第6話 リュブリャナ

 スロヴェニアは北東をジュリアン=アルプス山脈に抱かれ、西南端にアドリア海を臨む自然豊かな国である。1991年、ユーゴスラヴィアから最初に独立を果たしたこの国は、現在クロアチア・ハンガリー・オーストリア・イタリアと国境を接している。首都リュブリャナは国土のほぼ中央に位置し、山間部に囲まれた平地に30万人弱を擁する同国最大の都市である。そして初代委員長を輩出した事実からも窺えるように、委員会創成期において、スロヴェニアこそが主要な役割を担ったのである。

 ペレウスはリュブリャナ空港から直接コブリーツ邸に向かった。『リュブリャニツァ』の編集責任者だったコブリーツ氏は所謂地元の名士で、彼の自宅にはこの街に関する今昔多様な事柄が齎されるのだ。記事を発見して以後、休暇の度に彼の家を訪れていたペレウスは、今回もコブリーツ父子の高配で晩餐に与ることとなった。

 市街中心に位置するプレシェレン広場、コブリーツ邸はそこから東へ伸びる遊歩道に佇む3階建ての建物だ。父子の住空間は上2階を占め、1階は彼が開業した本屋になっている。店の脇にある入口に滑り込み、低い天井に注意して階段を上ると、赤茶色の重厚な扉の前に辿り着く。ペレウスがベルを鳴らすと、コブリーツ氏と息子のマリアンが現れた。

 コブリーツ氏は今年70歳を迎える好々爺だが、15年ほど前までは、英語とドイツ語の教師をする傍ら、独立派のリュブリャナ文化人が成す論壇を牽引する1人だった。彼は持ち前の語学力を活かして、西側先進国で発行された政治経済に関する著作を紹介した。それら書籍輸入の伝手の一部は、今も本屋の店主に継承されているという。親子2人の寝食には些か広過ぎる家は、内装に無頓着な住人の影響で些か殺風景である。


 食卓に着くと、父子は改めてペレウスの北京赴任を残念がった。そして話題は自然と、つい先日「総論」が公開された「マケドニア」名称問題に関するものになった。歴史的名称に関する国際問題として、ギリシャとマケドニアと委員会は、1992年以来調査と協議を行ってきたのだ。

「これで3度目の総論か。儂も委員会のウェブサイトで拝見したよ。」

「ありがとうごさいます、本当に願ったり叶ったりです。」

 所謂「マケドニア名称問題」は、ユーゴスラヴィアから独立し成立したマケドニア共和国に対し、ギリシャが国名に「マケドニア」の語を入れないよう抗議した問題である。そも「マケドニア」とは、マケドニア共和国とギリシャの中央マケドニア地方両方を含む地域を指す名称だった。両国の緊張関係は、外交や経済への波及はもちろん、国名という性質上国連やNATOも対応を迫られる国際問題へと発展したのだ。

 ギリシャは委員会へ調査要請を行い、アテネ本部に隣接するギリシャ本部では、「マケドニアと呼称される地域・集団の歴史的経緯に関する調査」グループが結成され、新人時代のペレウスもその一員に充てられた。テッサロニキもマケドニアに含まれるので、ペレウスも中立と言いつつ、深く感心を寄せる問題ではあった。


「だが協議自体は、依然平行線らしいな。この名称問題は、ある意味で連邦瓦解の遺産と言えなくもないから、色々考えさせられるよ。」

コブリーツ氏は言った。委員会は「総論」の改訂版を2度公開したが、協議の終結には至っていない。両国とも委員会条約加盟国であるため、調査を進めやすいには違いない。しかし双方この問題に関しては非常に敏感だった。

「以前君が言ったよな。アテネ本部から派遣された上級委員が、要請国の本部に調査グループを設置し、その調査結果に基づいて「総論」を執筆すると。今回ギリシャ政府の要請に応じて、ギリシャ本部に調査グループを作った上級委員は、ギリシャ人なんだろ。やっぱりマケドニアに不利だと思うのだが。」

マリアンの言葉にペレウスは頷いた。

「君の言うとおりだ。結局その土地の歴史に一番詳しいのは当事者だから、ある程度は仕方ないと思う。でも実際マケドニアにとって、必ずしも不利とは限らないんだ。例えば人員の格差を根拠に調査が不公平だと主張すれば、大抵の場合調査内容を批判し差し戻すことも出来る。それにそもそも、一概に頭数の差が即ち質の差とは限らないよ。私も両方の研究者と話したけど……。」

 ペレウスは両国の研究者が参加する会議の調整を担当していた。こと「歴史認識」については、国毎に異なる見解が主流になっていて、それらが共有されない状況は珍しくない。そのため委員会は、双方の研究者たちに学術交流の場を提供する必要があった。

「いい着地点があればいいが……。なかなか難しい問題だな。」

「全くです。私は今回の調査で、土地や島・海域そして国家を何と呼ばせるかが、かなり根の深い問題だと改めて感じました。ひたすら主張し続けて既成事実を作るか、武力や経済競争で奪取するか、より手っ取り早い方法は色々あります。でも委員会としては、同じ土俵で話し合う選択肢と手段を提供したい。それを理解し、敢えて難しく面倒な方法を取ってくれる当事者国には頭が下がります。」

 コブリーツ氏はペレウスのグラスにワインをつぎ足して言った。

「大切なのは、相反する歴史が、経済や軍事の優劣などの要因で、なし崩し的に決着するのを避けることか。将来遺恨を生まないためにも。しかし栄転とはいえ、北京行は些か消化不良だな。」

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