秋 寒い雨Ⅱ



 風呂上がりのリーンがタオルを持ちつつ自室へ戻ろうとしていれば、馬車の遠ざかっていく音を聞きつけてふと立ち止まった。仄かな薄明りに包まれる玄関ホールに、細長い影が妖しげに揺らめいていた。少女が一瞬だけ肩を跳ね上げれば、その先にある漆黒の佇まいが大きくため息をついた。

「……まさか、まだ幽霊が出るとでも思っているのか?」

「そ、そんなことないわ。お帰りなさい、ヨッカ」

 リーンはどぎまぎしながらも平然なふりをして駆け寄った。雨の中、遅くまで領内を駆けずり回っていたヨークラインは、さすがに疲れているように見えた。その肩先は僅かに湿り気を帯びている。馬車を降りてから屋敷に入る隙間を風雨は見逃さなかったようで、黒曜石ような髪の端々に小粒の滴がいくつも垂れ下がっていた。

「風邪引いちゃうわ、これ使って」

 リーンは背伸びをしつつ、手に抱えていた厚みのあるタオルをヨークラインの頭に被せた。そのまま髪を押さえようとすれば、一歩下がったヨークラインに睨まれる。

「少し濡れた程度だ。君の方がずっと危うく思えるが」

「大丈夫よ。私のはここにあるもの」

 肩にかかっているもう一つのタオルはすでにじっとり湿っていたが、風呂上がりなのもあってさほど冷えを感じさせない。濡れ髪をちっとも構わない様子にヨークラインは息をつき、懐から解呪符ソーサラーコードを取り出した。

「其は山を渡りし乾熱風――エンコード:『フェーン』」

 リーンの顔周りを暖かな風が包み、髪全体がふんわりと一度舞い上がった。頭のてっぺんから毛先まですっかり乾ききり、黒真珠のように照り映える長い髪が、少女の背にさらりと流れ落ちる。

 今度はリーンの方がつい呆れた表情になってしまった。

「もう、そんな気軽にキャンベル家の秘技を使うものかしら?」

「俺の家の秘技を、俺がどう使おうが勝手だろう」

 生真面目でいて、こういう時にはしれっと開き直るのだから始末が悪い。

「なんだか、前より心配性になっていない?」

「『前より』とは、語弊があるがな。君が知らないだけだ」

 知らないだけ。淡々と告げられたからこそ普段は気にしないのに、いつになく胸を刺す言葉だった。

「……そうね、知らないことばっかりだものね。キャンベルの皆のこと、私まだ良く分かっていないみたい」

「……何かあったのか?」

 途端に肩を落とすリーンを見て、ヨークラインが不思議そうに眉を寄せた。

「ううん、大丈夫。プリムだって、メグやジョシュアだって、誰にも言いたくないことはあるもの」

 ヨークラインは一瞬だけ口を噤んだが、慎重そうに再び言い零す。

「まあ、言えやしないことはあるだろう。勿論、俺にも。……君とてそうだろう」

「そうよね、分かってるわ」

 それでも寂しさを覚えるのは間違いなのだろうか。自分だって、伝えられないことがあるにもかかわらず、その先を知りたいと思うのはいけないことだろうか。

 俯き続けるリーンを苦々しそうに見下ろすヨークラインは、とうとう小さくため息をついた。

「……伝えられないことはあるかもしれないが、その逆も然りだ。答えられる範囲でなら話すぞ」

「いいの……!?」

 顔を上げた少女はたちまち頬に喜色を浮かばせたが、ヨークラインはあくまで渋面だ。

「知らないままでいさせるのも良くないと学んだからな。善悪の判断……もとい警戒心は、最小限だけでも持ってもらわねば」

 言外に魔術師マグスのことを指摘されているのだと分かって、リーンは片身狭く縮こまった。

「立ち話もなんだ、ジョシュアに茶でも頼むか」

 そう言って台所へと足を向けるヨークラインの後ろを、リーンが慌てて追いかける。

「え、でも、今日はヨッカも疲れているでしょう? また今度で構わないわ」

「明日になったら気が変わっているかもしれんぞ。それでも構わんか?」

「か、構うわ!」

「ふ、ならば結構」

 瞬時に言い返したリーンに、ヨークラインは一瞬だけ愉快そうに口元をくっと上げた。


 台所に赴けば、タイミングを見計らっていたように、ジョシュアが入れたての紅茶と軽食を用意していた。

 ヨークラインは作業台に腰を下ろし、トマトスープとサバのサンドイッチにすぐ手をつける。

 ジョシュアはマグカップを持って階上へと向かっていった。二人だけの空間になると、瞬く間に沈黙が下りた。窓を叩く控えめな雨音と、キッチンストーブの炎が仄かにはぜる音だけで占められていた。

