第15話 夏 天空都市Ⅱ



 多数のトランクが、玄関ホールに積み上げられていた。そこに己のトランク一つを紛れ込ませ、ヨークラインは気難しげな表情を更に色濃くした。

 荷物はなるべく減らせと、口出しした記憶のある姉妹の荷物が、当初より膨らんでいる気がするのだ。女は色々と物入りなのよとはマーガレットの言い分ではあるが、荷馬車に載せる量にも限界がある。一人につき、後一個ずつは必ず減らすよう告げなくてはと、視線を近くの螺旋階段へ向ける。丁度その階上から、ジョシュアがティーセットを手に持って降りてくる。

「お疲れ、ヨーク。準備は済んだかい?」

「ああ。後は彼女たちの荷物に口出しして、支度は終了だ」

 荷物の山をげんなり見渡すヨークラインに、ジョシュアは軽く肩を揺らして微笑んだ。ポットから温かい紅茶をカップに注ぎ、トレイに載せたままヨークラインに差し出してくる。

「その前に一息つきなよ。レディたちも先程やっと支度が終わったと、少々ぐったりしていたからね。ありがたい進言はそれを飲み終わってからにしておくれ」

 機嫌悪そうにヨークラインは睨んだが、それでも渋々とカップを手に取った。トレイに一緒にあった焼き菓子も勧めてみたが、それはいらんと突っぱねられる。

伏魔殿パンデモニウム突入は、とうとう明日だね」

「お前まで何だ、その呼び方は。気に入ったのか」

 同意するように、ジョシュアはにっこりと口角を上げて続ける。

「警戒するに越したことはない筈さ。きな臭い話なのは、全員が承知済みだろう? あのレディ以外はね」

「……本来であれば、彼女はここに残していくつもりだったのだがな」

 カップを傾けながら、ヨークラインは一人ごちるように呟いた。歯と歯に物が挟まるような気持ちが心の片隅にあって、いつまでも取り除けずにいる。リーンの様子が、どうしても腑に落ちなかったのだ。

 姉妹から手ほどきを受けつつも、解呪師としてまだまだ微力な技量だと踏まえるヨークラインは、今回の招集において少女は当然キャンベル家に残すつもりでいた。けれど、少女は自ら同行を申し出た。解呪師として身に着くものがないと伝えたにもかかわらず、天空都市へどうしても行きたいという強い意志を示した。

 思い返す記憶の中で、少女はプリムローズの言葉を借りて、その動機を告げた。目を泳がせ、必死さを隠し切れずにいるその様は、嘘をつくのが苦手な正直者の体現だった。

 眉をひそめて、ついつい零してしまう。

「……あんなでたらめな理由では、二つ返事で承諾出来なかろうに」

「だからって、意地悪な物言いになる理由にはならないけどね」

 隣からさらりと皮肉を告げられて、苦々しそうに睨み返す。

「蒸し返すな、それは非礼だったと認めているだろう」

 真正面から受け止める堅物者へ、ジョシュアは苦笑ぎみに片目を閉じてごめんと謝った。

「まあ、レディの理由がどうあれ、天空都市で何かすべきことがあるんだろう。メグとプリムもいるんだ。あんまり心配しなくても大丈夫さ。そんなことより、お前はもっと、自分の方へ気を配るべきだと思うけれどね。人気者になっちゃって、唯でさえ目をつけられているんだし」

