残暑、長い一日

村田天

残暑、長い一日

 畳敷きの九畳は七人も入るといっぱいだった。


 室内はエアコンがついていたけれど、ガタがきてるのかさほど効果はないように感じられた。これでも外よりはマシなんだろうけれど。もう秋が来てもいい頃なのに、今日はまだ暑い。


 わたしはその日、大学の友達の望美がサークルの人たちと遊ぶというのについてきた。彼女以外は知らない人ばかりだったけれど、みんな明るく話しかけてくれて、人見知りなわりに気にならなかった。


 途中からひとり男子が遅れてきた。


「おー、しんぺー来た来た」などと声があがる。その人は「あっぢぃ」と言いながら部屋に入ってきて、わたしを見て「あれ」という顔をした。知らない顔がいたからだろう。


 望美がわたしの肩に手を置いて「そのでーす」と雑に紹介して彼が「苑ちゃん……」とリピートした。


 そのままわたしの目の前に座った彼は手に持ったペットボトルに口をつけて「うちのサークル入るの?」と言って笑う。


「いえ……わたし、友達とルームシェアしてるんですけど、今日、その子の遠距離の彼氏が来るので、家を空ける予定なんで……」


「ウチに泊まるんだよねー」


 望美が笑いながら言うのに頷く。


 そんなに頻繁にあることでもないのでこんな時くらい家をあけるのはやぶさかではない。望美の話だとこうやって誰かの家に集まって朝までしゃべって適当に寝たりすることもあるらしいので、それならそれでもいい。


 一時間ほど経った時、望美がスマホを見ながら小さな悲鳴をあげた。


「ごめん、苑。あたしちょっとバイト行かなきゃなんなくなった。ていうかバイトだった。終わったら連絡する」


 慌ただしく立ち上がって出ていった。

 彼女はバイト先でシフトを頻繁に変更したり交換したりする。その上性格がうっかり者なので、それをよく忘れそうになっている。今日も忘れていたらしい。


 女の子のひとりが暑さで体調があまりよくないので帰るといって、もうひとりの女の子と一緒に帰っていった。


 それから十分もしないうちに「あ、俺帰る」と声が聞こえて男の子がひとりスマホを片手にニヤニヤしながら勢いよく立ち上がる。


「なんだよ」

「彼女がッ! 俺にッ! 会いたいんだって!!」

「クッソムカつくな……。じゃあ俺も今日は早めに帰ろうと思ってたから、ついでに出るわ」


 ゲラゲラ笑いながらどつき合いながら「またな」「シンペー羽ばたけ」などと言いながら出ていった。


 しばらくの間、最後に遅れて入ってきた男性と三人で少し話していたけれど、彼が腕時計を見て申し訳なさそうな顔で立ち上がる。


「悪い。俺これからバイトなんだけど……」

「あ、そう、なんですか……」

「コーノ、女の子とふたりきりだからって妙なことすんなよ」


 ばたんと扉の閉じる音を聞いて、気がつくとわたしだけ残されていた。もちろんひとりきりではない。家主の、コーノ君はいた。


 わたしは初対面の男性の家でふたり、向かい合って畳に座っていた。


「あの、わたし……帰ります……?」


 仲良くもないほぼ初対面の子が居座っていたら迷惑だろう。語尾が微妙に疑問形になってしまったが言ってすぐ鞄を取って体を動かす。


「いいよ。家帰れないんでしょ」


 言われて頷き座り直す。正直助かる。


「なんか、話する?」

「あ……うん」


 コーノ君のことは、来た時から気になってはいた。雰囲気が独特だったから。手足が長くてどことなく影があるようなその感じは、漠然と浮かぶ“ロックバンドのボーカル”みたいなイメージ。可愛いような、格好良いような、不思議な顔。

 彼は口数が多い方ではなくて、みんなで話していてもほとんど黙って聞いていることが多かったけれど、たまに口を開けた時の声はとても印象的で、ちょっと変わっているのに聞き取りやすかった。