 温もりに包まれつつ、食事をあっという間に平らげたヨークラインは、いつもの顔色を取り戻した。そして何から言えばいいのかと、目で投げかけてきた。

 思いの外に話が進んで鼓動が速まるリーンは、頭が上手く回ってくれない。何を訊けばいいのか。何であれば答えてくれるのか。熱い紅茶をゆっくり口に入れつつ、半ば緊張したまま口を開く。

「メ、メグとプリムは学校に行ったことあるの?」

「……開口一番に訊くのがそれなのか?」

「前々から気になってたのには間違いないもの」

 少し見当違いな質問になってしまったが、いわゆる学び舎に縁遠いリーンとしては、姉妹の持ち前の利発さが何処から来ているのかも知りたかったところだ。

「二人とも女学校に通っていた。卒業もしている」

「え……。メグは分からなくもないけど、プリムも?」

「首席だったそうだぞ」

 口をあんぐり開けたまま、思わず絶句する。リーンの反応には無理もないと、ヨークラインは肩をすくめてみせた。

「張り合うように、同時期に別々の学校に入ってな。二人ともあまりに優秀だったものだから、卒業単位を一年で全て取得。いわゆる飛び級というやつか」

 事もなげに聡明甚だしい経歴を語っていくので、リーンは偉人の伝記でも読み聞かせられている気分だった。

「そうして難なく卒業し、マーガレットは解呪師の勉学を極めるために天空都市へも赴いた。当時の学徒の中では、やはり類い稀な学才を持っていたと一目置かれていたようだ」

「留まることを知らないわね……」

 ヨークラインは、そこで一息つくようにゆっくりカップソーサーを持ち上げ、紅茶を含んだ。

「……だが、解呪の素質はなかったと見えてな。半年程経ってから、もう学ぶものはないとあっさり見切りをつけて我がキャンベルに戻ってきた」

「えっ、気が早いんじゃあ……」

「そういう声も多かった。才知に長けた人材は惜しい、枢機部の後方支援として留まらないかと、かなりの優遇を持ちかけられていたそうだ。だが彼女にとっては天空都市であっても、己の解呪法を見定めるためのツールにすぎなかった、というところだろう」

「もしかして、ピックスさんとは……」

「同輩のようだな。詳しくは知らんが、お互い競い合っていたらしい」

 気に食わないと火花を散らして噛み付き合っていたのは、そういう因縁があるからなのか。一つ納得し、疑問がほどけて単純に嬉しさを覚える。

 勉学旺盛なマーガレットに対し、卒業後のプリムローズはずっとフラウベリーで過ごしているとのことだった。

「フラウベリーの土地が良好なままでいられるのは、プリムローズの行き届いた管理のおかげだな」

「あ、解呪符ソーサラーコードを用いて、マナの巡りのバランスを整えているって、そういう……?」

 外に出かけたがるプリムローズは単に遊んでいるという訳でなく、村の見回りを兼ねていることはリーンも知っている。いつも持ち歩く巾着袋には多種多様な解呪符ソーサラーコードが入っており、一たび異変があれば存分に力をふるうことも。

「ああ。おかげで村の皆にも慕われている。土地の力が強くなると、そこに住む人々、木々や花々も自然と賑わう。今では活気あるところだが、過去はもっと寂れたところだったんだ」

「そうなのね……ちょっと想像がつかないわ」

 初めて村に迎えられた時から、リーンの心に暖かく刻み込まれる常花とこばなの景色。季節によって見ごろの花木は変われど、永遠に咲き匂う村は幸福そのものを謳うかのような美しさだ。

