雪の気配を感じた。
空洞のような満月が灰色をした雲と共にたゆたって密やかさを守っている。
静寂に殺されそうな真夜中の公園に、彼はいた。
彼はベンチに座って、夜空を見上げている。
それから深く溜息を吐き出し、足元に置かれたボストンバッグから煙草をひとつ取り出した。
火をつける動きを止めたのは、わたしの存在に気づいたからだ。
「いい度胸してんな、お前……」
地を這うような低い声で、彼ははっきりと怒っていることを示した。
強い憎悪と深い恨みを、瞳に焚いている。
「……どなたでしょう?こんな夜中にお呼び出しをして」
わたしの言葉を皮切りに、彼は激昴した。
「お前、なんで、い、いきなり手紙を寄越さなくなったんだよ!?」
「あの、どなたか存じませんが、わたしはもうあのようなことは辞めたんです。必死だったことがはずかしい。今は結婚していて、子供もいます」
わたしはにっこりと無垢な笑顔で答えた。
夫との子供ではないけれど、とはもちろん言わない。
「あのですね、実はわたしって、あなたがいなくても、ずっとしあわせなんですね。それに、わたしはあなたのことを本気で愛したことなど、一度もありません、ありえません」
わたしの言葉に彼は目を見開き、到底信じられないものを見るような顔をした。
しかし、やがてその表情は強烈な嫌悪へと形を変える。売女、肉便器、と罵倒を浴びせながら、彼はわたしの首に掴みかかった。
喉を押さえ込まれて、バランスを崩し、後ろによろめいて倒れ込む、いつの間に取り出したのか、彼は包丁をわたしに向け、振り下ろす。
ドンッと腹部を殴られたような感覚と共に、燃えるような痛みが全身に伝わり、視界が揺れる。
「うそだ、うそだうそだ、沙那は、彼女だけは、ずっと僕だけをあいしてくれるのに!」
彼は叫ぶように言った。わたしが言葉を発する前に、彼はわたしの内臓から包丁を引き抜き、再び突き刺す。何度も繰り返した。肉を異物で割られる痛み。男の荒い呼吸。血走った眼。
包丁から血液が伝い、赤く濡れた握り拳。
月の光に照らされる彼の、青い髪。
あら、たいへん、どうしましょう。
彼の、にいさまのピアノを奏でる綺麗な指先がわたしの血で汚れてしまうわ。
はやく何か言わないといけないのに、上手く言葉を発することが出来ない。
わたしをひとしきり刺すと、だくだくと涙を流しながら、にいさまは自らの喉に包丁を突き立した。
にいさまが何かを言っている。でも聞こえない。にいさまの身体がわたしの上に倒れる。
ぱしゃりと、生暖かい血潮が頬に飛び散った。
視界が霞んでいく、空気の振動もやがてわからなくなるだろう。
にいさまはせっかちね。せっかくの心中なのに、睦言を交わさないなんて。
わたしは何か大きな誤解をさせていたみたいだし、せめて本心の一言でも叫んでから刺されたかった。
わたしは彼の死体に向け、言う。
にいさま、あのね。
「わたし、は……」
あなたの、才能だけが欲しかったの。
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