「分かっているし、精々大人しくしている。ジョシュア、ここの留守は任せたぞ」

「了解。何かあったら呼んでよ。ちゃんと準備はしておくから」

「そう簡単に呼べるか。お前もお前なりに、ここでやるべきことがあるだろう」

「ううん残念。僕がキャンベル家の縁の下だってことを、たまには示しておきたいんだけどなあ」

 つまらなさそうにぼやくので、ヨークラインは静かな響きで諌めた。

「お前は最終手段だ。呼ぶ時はそういう非常事態なんだってことを、きちんと分かっていてくれ」

 ジョシュアは微笑んで、渋々納得したように肩をすくめた。

「……分かったよ。本当に気を付けて。ここで、無事を祈るだけの身が歯がゆいってことも、良く覚えておいておくれよ」







 寒冷の海風が吹きさらす乾燥地帯を通り、南北に貫いてそびえる山岳地帯を東に抜けると、途端に雨雲多く緑豊かな土地が生まれ出る。その中間の山あいに、目的の街はあった。

 ケーキスタンドを思わせる円形の高台が段々に重なり、その上に大きな塔が何本も刺さっている。縦に細長く、比較的小回りな城塞の街。全体が大理石で形作られ、乳白色と薄紅色の混じる美しい色合いは、全ての者を感嘆させる。

 国の守護総括を第一使命とした特別自治機関、天空都市。かつての王家を支えてきた、国内で唯一無二の絶対不可侵領域。



 青空がいつもより近い気がする。

 真っ直ぐに天を仰いでいたリーンは、清涼な空気を胸の中へ大きく吸い込んだ。身体の奥を一瞬の冷気が貫いていったが、道中に通った荒野の埃っぽい澱んだ空気とは、全くの別物だった。澄み切った大気に満ちる世界は、遠くの山々まで、何処までも明瞭に見渡せる。視線を下にやれば、毛糸で編んだ絨毯のように広がる雲が、山あいに被さっている。標高が高いため、夏の季節においてもあまり暑さを感じさせない。太陽の射光が少し肌を刺す程度だ。少女の周りを踊るように舞う風は軽やかで、空翔ける鳥にでもなったような気分だ。ここは正に、空の上の街だ。


「リーン! ぼーっとしてないで、こっちにいらっしゃい!」

 呼びかけられて、少女はくるりと街の入口へ振り返った。門の前では多くの馬車が所狭しに並んでいて、人と馬ばかりの隙間からマーガレットが手招きしている。女性の中では長身で、金髪と金眼の目立つ風貌でなかったら、うっかり見逃してしまいそうだ。リーンは自分のトランクを抱え直すと、荷馬車の通行を気にしながら、キャンベル家の馬車へ小走りで駆け寄る。目を輝かせて、興奮の声をマーガレットへ送った。