「今年も順調に作物には恵まれたし、収穫祭は大いに盛り上がるだろうな。ここのところ雨続きなのが少々厄介だが」

 明日こそは準備を進めたいとぼやくヨークラインを見て、リーンは少し気がかりがあった。この屋敷でゆっくり休んでいる姿を、ここのところ見かけていなかったのだ。

「ヨッカ、あまり無理してはだめよ。身体を壊しちゃ元も子もないんだから」

「問題ない。きちんと寝ている」

「でも、もしヨッカが倒れたら、皆困っちゃうわ。……まだ、治してもらってないみたいだし」

 リーンは静謐な眼差しで、じっと見つめた。その先にある青年の胸元の奥部には、リーンだけが捉えられる小さな歪み。夏から浮き上がり始めたそれに、未だ解呪の兆しは現れていない。

「……今はさして問題ない」

 淡々と返されても、リーンは信用ならないと口を尖らせた。

「でも、ちゃんと治さないと。エミリーに見てもらったら?」

「スノーレット卿は承知済みだ。呪いは時間をかけて身を侵すもの。裏を返せば、解けるのだってその道理だ」

「そう、エミリーがいるのなら安心ね」

「……やたら卿を当てにしているんだな、君は」

 途端にホッとするリーンだったのでヨークラインは複雑な気持ちになるが、居心地悪そうに足を組み直した。

「……訊きたいことはそれだけか?」

「あ、えっと、『寒い雨』って知ってる?」

「詳しくは良く分からんが、誰かの言葉か?」

「メグがそう言ってたの。プリムは、寒い雨には嫌な思い出があるんじゃないかって」

 ヨークラインが、皆と同じような遠い目をした。寄る辺のない暗闇の中にいるような瞳で――そうか、雨が降っていたなと、静かに口零す。

「……このキャンベルに足りないものがあると思いにくいのは、君も早くに亡くしたからだろうな」

「え?」

「俺が家長なのは、その上に立つ者がいないということだ。唯一の祖父も、家業だけさっさと譲って隠居に引っ込んでしまったしな」

「あ……」

 兄、姉妹、従兄弟、遠くに暮らすという祖父。彼らのみで構成されるキャンベル家に足りないものとは。その先に導き出されるものを、リーンはようやく見つめる機会を得た。心の何処かで気にかかっていたけれど、口にするのはためらわれたもの。

