26、21、26、??。

空気が甘い、大学三年の春のことだ。

俺は大学帰りに五歳年下の女の子、沙那ちゃんを拾った。

コンビニは白と青に光って、夜を照らしている。

駐車場のコンクリートはとっくに冷たくなっているのに、沙那ちゃんはしゃがみこんでいたのだ。

コンビニの中の壁掛け時計は深夜の十二時を回り、日付は今日から昨日へと切り変わる。

制服姿の沙那ちゃんは、チェックのプリーツスカートから覗く一点の翳りもない両膝を胸に抱えて俯いていた。

滝のように流れる華やかな青色の長髪が地面につきそうで気が気じゃない。

「君、大丈夫かい……?」

コンビニの光は逆光で、うまく表情が見えなかった。


俺は一緒になってしゃがみこんで目線をあわせる。

そして彼女の甘いかんばせを見て、不意に頭の中を稲妻が走ったような衝撃を感じたのだ。

頭の隅で天使がラッパを吹いている。

自分の心臓が高鳴っていることを自覚して、俺の心臓の音が周囲の人間に聞こえるのではないかと心配になった。

「だあれ?」

ちらりとこちらを見た沙那ちゃんは、どこか舌足らずな口調で問いかける。

俺は彼女の薄桃色に染まる頬と色白の肌の中にある不自然に紫色を見て、それが殴られた跡だと気づいてしまう。


ポケットからハンカチを取り出し、俺は逃げられないように出来るだけそっと右手を伸ばして、彼女の頬に布を当てる。

「痛いなら、痛いって言えばいいんだよ……?」

俺の言葉が何らかの琴線に触れたのか、沙那ちゃんは大きくて丸い瞳にわっと涙を浮かべた。

なんの変哲もない少女の涙は、梅雨時の雨粒よりも透明だ。

弱々しく白磁のような手が飛びてきて、掴んだら氷のように冷たい。

「あのね、ですね、わたし。今日は家にかえれないかもしれないんです……」


「君、ご両親は?」

「お母様は、わたしを要らない子だと、言って……」

たった数分の会話で俺は沙那ちゃんを誰よりも大切にする決心をしてしまった。

それは沙那ちゃんの可憐な容姿と言葉に吸い寄せられるあどけなさが、彼女の周囲に渦巻いているであろう現実的な不信感をさながら全て覆してしまうせいだろう。

「俺が泊めてあげるって言ったら、君はどうする?騙されてノコノコついてきてくれるかい?」

沙那ちゃんはにっこりと笑って、腕を絡めてすり寄ってきた。


春の夜道は月光を受けて、桜が白くぼんやりとした光を湛える。

彼女の温もりを手放すには、桜の甘い匂いが強すぎた夜だった。

泊まる部屋を与える代わりに、沙那ちゃんは春を売る。

幸いにも俺は一人暮らしだった。

ずっと此処に居たら良いと口にしても、沙那ちゃんは時折思い出したかのように部屋を出ていく。

最初は学校に行っているのかと思ったが、それにしては頻度が少ない。

気になって本人に聞くと、あっさり答えてくれた。


曰く、定時制高校に在籍しているが、授業にはまともに出席しておらず、既に一年留年が確定している。

沙那ちゃんは音楽が好きで、体育は嫌い。

また理数系全般も苦手らしく、彼女は異分母の計算が出来ない。

外出時は実家に帰ったり、別の男と会っていただけだと言う。

沙那ちゃんは清純無垢な出立ちとは裏腹に、中々の不良少女である。

俺は彼女に恋をしていた。

言葉を交わした時に自覚したのは抗うことの出来ない熱烈な恋で、敗北感にも似ている。

初めて出会った日に芽吹いた恋は、何を栄養にしているのか年月を重ねる度にスクスクと育っていった。


人間の本質なんてそう変わるものじゃない。

出会った日から数年後、沙那ちゃんが子供を身ごもったと告げてきた日も、妊娠自体は別段驚かなかった。

相手が誰だとか、そんなことはどうでもいい。

彼女が俺にそれを打ち明けてきたことの方が遥かに重要だった。

つまるところ、俺が沙那ちゃんを愛したのは、何も彼女が美しい少女だったからではない。

むしろその逆、俺は沙那ちゃんのどうしようもなく憐れで破綻した中身に恋をしていたのだ。

俺は彼女を誰よりも何よりも愛している。

それは配偶者に対するような穏やかな愛ではなく、崇拝という言葉の方が当てはまるだろう。


「あのね。結婚して、ほしいの」

結婚という単語が新鮮に耳に残った。

「わたし、どうしても、ほしいの。この子を産みたいの。おねがい。わたしをあなたにあげる。だから、この子を、どうかわたしにくださいな」

それは沙那ちゃんが口にした初めての執着の言葉のように思えた。

涙の溜まった大きな瞳で俺を見つめ、冷たい床に膝を着いて祈るように指を組む。

今この瞬間、憐れな彼女を救うのは神ではない。この俺なのだろう。

辛抱たまらなくなって、俺はソファーから腰を浮かせ、沙那ちゃんを抱きしめる。

「ああ、しよう。結婚。三人で家族になろう」


しかし、沙那ちゃんが子供と共に四度目の春を迎えることは無く、俺の最愛の妻は桜吹雪のようにヒラヒラと黄泉の国へ飛んでいってしまったのだ。

思えば、彼女と過ごす日々はいつも春の日差しを思わせるピアノの演奏が流れていた。

「ひでのりさん、ママってあたしのこときらいなのかなぁ?」

和琴教室に行く準備をしながら、今年で八歳になる愛娘のショコラはしょげたように呟く。

ショコラは昨日のうちに畳の上に置いたきちんと折り畳んだ着替えを手に取って、のろのろした動きで着替える。

ショコラが一人で着替えができるようになったのは、いつからだったろう。


少なくとも最後に手伝ったのは小学校に上がる前だ。

「どうして、そんなこと思ったんだい?そんな事あるわけないじゃないか」

俺はショコラの声をよく聞く為に、CDの再生音量を下げる。ピアノの音が小さくなった。

「ショコラのこときらいだから、ショコラにはママがいないんじゃないの?」

「まさか!お母さんは君を愛しているよ。もしかしたら、俺のことより愛しているかもしれないねえ」

「そうかなー?」

桜色をした上着のボタンを留めながら、ショコラは納得がいかない顔を斜めに傾ける。


雲ひとつない晴天を抜き取ったような髪が、サラリと揺れた。

ショコラは着替えを終えて、洋服簞笥の脇にある長方形の姿見の前に立つ。

肩につかないくらいの髪を手櫛で軽くといて、それから気まぐれにくるくると踊っていた。

「じゃあ、ママってあたしが和琴で世界一になったらわーい!ってなるー?」

先程とは打って変わった明るい表情。

幼子の無邪気な姿に、微笑ましい気持ちになる。

「もちろん、嬉しいだろうねえ。彼女は、君のお母さんは、音楽が誰よりも何よりも大好きだったんだから」

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