「友達の彼氏が来るんだっけ」


 確認するように言う。


「うん」


 気を利かせて話しかけてくれたけれど、話は広げられなかった。ちょっと、緊張してる。さっきまでは最後に来た男の人が話をまわしてくれていたけれど、コーノ君とわたしは、ふたりとも、どちらかというと聞き役だった。


 そんなで、どことなく気まずい。


 コーノ君が長い腕を伸ばして窓を開けた。

 そうすると外の雑音と生温い風が入ってくる。


 コーノ君は窓の外を覗き込んでいる。


「あ、いた」


 そう言って振り返ってわたしを見るのでよつんばいで隣に行く。一緒になって窓の外を覗き込むとそこから見える電柱に蝉がとまっていた。


「うるさいと思ったんだよな」


 確かに、近いなぁとは思っていた。


 曖昧に笑って彼を見ると彼もこちらを見て笑った。すごい至近距離に、一瞬だけ呼吸が止まった。


 しばらくふたりで窓の外を見ていた。彼のアパートは玄関は道路に面していたけれど、窓からは駐車場が見える。少し先の住宅やアパートも見える。なんてことのない眺めだった。コーノ君が窓から顔を離して、さっきまでわたしの座っていたあたりの畳を見た。そこには鞄と、空のペットボトルが置いてあった。


「なんか買いにいく?」

「え」

「お菓子、なくなっちゃったし……」

「あ、わたし買ってこようか? なんか飲み物買いたいし」

「俺も出たいし、一緒に行こ」


 彼が立ち上がってきょろきょろと周りを見回す。


「どしたの?」

「財布……」


 ぐるりと部屋を見回すと開けっ放しで陳列棚のようになっている押入れの上段の端にそれらしきものが置いてあるのが見えた。


「あ、あれかな」と言って指差すと彼がそれを取ってお尻のポケットに入れた。


 ふたりで玄関を出て、コーノ君が鍵を締める。なんだか不思議な感じ。


 外に出ると強い陽射しが頭を焦がした。相変わらず蝉はうるさい。残暑厳しい明るい道をコーノ君とふたりで、少し離れて歩く。濃い影を見つめていたらコーノ君が唐突に口を開いた。


「望美とは仲いいの?」

「え、あ……うん。入学のオリエンテーションからずっと……」


 そうだ。わたしとは初対面だけど望美とはもう長く友達なわけで、下の名前で呼んだりも、しているわけだ。そんなことを思っていたら上の空になって、酷く要領を得ない途切れた説明になった。


 わたしの住むエリアとは少し場所がズレているのでコンビニの場所は分からない。少し前を歩くコーノ君についていく。


 また、会話はなかった。


 ただ、時折彼が、ついて来てるかな、というように振り返って確認してくれる、気を使ったその感じがどこか、こそばゆかった。


 まいった。なんだか変に緊張してしまってぜんぜんうまく話せない。


 コンビニの看板が見えた時に「あ、あれだね」と言って、彼が「うん、あれ」と返す。ずっと黙ったままで感じ悪くならないための、意味のないコミュニケーション。


 一緒にコンビニに入って、わたしは籠を持った。コーノ君は見つけたお菓子を手に取って行く。籠を持たなかったので、たくさん買わないつもりかと思いきや単に手に抱えるスタイルなだけだった。