「すごい人ね! ここの皆は、全部観光の人なの?」

「全部ってわけじゃないでしょうけど、大方はそうじゃないかしら? 解呪の依頼に来る人もいるでしょうし、後は議会に出席するお偉方もちらほら混じっているわね」

 荷馬車から下ろしたトランクの個数を数えながら、マーガレットは関心薄そうに言う。

「もっと静かなところだと思っていたわ。修行している人たちばかりの……」

「解呪師の学徒がいる区域は、まだ落ち着いていると思うわよ。ま、あたしたちには縁の薄いところだけれど」

「どうして? 私たちと同じ、解呪師の人たちが沢山いるのに?」

「ねえちゃま、ホテルまで荷物を運んでくれる人を連れてきたの」

 横から声をかけてきたプリムローズの隣には、上品な制服を身に付ける青年が控えていた。マーガレットはリーンの質問には答えず、トランクをぱしぱしと軽快に叩いた。

「ありがと、プリム。さっさと運び込んでしまいましょ。お願い出来るかしら、頼もしい人」

 麗しく微笑むマーガレットに、ホテルのベルボーイは一瞬嬉しそうに顔を綻ばせてから、慣れた手つきで荷台にトランクを積み上げ始めた。

 それは割れ物が入っているから慎重に。それは特に重いから最初に積んで。マーガレットがてきぱき指示をしていく傍らで、プリムローズがひっそりとリーンに耳打ちしてきた。

「ねえちゃまはね、この都市の人間が気に食わないのよ。そんでもって、彼らもあたしたちのことが気に食わない。この手の話題はあんまりおススメしないのよ」

 プリムローズも幾分神経を尖らせているのか、その口調はいつもより淡々としたものだった。

 荷台を走らせるベルボーイに続き、姉妹もホテルへ早足で向かう。ベルボーイ曰く、入口からすぐ近くらしい。その後ろを、リーンは気後れぎみについていく。

「あの、そういえばヨッカは?」

「先にホテルでチェックインの手続きしているわ」

「――マーガレット、ここだ」

 ホテルのエントランスでは、ヨークラインが待機していた。呼びかけに応じてマーガレットが傍まで来ると、手持ちの書類入れを寄越してくる。

「……何よこれ」

「解呪師局への定期報告書が入っている。俺はこのまま議会へ向かうからな、お前はそれを届けに行ってくれ」

 マーガレットは盛大にしかめ面をした。つり目を更につり上げて、嫌悪の声を上げる。

「冗談でしょう? 何であたしが? 今日のあたしは、リーンの付き添い役でしょう?」

「その言い分が、本気でまかり通ると思っているのか。これでも譲歩に譲歩を重ねている。使い走りが嫌なら、今からでも議会参加の名簿に書き連ねるが」

 マーガレットの睨みを物ともしなく、それでいてヨークラインの冷やかな眼力の方が遥かに上手だった。兄の密かな苛立ちを感じ取り、マーガレットは怯む。大人しく白旗を上げ、乱暴な手つきで封書をヨークラインから奪った。

「わ、分かったわよ。喜んでお運びつかまつるわよ。その後は、自由にしててもいいでしょう?」

「ああ、精々迷惑かけん程度に好きにしろ」

「やった! 感謝するわ、ヨーク兄さん!」

「……もう一度言うが、迷惑だけはかけるなよ」

「随分信用ないわね。要は、ケンカを売られても買わなきゃいいんでしょう? 弱い程大げさに吼える輩のことなんか、気にしやしないわ」

 鼻で笑うマーガレットに、それでも何か言いたそうにヨークラインは渋面を向けたが、結局は小さくため息をついただけだった。



 観光客が入れる区域は限られているが、それでも魅了する場所に事欠かない。細やかなモザイク柄のタイルが敷き詰められる噴水広場、美しく手入れされた空中庭園、そして都と同等だと謳われるグラン・モールは、品揃い豊かな老舗が立ち並ぶ賑やかな界隈だ。

 噴水広場にはカフェや出店が立ち並び、観光客や住民が、それぞれの憩いの時を過ごしている。

 その中でリーンはぽつんと一人、噴水の縁に腰かけて、広場の風景をぼんやり見やっていた。キャンベル姉妹はヨークラインのお使いで、解呪師たちの集う学徒区へ向かってしまっている。リーンも二人についていきたいと申し出てみた。けれど、部外者は立ち入り禁止、面倒は極力避けたいと言うマーガレットの苦渋に満ちた表情を見て、途端に諦めてしまった。

 こうして見知らぬ場所で置いてけぼりになるのは心細かったが、少しホッとした気持ちでもある。

 天空都市に着いてから、マーガレットは妙に機嫌が悪い。そもそもは行きたくないとごねていたのに、リーンのおねだりが原因で、結局彼女をこの街へ赴かせてしまっている。結果、不愉快な気持ちにさせているのだと、リーンは肩が縮こまる思いだった。普段は世話焼きのさっぱりした気質が、その余裕なくピリピリしている面を見せているので、余計に申し訳なく感じてしまうのかもしれない。


