1978年 南米にて

小野まる。

1978年11月 南米にて 

「世界はいつだって、簡単に崩壊します。」

男は、壇上に立つ司祭を見上げる。

ついに始まった。今日という日を、どれほど心待ちにしてきたか。

「それは、何も世界を覆い尽くす大洪水が起きたり、空から火が降ってきたり、核戦争が起きたりなどという物理的な要素を指しているのでありません。

 何気ない日常の繰り返しの中で、世界は意図も容易く崩壊するのです。

 ある日掛かってきた一本の電話で。紙切れ一枚で。誰かの何気ない一言で。崩壊の兆候はどこにでも散りばめられています。

 なんと恐ろしいことでしょう。我々が信じてきたもの。大切にしてきたもの。拠り所にしていたもの。軽蔑していたもの。嫌悪していたもの。

 全てが次の瞬間には引っくり返るのも、まぁこれと言って珍しい話ではありません。」

司祭は言葉を区切り、深く息を吐く。

緋色のマントに、同じく緋色の天まで届くような大きな帽子。

自身の威光を示すように各所に宝石が散りばめられている。

「なぜなら、我々は弱い生き物で、何かを信じ、縋らないと生きてはいけず、その『信じるもの』が人や状況よって違うからです。

 この世に生まれてくるもの皆例外なく同じです。ある者は金に縋り、またある者は情に縋る。ある者は権力に縋り、ある者は神に縋る。キリスト教徒の前で十字架を燃やせば袋叩きにされますが、仏教徒の前で同じことをしても、精々眉を顰められるだけです。往来で人を殺せば殺人罪ですが、戦場で人を殺せば英雄です。ある国では子供は宝ですが、ある国では子供は邪魔な人間未満の存在です。ある者にとっての歓喜は、別の人間の絶望。ある者にとっての栄光は、別の人間の屈辱。ある者にとっての宝は、別の人間のゴミ。『あの車が欲しかったのに。』といって、精神を病む金持ちがいるかと思えば、『今日1日を神に感謝する。』と言って幸福な眠りにつく、無益で貧しい孤独な老人がいる。

 おかしな世の中。不条理と不合理と理不尽に塗れた悲しい世界です。」

司祭が片手を上げる。すると、透明な液体の入った小さなグラスが会場に集まった人々の間を行き渡り始めた。

会場にいる人間は1000人といったところか。だが、一つの空間に大勢の人間がいるにも関わらず、会場はしんと静まり返っている。誰1人、物音を立てない。

男は、グラスを受け取る。感激のあまり、涙が出そうだった。自分なぞが、この場所に居られる奇跡に深く感謝した。

「皆様は祝福された人間。大切な私の愛する子供たち。もはや、あなた方神の子に肉体など邪魔なだけ。

 さぁ皆様。今日という素晴らしい日に皆で、神の国へ旅立とうではありませんか。」

会場から拍手が起こる。男の隣にいたうら若き女性は感激のあまり、涙を溢している。

男の前にいるのはやっと6歳になったばかりという頃の子供だろうか。何が起こっているのか理解していないようだが、隣に座る親の顔色を伺いながらおずおずと拍手をしている。


「や、やっぱり嫌だッ! お前たちは狂っているッ! 俺は帰る! 妻や子供たちのいる家へ帰るぞ!」

突然、会場の端で男の怒声がした。

急に立ち上がった男は、会場の出入り口へ向かって走り出した。

すると、会場の壁に沿って待機していた教団の幹部が男に向かって発砲した。蛙が潰れたような声を出し、男がその場に倒れ込む。周囲に血が飛び散った。


「なんてこと。我々の兄弟の中に裏切り者が潜んでいたようです。」

司祭は心底悲しそうに、神へ謝罪の言葉を呟く。

会場の中に動揺が広がる。さざ波のように、不安と疑念が伝染していった。

「可愛い子羊たち。どうぞ、落ち着いてください。冷静さを取り戻してください。」

司祭は人々によって呼びかけるが、数人が叫び声を上げて、会場の出入り口に走り出そうとした。だが、今度は立ち上がった瞬間、銃殺されていく。男の頬にも返り血が飛び散った。

 だが、男は動じない。周りの皆と同じように、ただ真っ直ぐに司祭を見て、次の言葉を待つ。しばらくすると会場に再び静寂が戻った。

 司祭は、会場にいる人々に向かって、ゆっくりと拍手した。他の教団幹部も続く。会場が拍手の音に満ちる。

「素晴らしい。あなた方は最後の試練をも乗り越えた。」

司祭は、会場に配られたのと同じグラスを目線の高さまで持ち上げる。

「では、愛すべき神の子供たち。そろそろ旅立とうではありませんか。神の国に入る切符は既に皆様の手の中に。」

司祭は、会場にいる1人1人と目を合わせるように、ゆっくりと周囲を見渡し、微笑んだ。

「この世界は我々が生きるには、あまりに残酷だった。だがそれも全て、神が用意された試練。我々が生きるべき場所はもはやこの地上にはないのです。

 それでは皆様。また会いましょう。」

男は、しばらく周囲の様子を見ていた。

グラスの液体を飲み干したものから、バタバタと倒れていく。

ある者は穏やかな、ある者は壮絶な、それぞれの死にようで神の元に旅立っていく。

目の前にいた子供は周囲の熱気に怯え、泣き出した。親が叱りつける。それでも泣き止まない子供に痺れを切らし、親は子供の顔を押さえつけると、無理矢理グラスの中身を飲ました。喉を掻きむしり、親に助けを求めながら、子供は絶命して行った。


男は微笑んだ。そしてゆっくり、グラスの液体を飲み干した。



____1978年 南米にて

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1978年 南米にて 小野まる。 @ono_maru26

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