 商品を見ながら一緒に店内を移動して、ドリンクコーナーの前で商品を眺める。


「あの、わたし、お酒買っていい?」


 コーノ君は「なんで俺に聞くの」と言って笑った。


「ひとんちでひとり勝手に飲むのもなって……」

「じゃあ俺も買う」


 コーノ君は赤と白のカラーリングの外国のビールを手に取った。なんとなく、同じものが飲みたいと思ってわたしもそれを籠に入れた。


 会計を済ませて店を出た時には袋いっぱいにお菓子とジュースとお酒がつまっていた。


 コーノ君はわたしの袋を黙って取りあげた。


 持ってくれるのかと気づいて小さく「ありがと」と言うとコーノ君は「うん」と聞こえにくい音量で頷いた。


 部屋に戻ると西陽が射し込んでいた。

 わたしと彼はなんとなく黙って、パーティの準備をするみたいにお菓子をひろげて、お酒の缶をあけた。


 少しでも緊張をほぐそうとビールの缶を開けてぐいと飲み込む。

 冷たく冷えたアルコールが喉を通る感覚は心地よい。飲んだというその事実だけで少し落ち着いた。


「ソノ、は……」

「え?」

「ソノ、でいい? 呼び方」

「うん」


 さっき望美の呼び名のことを考えていたので嬉しくなってしまう。


 謎の沈黙がまた一瞬あった。


「……え、あ、なんだっけ。俺何言おうとしてたんだっけ……」


 コーノ君がよく分からなくなってまたお酒の缶に口をつけた。


「コーノ君はビール好き?」

「わりと」

「飲まない人も多いよね、ビール」

「うん」

「周りに結構多くて、一緒に暮らしてる友達もだし……四、五人はいるかも」


 お酒で口が柔らかくなったのはいいが、ものすごくどうでもいいことを言っている。しかも妙な早口で。


「周りにいる? ビール飲まない人」


 コーノ君は上を見て数秒考えたあとにぽつりと言った。


「……前の彼女が」

「あ、そ、そうなんだ……」


 前の彼女。

 彼女、いたんだな。いや、自分だって彼氏はいたし、それくらい、いるだろう。ほぼ初対面のわたしが引っかかる部分じゃない。部屋でふたりきりだからだろうか、わたしのメンタルが勝手にどんどん彼女気取りしていっている。

 というか、前の、ってことは、今はいない、でいいのかな。どうなんだろう。


「どんな人だったの?」


 黙ってしまうと何かムッとしてるみたいなので焦って口にしたけれど、これは聞いていいことなんだろうか。でも、お酒に酔って恋愛話なんて、よくある。そんなに酔ってもないし、あまり聞きたくないけれど、でもやっぱり少し聞いてみたい。コーノ君の恋愛に、興味がある。


「どんなって……うーん」

「おんなじサークルの人だったりする?」

「ううん、結構前に別れて……もう卒業したよ」


 てことは歳上か。歳上好きなのかな。わたし、同じ歳だ。ちょっとがっかりする。


 コーノ君はその話はあまり積極的にしたい感じでもないらしく、それ以上の情報は出てこなくて、彼は立ち上がって窓を閉めた。


「あっついと思ったら開けっ放しだったね」


 夏の夕方は長い。まだ陽は暮れない。時間はたくさんあった。


 結局会話はそんなになかったけれど、少しだけ打ち解けたのもあって沈黙はそこまで気詰まりではなくなっていた。


 コーノ君が突然「あ」と小さな声をあげて立ち上がった。


「ごめん、俺ちょっと出てきていい?」

「え、ちょっとって」

「とりあえず十分くらい……。ここにいてくれていいから」

「え、あの……」


 一体どこに……とか、聞いていいんだろうか。


「いや、あのね……洗濯……」

「せんたく?」

「……しようしようと思っていて、忘れてて……さすがに今日やらないとまずい」


 コーノ君はそう言ってキッチンのほうへ行った。そちらを見ると大きい紙袋を持って部屋に戻ってきた。床を見まわして放り出してあった財布を拾ってまたお尻のポケットにねじこむ。なるほど、この部屋には洗濯機もないし、ベランダもない。コインランドリーに行くのだろう。


 ぼんやりしているとさっさと扉のほうに向かってしまったので追いかけた。キッチンの古い木造の床がギッとゆるくたわむ。


「一緒に行っていい?」


 さすがに、今日会ったばかりの人の家に、家主もいないのにひとりで居座るのは気がひける。


「えっ、洗濯だよ」


 なにも面白いことはないよ、とでも言うようにわたしの顔を見る。

 確かに、家主の洗濯について行くのも妙な話だ。だからこそ彼も待っていてと言ったのだろう。

 でも、彼は十分くらいと言った。そんな時間ですむはずがない。たぶんわたしに気を使っているのだろう。一度戻ってきて、洗濯が終わった頃にまた行くつもりだったのかもしれない。でも乾燥機を含めたら三往復だ。わたしが一緒に行ってその場で待っていれば一度ですむ。