 俯いてモザイクタイルの柄に虚ろな視線を向けていれば、ふっと大きな影が覆った。待ち人である背の高い少女が、リーンを見下ろしていた。

「待たせたわね、リーン。はい、これ」

 マーガレットから差し出されたのは、新雪を思わせるような真っ白な氷菓。その上に真っ赤なフルーツソースがかかっている。

「あたしのおごり。巷で大評判の天空都市名物、ミルクジェラート。美味しいわよ、食べて」

「え、あの……」

 リーンがきょとんとした表情で見上げると、マーガレットは決まり悪そうに微笑む。

「ごめんなさいね、今のあたし、普段よりちょっと感じワルイでしょ。自分でも分かってるのよ。プリムや兄さんは慣れたものだけど、あなたには不慣れな一面よね。だからね、現金にもスイーツごときで、勝手ながら罪滅ぼしさせてほしいの」

 真っ直ぐ伸ばされる手から、少女はジェラートを受け取った。陽の光できらきら反射するそれを、恐る恐るそっと口に含む。

 舌の上で蕩ける甘味は、濃厚な生クリームのようであり、それでいてするりと消えゆく優しい味わいだ。フルーツソースの甘酸っぱさが、更に爽やかさな心地にさせてくれる。

 リーンは屈託のない微笑みで、感動と感謝を伝える。

「とっても美味しいわ。ありがとう、メグ」

「そ。良かったわ。あなたの美味しそうに食べている顔、見ていて心和むわ」

 そう言いながら、マーガレットも隣に腰を落ち着けて、自分のジェラートを舐める。リーンは両手にジェラートを抱えつつ、マーガレットに今の率直な気持ちを伝えた。

「……私、知らないことばかりだから、メグをそうやって苛立たせている理由が、その、分からなくて……」

 申し訳なさそうに言うリーンに、マーガレットはあっさり頷いた。

「まあ当然よね。言っていないもの。別に隠すことじゃないし、現場に来たからにはちゃんと言っておくわね。この天空都市は、外的にも内的にも、国の守護を任されている機関。それは分かっているわよね? あなた、兵鳥バードは、きちんと見たことある?」

「あ、はい。孤児院で。とても大きな体格の、強そうな人でした。確か、防災訓練の時に来てくれて……」

「そ。国中の何処にでも駆けつけて、災害や犯罪から人々を守る、いわゆる騎士みたいなものよね。その兵鳥バードを統括し、日々の安全な暮らしを約束してくれる、国民全員のよりどころ。もっと広く言えば、全ての人達の身も心をも救う場所」

「身も、心をも?」

「生きていると、どうしたって心が疲れちゃったりするでしょ。その心をほぐす手伝いをしている部分もある。懺悔って呼んでいるわね。己に許しを請うところでもあるのよ。自分の弱さを許してほしい人が、救いの言葉を求めて、大金背負ってやって来たりするのよ」

「まあつまりお布施ってヤツなのよ」

 いつの間にかリーンの隣に座ったプリムローズが、カラフルな四段重ねのジェラートを口に運びながら、そう言った。マーガレットは、しかめ面しながら続ける。

「その生臭さがいけ好かないってのもあるんだけど……、その割には妙に潔癖でね。彼らの下には、古くから神の怒りを鎮める者たちが控えていた。流行病や飢饉、天災を神の怒りに喩え、『呪い』と呼び、それを解いてきたのが解呪師たち。彼らは神の力というものに、恐れと崇高の念を抱いているの。その力を究明し、自分たちの解呪のすべとして会得してきた。得た技術を秘匿とせず、国中に広めて、人々にかかる呪いを分け隔てなく解いてきた。ま、王道と言えば王道よね。安定した技術が広くもたらされるのは良いことだわ。ただ、彼らは元来神の力である解呪法だけを信じ、それ以外のすべを決して認めない。異端呼ばわりして、是が非でも見ないモノとする。我がキャンベルで用いる解呪は、彼らの中ではそういうモノなの」

 リーンは、キャンベル家で教えられているものを胸中で思い返しながら、しどろもどろに問う。

「あの、でも、メグたちの解呪って、マナという力を使っていて……。マナだって、神さまの力なんでしょう?」

「考え方の違いではあるけど、神の力と呼ばれるモノを用いるのは、どちらも一緒ね。それより、解呪に用いる解呪符ソーサラーコードの方が気に食わないのよ。人の言語コードが、自由自在な力に変化するっていうのが、妖しすぎて気色悪いみたいね」

