第5話 モデラ委員長の会見

 8月20日夜。無事ウィーン駅に着いたものの、曄子寧はホテルに到着するなり眠り込んでしまった。翌朝目覚めると、彼は携帯式「電子アルバム」を使って、昨日撮影した写真を2,3枚選び祖父に送信した。曄子寧は北京の自宅に1人で住んでいる祖父と、この機械で写真を送って安否確認にしているのだ。

 その後彼はロビーに降りて、備え付けられた英字朝刊を手に取った。新聞の見出しには、調査共有委員会が「歴史調査共有委員会条約の改正」と銘打った会見を行ったとある。流し放しのテレビからは、昨日の会見のダイジェストが流れてきた。

 改正条約調印式は、9月7日にアテネのコロナキ・ホテルで行われる。条約改正の主な柱は参加資格の拡大と「周知」状況の改善で、それに対応する条文上の改正が行われたのだ。曄子寧がそれを知っているのは、その問題点を指摘し現委員長たちと解決を試みたのが他ならぬ祖父だからだ。

 だが今回それ以上に注目されるのは、新規加盟国の増加だという見方もある。7日に改正条約を批准することで、準加盟から正加盟へと引き上げられる中国はもちろん、ほぼ全ての主要先進国が新規加盟することになるのだ。これは祖父が非公式に掲げた3点目の柱、即ち委員会の実行力不足の改善への解でもあった。

 画面に大きく映し出されたモデラ委員長は、会見の総括として堂々と宣言した。

「当委員会は、1975年の国際歴史記述調査共有委員会条約の発効以来、「提唱」者であり当委員会の名誉顧問も務める曄蔚文氏、及びミュンヘン大学でドイツ封建制の研究と教育に尽力したミラ博士、この2人が掲げた理念に忠実な姿勢を貫いてきました。加盟国間における歴史認識の齟齬を緩和し、当事国以外の国にも理解を促すことが、国際社会において如何ほど重要な意味を持つかは、贅言を要さないでしょう。しかし社会情勢の急激な変化に伴い、1975年条約では根本的に対処が困難な事例が急増しているのも事実です。そこで当委員会は、現在の情勢変化に対応するべく「改正国際歴史記述調査共有委員会条約」の策定に取り組んできました。それには昨今急激に普及するインターネット環境を巡る条項も含まれています。そして当改正条約は、準加盟を含む現加盟国、そしてアメリカ・イギリス・イタリア・カナダ・ドイツ・日本などの主要国首脳会議参加国、所謂G8のメンバーにおいても、既に批准決議が行われています。」

 G8といいつつ、モデラはロシアが条約批准を見送った事には言及しなかった。妙にひ弱な印象を受ける司会の挨拶で会見映像が終わったのを見届けると、フェイトンはウィーン発の列車に乗るため新聞を片付けた。ロビーには既に数人降りて来ていたが、昨日のニュースだからか、画面に注目する客は1人もいなかった。

 

 曄子寧は国境の駅で入国手続きをすると、座席についてリュブリャナでの計画を

おさらいした。旅行で予定を詰めがちなのは間違いなく祖父の影響である。彼は唯一の家族となった曄子寧を、時間が許す限り色々な場所へ連れて行ってくれた。

 そう、曄蔚文は孫を溺愛していた。研究仲間や学生が知ると驚くが、彼は孫に厳しい態度を見せた事は1度も無い。尤も孫の方が反骨精神に欠け、討論自体が成立しないという面もあるが。とにかく彼にとって唯一の縁者は、亡き息子夫妻の1人息子だけだった。だから曄子寧のイギリス留学が決まると、祖父は今度も骨を折ってその手助けをした。

 2003年8月末日、新生活を始める準備を一通り終えた曄子寧は、祖父と2人でラッセル・スクエアのベンチに座って景色を眺めていた。祖父はこれからロンドン大学のアジア・アフリカ研究院に招かれて、小さな講演会をする予定なのだ。その日彼は初めて巌のような表情で訊ねた。

「お前の専門は国際都市間の輸送インフラだって?歴史地理学をしたいと聞いた気がするが。」

孫は指摘を覚悟していたが、十分な奨学金を取ったのに、祖父の叱責するような口振りに動揺した。

「はじめはそのつもりでしたが、主題を決める段階で行き詰ってしまって……。それで教授が中国と欧州を陸路で結ぶ研究をしなさいと。でも歴史的な意味でも――。」

祖父が小さく溜息をついたので、孫は途端に口を噤んだ。暫しの沈黙を経て、曄蔚文は相手に反論させない口調で話し出した。

「私にはそのテーマを示した教授の意図が分かる。だが今の回答を聞く限り、お前は分かっていないようだ。お前も研究者になるなら、自分の研究を社会に役立てなければならんわけで、ここ10年の未来を展望した時、そのテーマは金になるし社会の役に立つ。」

 曄子寧は奨学金応募の為に何度も練った研究意義を、説明しようとして早々と断念した。自分が多少補足したところで、祖父を納得させることなどできまい。曄蔚文は孫から顔を逸らして、恰も自分に語りかけるように呟いた。

「だが金銭的利益や利便性が、即ち社会への貢献とは限らない。何を主張して如何なる貢献とするか、お前は常に考え続けなきゃならんのだ。その辺りを放棄している者に限って、自分の主張を妙に極端で煽動的に喧伝する者もいる。お前も気をつけなさい。保証された成果なら悩まないで済む。センセーショナルな事を言えば大勢が振り返ってくれる。だが…………。」

 曄子寧は電子音で目を覚ました。額に浮かぶ冷や汗を思うに、どうやら魘されていたらしい。この電子音は車内放送で、列車は間も無くリュブリャナ駅に到着する。彼はバックパックを背負うと、観光目的らしき乗客に紛れて降車した。ホームを見回すと、やはりスーツ姿のアジア人が4,5人ホームに降り立っている。曄子寧は彼らに背を向け、速足で駅を後にした。


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