「行く」


 靴を履いて一緒に外に出た。


 歩いているとようやく陽が暮れてきた。

 夏の夕方の匂いがする。


 薄暗くなった住宅地の、なんでもないところにぼんやりとコインランドリーの灯りがともっていた。コーノ君が扉を開けると洗剤の匂いがふわっとした。


 コーノ君が洗濯機に洗濯物をセットして、一緒に前のベンチに腰掛けた。


「溜め込んだねぇ……」

「うん」


 乾燥機に誰かがセットした洗濯物が、ゴウンゴウンと音を立てて回っている。コーノ君の洗濯物もジャブジャブ音を立てまわっている。


「しんぺーが……」

「えっと、誰……だろ」

「最後に帰った奴」

「あ、そうか」


 そういえば何度かそう呼ばれていた気がする。


「シンペー君が、どうしたの」


 コーノ君は前を向いたままちょっと黙って、目を閉じてふうと息を吐いた。


「……なんでもない」


 コインランドリーの、掛け時計を眺める。秒針が一秒ごとに時を刻む。意味もなくきょろきょろ辺りを見まわしてからガラスの扉の外に目をやった。


「あれ、雨降ってない?」


 コーノ君もわたしの頭越しに外を見た。


「ほんとだ……」


 結構激しい雨が降っていた。夕立ちっぽいからすぐに止みそうな気もするけど。止まなかったらコーノ君の洗濯物が濡れてしまう。


 洗濯が終わってコーノ君が乾燥機に中身を移動させ、振り向いて「あと三十分」と言った。


「うん」


 なんでだろう。コーノ君と待つのは、苦にならない。ずっと待っていても大丈夫そうな気がする。扉を叩くような雨の音を聞いて、隣の気配を感じながらまた時計を眺めた。


「ソノは、彼氏いないの?」

「えっと……いたら、そっちに泊まれるよ」

「……いや、あの……でも大学行ってたら結構機会あるでしょ」


 確かに恋愛したい年頃なのか周りはつきあったり別れたりを積極的かつ気軽にしている。わたしも、入学してから機会がまったくないわけではなかった。


「機会は何度かあったけど……好きな人とつきあいたい……と思って」


 本当のことを言うとわたしは、高校の時の彼氏の束縛がちょっとキツめで、当分彼氏はいらないと思っていた。


 今日までは。

 なんだか急に、恋愛っていいよな、とか思い出した気がする。大学に入ってからはずっと、ぜんぜんそんな気にならなかったのに。


「あ、止んだよ」


 外の雨が止んだ。

 同時に乾燥機が終了の音を立てた。


 わたしは洗濯物を大きな紙袋に戻すコーノ君をじっと見ていた。なんでだろう。そんな動きを見ているだけで楽しい。ドキドキしてくる。


 ふたり揃ってコインランドリーを出た。短い時間とはいえ、激しく降った雨で路面にはところどころ水たまりができていた。それを踏まないように、コーノ君がちょっと蛇行しながら歩くのをうしろから足跡を踏むように追う。


 アパートの部屋に戻る頃には外は真っ暗になっていた。電気をつけると出る前のまま、お菓子の袋や開いたお酒の缶が残骸みたいに散らばっている。なんだか部屋を出たのが大昔みたいに思える。


「冷蔵庫、入れとけばよかったね」


 出しっ放しだったビールをちょっと飲んで言うのでわたしも同じように飲んだ。ぬるい。


「冷蔵庫……はあるんだ?」


 コーノ君が「まぁ一応」と言って笑うから、なんだか冗談を言いあったみたいな感じになった。


 また少しお酒を飲んで、コーノ君も少しだけど饒舌になってきた。


 ちょいちょい沈黙を挟みながら、ぽつぽつと会話は続く。洗濯物の話を少しして、天気の話をして、近所の猫の話をする。どれもそんなに続かないのですぐ黙って、また話題が変わる。でも構わない。楽しい。


「ソノって、名前はなんなの?」


武本たけもと苑恵そのえ


「え、そうなんだ。俺てっきり……宮園とか内薗とか……名字からきたあだ名かと……」


「コーノ君は下の名前は?」


「……下が鴻之介こうのすけ。名字は三津谷みつや


「えっ、あっ……そうなんだ」


 てっきり河野とか、高野とか、名字かと思っていた。みんなが呼んでいたからとはいえ下の名前で呼んでしまっていたのか。馴れなれしかったかな。思っているとまた唐突に話題が変わった。