「つまり、あたしたちは、みょうちきりんな術で解呪を行う厄介者ってヤツなのよ」

 ジェラートをぺろりと平らげたプリムローズがそう言うので、リーンは不満そうにかぶりを振った。

「そんなことないわ……。だって、メグたちの使うものは、私のお母さんを助けてくれた、とても立派で、素晴らしい力よ」

 マーガレットは強く頷き、堂々と上向いた。

「そうよ。あたしたちには、あたしたちなりの信じる技術がある。増々役立てるように、日々研究も重ねているわ。……でも、ここは、この街は、解呪師の総本山。全ての解呪師の礎であり、伝統たる誇りと威信の象徴。呪いを解く力は、神の力は、たった一種だけだと頑なに信じ込む一辺倒――天空都市って、そういうところなのよ」

 そう言い終えるマーガレットは、真っ直ぐで誇り高い声を貫いたままだった。それでも、その芯強き矜持は、孤独な響きを併せ持つ。寂しげな眼差しを天高い塔へと送る少女を、リーンは胸の奥がぎゅっときつく窄まるような心地で見つめていた。

「――嬢ちゃま、ジェラート溶けちゃう」

「え? あっ」

 プリムローズから指摘され、リーンは手の内のジェラートへ目線を戻す。ふやけてしまったコーンと共に、慌ててぱくついた。

「あらやだ、あたしの愚痴のせいね、ごめんなさい」

「う、ううん、ひいのよ、めふ」

「……おしゃべりはちゃんと食べてからになさい」

 リーンの頬一杯膨らませる顔を見て、マーガレットは気の張った表情を緩め、くすくすと苦笑した。

「辛気臭い話をしちゃったわね。ま、アウトローからの僻み文句みたいなものだから、あんまり気にしないで頂戴。誰かの苦しみを分け隔てなく取り除いてあげたいという本質は、他の解呪師と一緒なんだから、それさえ覚えていてくれれば嬉しいわ」


 そう締め括ると、マーガレットはさらりと話題を変えて、リーンに訊ねた。

「さて、あなた、お友達――エミリーちゃんと会う時間は、大丈夫なの?」

「うん、待ち合わせがお昼すぎなの。お茶しながら話そうって。上の高台に公園があるって聞いているから、そこで落ち合うの」

「空中庭園のことね」

 マーガレットは広場にある時計を見やった。太陽はまだまだ頂点から傾かず、昼すぎとは言い難い時間ではあった。

「それじゃあそこまでブラブラ観光しつつ、案内してあげるわ。水入らずの邪魔はしないけれど、ヨーク兄さんから頼まれているし、そこまではエスコートさせてもらわないと」

「そうなのよ。この街は背高のっぽの割に、横幅は手狭で通行がしにくいからね。嬢ちゃま一人で向かわせるのは、ちょっと不安なのよ」

「え?」

 リーンが目を瞬かせると、姉妹たちは唸って首を捻る。

「嬢ちゃま、絶対落ちる」

「そうならないよう、二人でサンドイッチしましょうか」

「あの……? 落ちる……? サンドイッチ……??」

 

 空中庭園は、観光区の最頂上の高台にある。とはいえ、街の塔の上に到達するにはまだまだ低い位置にあるのだが、遠くの山々まで眺められるような高い場所にあるのは変わりない。大理石の壁面に沿うように作られた経路は、外側に剥き出していて、見晴らしの良さに評判がある。だが、小さな柵が申し訳ない程度に並んでいるだけの、安全性には乏しい道だ。崖に張り付くように作られた道と同一であるのだ。ここから落ちれば、当然助からない。