「おかあさんと、おとうさんは……?」

「とっくの昔に亡くなって、いない」

 怖々と口にすることが出来た質問は、青年の低い声で簡素に返ってきた。

 細やかな雨音が、耳の後ろからさらさらと流れていく。湧き上がる湯気の温もりさえ求めるように、ヨークラインは熱い紅茶を口にする。

「その寒い雨とやらにまみれつつ、今日こんにちの、俺たちだけのキャンベル家は生まれたんだ」



 屋敷の二階に上がったジョシュアは南東の部屋まで辿り着き、扉をノックをする。中から「だあれ」と低い鈴の音が返ってきて、優しく呼びかけた。

「僕だよ、プリム。寝る前に温かなミルクティーはいかがかな」

 扉はゆっくりと内側へと開かれて、いじけるように唇を引き締めた少女が顔を出す。ジョシュアに視線を合わせないまま、マグカップを受け取った。

「それを飲んだらすぐにお眠り。雨は遠くないうちに過ぎ去るさ」

「だからって、遊びには行けないもの」

 うなだれる小ぶりな頭を見下ろしつつ、ジョシュアは砂糖菓子の囁きを注ぐ。

「勿論一人だけではいただけないけど、付添い人がいれば構わないさ。僕からヨークに頼んでみるよ」

 プリムローズがぱっと顔を上げた。信じられなさそうに目を瞠って、戸惑いをそのままに口開く。

「……ほんとに? でも、ジョシュアちゃんは忙しいでしょ?」

「問題ないよ、一人当てがあるんだ」

 プリムローズが苦笑の形で唇を曲げる。

「まさか、村長んとこのはなったれ坊やじゃないよね」

「いいや、君をちゃんとエスコート出来るジェントルマンさ。ひとまず会えてからのお楽しみにしておくれ」

 いたずらっぽい表情で軽くウィンクしてみせれば、プリムローズはようやく口元を綻ばせた。

「うん……ありがとね、ジョシュアちゃん。秋晴れのピクニックなら、サンドイッチをどっさり作ってほしいのよ」

「仰せのままに――けど、君の元気がないのは本当にその理由だけかい?」

 ジョシュアが薄い微笑みのまま投げかければ、紅玉色の眼差しが静かに一度瞬いた。

「いつまでも手負いの風情でいるのは、君らしくない」

 丁寧に窺うジョシュアを真っ直ぐ見返す瞳の光は硬く、簡単には揺らがない。

「……あたしはいつまでもどこまででも、あたしらしいわ」

「……そう。ならお休み、レディ。良い夢を」

 プリムローズもお休みなさいと繰り返し、扉内へ引っ込んでしまった。

 しばらく部屋内の気配を辿っていたジョシュアだったが、やがて背を向けて歩き出す。眉尻を下げつつ、深いため息をついた。

「参ったな……重症じゃないか」


 プリムローズは温かなマグカップを手に持ったまま、張り出し窓の縁に身を寄せ、いくつかの刺繍入りクッションを背にして座り込んだ。ランプから照り返される硝子窓に、ぼんやりと映し出された己の姿を見つめる。

 目に留まってしまうのはネグリジェの袖から見え隠れする、右手首にぐるりと描かれた細い傷痕。魔術師マグスにつけられた憎たらしい火傷の痕だ。仕組みは分からないが、発熱した鉄の鎖を腕に巻きつけられたのだ。

 損傷度合いは深くなかったようだが、痕をつい爪で弄り回すおかげでなかなか癒えてくれない。触らないのが一番なのに、やめてしまいたいのに、傷を掘り返して何度も刻み付けてしまう。それはまるで忌まわしき呪いであるかのように。

『これが君へと捧げる聖呪アナテマだよ、親愛なる妖精プーカ。君が人間であろうとする限り、この呪いは君には絶対に……――』

 そうまくしたてた黒衣の姿がよぎってしまい、馬鹿馬鹿しいと頭を強く振り回した。不意に出てくる咳を誤魔化すようにぐっと喉を傾け、マグカップのミルクティーを飲み干す。暖まった身体をさっさとベッドに潜り込ませた。

 窓を打つ音が、シーツの中でさえ煩わしく訴えてくる。少しでも遠ざけようと両手で耳を塞いだ。背筋も大きく丸めてじっと耐える。いとけない身体を守るように、奪われないようにと。

「……あたしは、妖精プーカじゃないもの」

 己に言い聞かせるような独り言が、雨音に紛れながら零れて消えた。





 まだ陽も出て間もない薄水色の空の下、蔦バラのアーチには雨露が連なり実っていた。大粒の透き通る滴は、水晶のように清らかな朝陽をちかちかと反射させている。

 その下を、一台の荷馬車がゆったりとくぐり抜ける。荷台の上部がアーチに擦れて滴がぱらぱらと落ち、手綱を引っ張る男の鼻先に当たった。ちょうど舟をこいでいた男は冷たさに肩を跳ね上げつつも、のんびりあくびをして辺りをきょろりと見回した。

 フラウベリーの中心街へはもう間もなくだった。ようやく着いたと、男はうんと気持ち良さそうに背中を伸ばす。

「……さぁて、『クラム』の坊ちゃんは元気にやってるかねえ」

「――今は『キャンベル』でしょ? しっかりしてよ、この耄碌」

 厚い布で覆われる荷台から、少女がひょっこりと姿を見せた。小柄な体格を男の肩にどっしり座らせ、その薄い後頭部をぺちぺち叩く。

「ヨークちゃんなら超絶元気に決まってるでしょ。偉大なる月魔女の力を継ぐこのアタシがいるんだもの!」

「……そんなこと言いながら、どうしてここまで来ちゃったの」

 男は顎の無精髭を撫でながら、いまいち気が乗らなそうにぼやいた。

 少女は不敵な笑みを深々と浮かべ、断言してみせる。

「そりゃあ当然、ガーランドの日和ひよっこちゃんをブッ潰すためでしょ!」


 雨上がりの夜明けと共に、常花の村へ新たな風が吹き荒れようとしていた。


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