「好きな人とつきあいたいって……いるの?」


「え、あ、そういうんじゃなくて……好きになった人と、っていう意味」


「あぁ……そっか」


 コーノ君が頷いてビールを飲む。

 わたしはこの流れでまたコーノ君の恋愛の話とか、恋愛観とか、ちょっと聞いてみたいと思ったけれど、彼の雰囲気はそういうことを軽い感じで聞きにくいし、野暮な感じもして諦めた。


 ただ座ってぽつぽつ話していただけなのに、楽しかったからか時間はどんどん過ぎていく。


 窓の外には夜が広がっている。蝉はどこかに行ってしまった。思い出して欲しくないから、あまり時間を見ないようにしていたけれど、ふいにスマホを見たコーノ君が、さすがに遅いと思ったのかそのことに触れた。


「そういえば、望美から連絡はあった?」


「……望美のバイト、一時までなんだ……だからまだ終わっていないと思う」


 望美は住んでいる駅前の本屋でバイトしている。そこの営業は午前一時まで。バイト中はスマホは持っているのも駄目。連絡はとれない。

 もちろんわたしが終電前にここを出て彼女の最寄りに行ってどこかで時間をつぶしていれば、今からでも彼女の家に泊まることは可能だ。

 彼女の家はここから一区間。頑張れば歩くことだってできる。色々考えてみたけれど、やっぱりわたしはどうにかすれば今からでも彼女の家に泊まることができる。どちらにしても、そろそろここを出たほうがいい時間だった。


「あの、コーノ君……」


「うん?」


 聞くのが、ちょっと恐い。


「もう少しここにいても……大丈夫?」


 コーノ君は何を考えてるのかわかりづらい顔で思案した。その数秒がとても長く感じられた。


 彼は短く「いいよ」と答えた。それだけで、理由も何も聞かなかった。


 コーノ君の手の中の電話が着信して彼がそれに出る。そのまま立ち上がってキッチンに向かった。誰だろう。女の人だろうか。気になる。でも、なんとなく漏れ聞こえる声は男性のような気がする。


「え、帰った……。…………結構前……うん……特になんも言ってなかった…………それは……わかんない……」


 聞いてはいけない、そう思うけれどこの狭さじゃところどころ聞こえる。なんてことのない話みたいだけど。


「あと、今度話あるんだけど……………や…………まぁ、関係あるんだけど…………悪い、シンペー、今友達来てるから、それは今度で……うん、じゃあ」


 コーノ君と電話している相手が少し羨ましい。わたしはコーノ君の電話越しの声を聞いたこともないし、番号だって知らない。


 コーノ君は電話を切ってキッチンから顔を出してわたしのほうを見た。


「腹減らない?」

「うん。お腹減った。何か食べたい」


 よく考えたらお菓子しか食べていなかった。


「なんか食べに行こう」


 床に転がしてあったコーノ君の財布を拾って「はい」と渡す。


「ありがと」


 また、外に出て彼が鍵をかける。

 鍵をかけているコーノ君を見るのが好きだ。

 なんだか同棲してるみたいな気分になれるから。にこにこしていると「嬉しそうだね」と言われる。


「何食べようか」

「この時間だとファミレスとか、牛丼とか……このへんて何がある?」

「こっから一番近いのは……ファミレスかな」


 食事時をとうに過ぎたファミリーレストランは、ぽつぽつとしかお客はいなくて、わたし達は奥のほうの席に向かいあって座った。


 メニューを眺めていると頬杖をついたコーノ君がじっとこちらを見ていることに気付いた。


「あ、ごめん。迷い過ぎだよね……」

「いや、ゆっくり選んで」


「別になにも急いでないんだし」と言ってコーノ君は軽く伸びをした。


 結局迷いに迷ってオムライスにした。コーノ君は海老カツ御膳。


 注文してなんとなく周りを見渡して、目の前のコーノ君に戻る。目の前のテーブルにはお水のグラス。氷の結露が少し。横におしぼり。その隣になんの装飾も防護もされていないコーノ君のスマホが置いてある。