 その真下に広がる高原には、段々畑に植えこまれる果樹園と牧場が見える。小さいながらも牛が牧草地をゆったり歩いているのを捉え、リーンの目が釘付けになった。

「リーン、よそ見しない!」

 マーガレットからすかさず注意が飛んできて、リーンは視線を真っ直ぐ前に戻した。先頭を歩くプリムローズには手をしっかり繫がれ、マーガレットには後ろから肩を掴まれながらの厳重警戒である。少女たちは一列になって、緩やかな坂と急な階段で作られた道を進んでいく。

 都市という名を背負っているが、敷地面積は村落程度の小さな街である。道幅は狭く、人一人通るのがやっとな街路も少なくない。反対方向からやって来る人にも注意を払わなければならない。

 それでも、リーンは恐れより物珍しさによる好奇心が勝った。街路や壁を彩る白亜と薄紅色に半ばうっとりしながら、言い零す。

「すごいわね……! こんなところも綺麗な色の石で作られているのね」

「……嬢ちゃま、結構高いとこ平気なのね」

「怖がりのくせに、これが怖いって思わないのかしら。あたしは今、人並みに警戒心と恐怖心を感じているわ」

 キャンベル姉妹から驚きと呆れの眼差しを送られつつも、リーンは気にせずに浮かれて言う。

「メグとプリムが挟んでくれているから安心出来るもの。あ、見て見て、石畳の隙間。小さな花が咲いてるわ!」

「お願いだから、ちゃんと前見て進みなさい。高台に着いたら、思う存分よそ見していいから」

 マーガレットは、リーンの肩を更にがっちりと掴んだ。今にもはしゃいで飛び出してしまいそうな少女には、確かに監督者が必要だろうと最年長の少女は認識し直す。ヨークラインが妙に気にかけてしまう理由が分かる気がした。

 進めば進むほど道の幅は狭くなっていく。偶に突風が頬を打ち付けるように立ち向かってくるので、自然と身を竦めるように縮こまる。

「風が強いわね。吹き飛ばされないように注意しないと。特にプリム、あんた軽いから」

「軽いって言っても、そこらの石っころよりは重いのよ」

「でも、本当にすごい風。この流れに乗ったら、鳥みたいに飛べてしまいそう――きゃっ」

 横っ面を叩くような風を受けて、リーンは顔を横向きにそらして目を伏せる。すぐに瞼を開けて、そのまま上向くが、思わず視線を留めた。進む足も止まってしまう。奥の曲がり道の上部にある手狭な展望台に、異様な人影を捉えたのだ。

 真夏には相応しくない、上から下まで姿を覆う真っ黒な外套。そこから見え隠れする長い指爪、波打つ淡色の髪――まるで、お伽話に出て来る悪い魔法使いのような出で立ち。

 フードに隠された表情は見えない。けれど、こちらを見つめているような気配がした。不思議と不穏さを感じさせないのに、その幻想的な漆黒は、色褪せないインクのようにリーンの瞳へ滲み落とされる。

 耳の後ろをなめる風が、一層に強く舞う。

「あ!」

「――嬢ちゃま!」

 プリムローズがぎょっとした声を発したのと、リーンが身を乗り出すようにして駆け出したのは、ほぼ同時だった。

 黒い外套の人間が、その場から飛び降りて見えなくなってしまったのだ。

「ちょっと、リーン!? 戻りなさい!」

 突発的なリーンの勢いに負け、手を離してしまったマーガレットはきつい声で叫ぶが、リーンは走ったままで声を返す。

「大変! 誰かが向こう側へ落ちたの!」

「嬢ちゃま、待って! 一人で行かないで!」

 プリムローズも慌てて小走りで進もうとしたが、吹き荒ぶ風に煽られ、己の髪で視界が遮られる。戸惑う合間に、みるみると引き離されてしまった。

 リーンは一人、細い道を躊躇なく駆け抜けていく。階段を上り、黒い外套の飛び降りた場所まで辿り着くと、しゃがんで下方をじっと覗き込んだ。遠く遥かの真下には、急流の細い川が断崖絶壁の間を走っている。黒い目印になるものは見当たらなかったが、日陰に入っているため、谷底は薄暗くて見えにくい。

「ど、どうしよう……本当にあの下まで落ちてしまったのかしら……」

 真夏の陽光が、じりじりと全身を焼いて熱い。走った身体にうっすらと汗が浮かぶ。天高い街は暑さを感じさせにくいが、この季節の日差しに弱かったことを、リーンはようやく思い出した。風が強いままでは帽子も被れず、細い道では日傘も使えない。丁度良い日除けを見繕えないのだ。

 日陰を求めて、とりあえず立ち上がる。その際、くらりと立ち眩みを覚えた。足元がふらつき、背を向けた方向を確認出来ないまま後ずさる。手で何か掴もうとするも、宙をからぶった。そこには柵すら付いていないのだから、当然だった。

「――あ、」

 ごくわずかな浮遊感の後、身体は風と共に真っ逆さまへと引っ張られる。

 人の身では鳥のように飛べるわけもない。大きな翼もない、風に乗る方法も知らないのに。あの黒い魔法使いと同じように、ただひたすら無残に落ちていくだけだ。

 恐怖に弄られる感覚がたちまち襲いそうになった時、


 ―――――リ……ン!


 己の名を叫ぶ声を聞いたような気がした。リーンの視界に降り注ぐ目映い灼熱の太陽と、遥かな天空の蒼に、一つの影が真っ直ぐよぎった。

 すぐに柔らかな衝撃がリーンの全身を覆った。刹那的な速さで迫り来る影によるものだった。大きな布に包まれるように、身体は痛み一つもなく受け止められたのだ。

 しばらくは混乱したまま、目を瞬かせることしか出来なかった。けれど、早鐘を打つ心臓が、まだ死んでいないのだと暗に強く告げていた。そう気付くと、やっと強張りはわずかに解けた。暖かな布からはみ出る頬を、爽快な風が撫でていく。それに誘われるように、少しずつ、視線を外へ巡らせる。

 天の蒼とを明確に分ける、真っ白な幾重の雲の上を、渡るように飛び続けていた。

 しばらくしてから少し下降し、雲下へと飛び込んだ。地上から険しくそびえる山々と激流の川を、造作もなく飛び越えていく。かと思えば、再び雲の上へ突き抜けた。陽光を思う存分に浴びて、風の中を揚々と泳ぐ。まるで遊ぶように、踊るように、天を奔放に飛び回る鳥が感受する世界そのもの。

 恐怖に弄られていた少女の目と心を、一気に奪った。

「すごい、飛んでる……!? 夢見たい!」

 目まぐるしい昂揚感で、うっかり落ちたことも忘れそうになってしまう。リーンの惚れ惚れするように口走った言葉で、おかしそうに吹き出した声がすぐ上部から聞こえてきた。


 リーンは、ようやく身の回りまで意識を向けた。己をすっぽり包み込んでいたのは、柔らかでしっかりした大きな羽毛の集合体、まるで翼のような暖かな着衣だった。

 ――鳥?

 リーンが瞳を丸々にして、そうぽつりと呟けば、再び上部から小さく笑う気配がした。

 鷲の羽翼に良く似る、白黒の均一に入り混じる外套が、わずかに揺れ動いた。逞しい身体にぎゅっと抱え直されたのだと知る。

「観光に不慣れなおのぼりさんは、あんまりはしゃぎ回っちゃいけねえな。走り回るんなら、精々ふもとの街中だけに留めておきな」

 少し雑な物言いではあるが、安堵したように零れる明朗な声だった。

 リーンを大事そうに抱えるのは、翼を背に纏った大柄の若者だった。



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