 今日という日がたまたまこうなっただけで、明日になったら。わたしは彼とこんな風にふたりきりで向かい合って座ることはまずないだろう。それを寂しく思う。


 構内で会えば挨拶くらいはするようになっているだろう。でも、わたしは。


「コーノ君…………」


 頬杖をついたまま少し眠たげにしていたコーノ君が目を開けてわたしを見る。


「……連絡先、聞いてもいい?」


 もっと何気なく言おうと思ったのに、思い切り怪しい感じになってしまった。話の流れで、と思っていたらなかなか聞けなかったので焦ってしまったのをものすごく後悔した。今のはちょっと、あからさますぎたんじゃ。


 コーノ君が黙って自分のスマホを手に取った。


「番号、言って」

「え、あ、はい」


 番号を口にするとコーノ君が手元の携帯をいじって、わたしの携帯が震えた。それからメールアドレスと、普段使っているメッセージアプリも交換した。


 連絡先に『コーノ君』とうちこんで、消した。


「名前、どんな字書くの?」

「三津谷は……数字の三に……説明面倒くさいな……貸して」


 コーノ君がわたしのスマホを手にとって打ち込んで渡してくれる。三津谷鴻之介、の文字をじっと眺めた。


 とりあえず、連絡先を聞けたことで安心して息を吐いた。


「気軽に使ってくれて構わないんだけど……」

「ん?」

「どうも、俺そういうタイプじゃないらしくて……友達ともだいたい交換したきりになるんだよな」

「わたしも、そういう人多いよ」


 連絡先を交換したきりほぼ使っていない友人や知り合いはたくさんいる。確かにコーノ君は気軽にかけたりはしにくい雰囲気の人だ。


 わたしは彼に用事なんてないし、自然にかけることはなかなかないかもしれない。そしてコーノ君がわたしにかけてくることも、まず、ない気がした。


 注文した食事が来て、テーブルを開ける。


 コーノ君がごはんを食べてる。


 当たり前のことに感動したわたしは、短時間でそうとうキている。コーノ君がお箸を運ぶ。口を開けたその中にある舌は、健康的な色合いでとても綺麗だと感じた。


 お店を出て歩いている最中に終電は過ぎた。でも黙っていた。ありがたいことに、コーノ君も時間のことにふれなかった。

 

 今日何度目かのコーノ君ちへの帰宅。

 またコーノ君が財布をそのへんにぽんと放り出した。毎回適当に置く場所が違うので、出る時毎回探している。


 もう今日は食べないであろうお菓子の袋に空気が入らないように折りたたんで端に移動させているとあくびが出た。


「眠くなってきた……」

「あ、布団出すよ」

「え、」

「もう遅いから……泊まれば? 今から移動すんのもタルいでしょ」

「いいの?」

「うん……ひとつしかないから……使って」


 コーノ君が押入れの下の段からお布団を出してくれた。


「え、あの」

「気にしないで、俺どこでも寝れるし」


 そう言って彼は部屋の端に移動した。


 その時望美から着信があった。


「苑、ごめーん! 大丈夫? 今どこにいる?」

「あ……大丈夫だよ」


 立ち上がって少し声をひそめる。なんとなくキッチンの方に移動する。


「今どこにいるの?」

「えっと……友達の家にいる……。今日、そっち泊まるね」

「え、誰よ?」


 突っ込まれて焦って「今度話す」と言って切ってしまった。色々危ない。スマホを切って部屋に戻る。人の電話は聞こえていても聞いてないふりをするのが礼儀だからなのか、単に本当に聞いていなかったのか、彼は自分のスマホを見ていた。


 手を伸ばして残っていたお酒の缶を手に取って開けた。そんなに飲む方じゃないのでこんなに一日で飲んだことはなかった。でも、飲まずにはいられない。どうにか、今日を続けたい。でも逆効果だったかもしれない。ますます眠くなってきた。


 布団の上にぺたんと座って、枕を手にとった。柔らかい。


 寝てしまったら今日が終わる。起きたら、帰って……コーノ君と関係ない明日が始まる。

 何か今、勇気を出してもう少し頑張らなくちゃ。でも基本受け身で生きてきたのでどう頑張ればいいのか分からない。焦る。ずっと緊張して興奮していたからか、強烈な眠気が襲ってくる。


 枕を抱いたまま、どんどん姿勢が倒れていく。


 駄目だ。まだ寝ちゃ駄目だ。コーノ君になにか。


「コーノ君……」

「なに」

「一緒に寝ない?」


 部屋の端のコーノ君の目が軽く見開いたのが見えた。


 それがわたしが“今日”最後に見た光景。


 わたしは抗えない強い眠気に引き摺り込まれた。無念のタイムオーバー。


 次に目を開けた時には日が昇っていた。


 部屋の端で寝ると言っていたはずのコーノ君が見あたらないので探すと、なぜかキッチンの方に倒れていた。近くにお酒の缶もある。なんでこんなところに……。


 コーノ君とは学部も違うから、そこまで行動範囲が被らない。構内ですれ違うことくらいはありそうだけど、それだけだ。もともと友達関係でも受け身なわたしの性格だとたぶん、このまま疎遠になる。

 それなら、もういっそ文字でつきあってくださいって送りつけるかな。でもコーノ君の性格だと、駄目なら返事もなさそうだし。


 そうだ。忘れものをしていったら、連絡をくれるだろうか。でも何を置いていけばいい。財布やスマホや鍵だと自分が困る。それにこれは部屋を出る前に気づかれたら終わりだ。


 寝ているコーノ君の近くにしゃがみこんで寝顔を覗き込む。綺麗だと感じた。


「あぁ……もう……」


 ていうか、一晩ふたりきりだったのに指一本触れられなかったわたしって一体……。そもそも駄目なんじゃないの。まったく興味がないんじゃないの。


「襲っちゃえばよかった……」


 ぽつりと呟いたその時、コーノ君がぱちりと目を開けた。


 そのまま数秒見つめ合う。


「わ、きゃああーーー!!」


 飛びのいて部屋に戻って自分の鞄を引っ手繰るように拾う。家具や壁にゴンゴンぶつかりながらヨロヨロと扉に向かった。


「おじゃ、おじゃましました!」

「わ、ちょっと待って」


 コーノ君がこちらに向かってくる気配がする。


「ごめん! ごめんなさい! わー!」

「いや、待って!」

「聞いた? 今の聞こえた?!」

「な、何も聞いてない! 聞いてないから!」


 これ絶対聞こえてるやつじゃん!

 わたし、痴女確定じゃん!


 出ようとした扉にコーノ君が背後から手をついた。


 一刻も早くそこを出たかったけれど、片方の手をそっと掴まれたら頭がぼうっとした。


 手を引かれて、部屋に戻されて座らされた。

 向かいにコーノ君が胡座をかいて座る。


 コーノ君は座らせておいて、黙っている。


 なにこれ。なんなの。

 なんでわたし正座させられてんの。どうしたらいいの。謝った方がいいの。


 もう恥ずかしい独り言も聞かれた。どうせ駄目ならいさぎよく砕けようかと、口を開く。


「あの……昨日、会ったばっかりで……れなんだけど……わたし……」


 ボソボソとそこまで言って、口をつぐむ。会ったばかりって「好きです」とか言いにくい。十日経とうが、二ヶ月経とうが気持ちは一緒だったとしても。どうしたって安っぽいし、軽い。


「その……コーノ君……の、こと、が……うぅ……あのっ……」


 なんだろう。昨日あったばかりで好きというのはあまりに図々しいし、だけど、いいなと思ってる、とか、気になるというにはもっと強い気持ち。

 緊張と言葉が出ないのとで、泣きそうになってきた。それでなくても恥ずかしい言葉を聞かれて、目の前でしかられてるような気持ちなのに。


 目から溢れそうになる涙を堪えて口元に硬く握った拳をあてているとコーノ君が膝で立って焦ったように言う。


「あ、もういい。から、ごめん」


 ごめん。


「あ、そう、だよね……」


「そういう意味じゃない。俺の勘違いじゃなければ……言いたいことはわかったから……。なんか……泣かしたみたいになってごめん」


 また、沈黙があった。わたしも、コーノ君もたぶん、言葉を探すのが得意じゃない。


 わたしは、わたしの気持ちにぴったりの言葉を探した。でもどれもどこかで聞いた口説き文句の公文みたいで、しっくりこない。


 なんだろう。なんて言えば伝わるんだろう。


「俺と…………つきあう?」


 コーノ君の方も適切な言葉が見つからなかったのか、なんだか結論を雑に纏めた質問系がきた。でも、じゅうぶんだ。


「つき、あいたい……です」







 それから数日後、夏季休暇明けに構内で望美と会った。


「そういやさ、あのあと……コーノん家行ったときあたしが帰ったあとどうした?」

「あ、つきあうことになった……」

「マジで? やるじゃんシンペー!!」


 望美が興奮気味に叫ぶ。


「連絡先くらいは聞けたのかな、いや無理かなーと思って心配してたんだよね」


「え? シンペー君じゃないよ。コーノ君」

「……は?」

「わたしたぶん……一目惚れしちゃったんだよね」

「…………え」

「コーノ君に」

「あ、あぁー」


 望美が驚いた顔で口をあけて、それから「うう〜ん」とうなって頭を抱えた。


「え、なに、どうしたの」

「シンペーがさ……構内ですごい可愛い子見つけたって騒いでて……よくよく聞いたらそれ苑のことで……だからあの日あたしが、驚かせようと集まりに連れて行ったんだけど……コーノ?」

「うん……」

「シンペーは、なにしてたの?」

「シンペー君はバイトがあるって帰っていったから、そこからずっとコーノ君とふたりだった……」

「……バイト?」

「他みんな帰っちゃってたから、すごい申し訳なさそうな顔してたよ」

「それ無念の顔だよ! 悔しい顔!」


 あまり区別がつかない。


「シンペー、四回連続酷い失恋してるから、今回は周りもかなり応援ムードだったんだけど……コーノは苑の好き好きアピールにあっさり陥落したのか」

「いやあ……緊張しちゃってアピールなんてあんま出来なかったけど……まぁ頑張ったかな」

「苑は顔に出やすいから……そのままで露骨なアピールになんだよ」


 あ、それは結構言われる。

 嬉しい時、悲しい時、楽しい時、ほっとした時、落胆した時、緊張した時、あるいは、好きだなぁ、と思った時。私の表情筋はなんとも分かりやすく反応する。らしい。


「あ、コーノ君」


 少し先にコーノ君が数人で歩いているのが見えた。


「うっわ。嬉しそう。……シンペーもいるよ」


 言われて周りを見たけれど、シンペー君がどんな顔をしていたか思い出せず、他三人いるうちのどれがシンペー君だったか、自信が持てない。


 ちょっと焦って「えっと……右端の人……だよね?」と確認すると望美が遠い目をして呟いた。


「うわあシンペー……マジ哀れ……」

「あ、思い出した。コーノ君の横でうなだれてる人だ」


 うつむいているので余計に顔が見えづらかった。コーノ君は微妙に気まずい顔で彼に何事か言っている。

 コーノ君達が目の前まで来た。望美が大きな息を吐いて言う。


「もうシンペー、あたしとつきあえ」

「えっ? えっ? なに、なんで?」


 周りがどよめいた。


「望美、シンペー君のこと好きだったの?」

「いや全然。でもあたし不憫萌え持ってて……今ちょっと好きになったわ」

「な、何言ってんだよ……! おま……お前失礼すぎないか?!」

「いーじゃんよ! もう! あんたがあたしの目の前でいっつも哀れな失恋しすぎなんだよ! なんであんたはそんなにツいてないんだよもう! あたしがもらってやる! 大事にしてやる! こわがんな!」


 望美の勢いにシンペー君は驚いて口をパクパクさせていた。


「コーノ君」


 そっと横に行って腕を軽く引っ張る。

 視線だけ合わせて、何人かで賑わっているその場をそっと抜け出した。


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