第11話 妹は、目の前のニンジンに飛びつき、巻き込まれる。 ②



 ――姉のお願いは本当に単純なものだった。


 なんてことはない。兄ちゃんの家まで一緒に行こう。ただのそれだけ。

 さすがに馬鹿らしくなって、『ダーリンの家なんて、すぐそこじゃん。アタシが電話して呼ぼうか? 』なんて茶化すように軽口を叩いたら、


 『次、アイツのことダーリンって呼んだら……覚悟しなさいね』


 にこりと静かに笑われた。

 アタシは知っている。この笑いかたはヤバいヤツだ。


 『……はい。さーせんした』


 過去の忘れ去りたい記憶が脳内を走馬灯のように走り、久しぶりに姉へと頭を下げた。


 ――そして、


 「アタシが、玄関のチャイム押すまで一緒に居てね。約束だからね」


 「はいはい、わかったから、ちゃんと歩いてくんない? 」


 兄ちゃんの家までほんの数歩。アタシは今、姉を半ば引きずって歩いているわけで。

 ひとの背に隠れるようにして、しかも腰を引いて歩くもんだから、重たくて仕方がない。リュックに姉の体重がかかり、肩紐が食い込んで痛いのなんのである。


 「……チャイム押さないとダメかなぁ」


 「いや、さっさと押しなよ」


 あっという間に兄ちゃん家に到着。姉を引きずったとしても、たいした距離ではない。

 それにしても綺麗な家である。いつ見ても見飽きることがないのだから感心する。

 おばさんがキレイ好きだからだと思うけど、庭木の手入れが行き届いていて、季節ごとにいろいろな花が咲いている。

 うちは父以外、大雑把な人間の集まりなもんで、ガーデニングなんて繊細なモノは、全くと言っていいほど性に合わない。唯一、あの母が可愛がっている玄関の金のなる木は、アタシの見立てでは今度の冬を越せるかどうかという所だろうし、いやはや、このキレイな建物を家というのであれば、我が家は小屋といわれても仕方ない。それほどまでに、うちとは比べものにならないおしゃれな家である。

 そんな住む世界の違う空間で、花の十代が二人。あとは呼び鈴を押すだけなんだけど、この姉のことである。

 「ねぇ、後ろのほうとか跳ねてない? 」だの、「前髪がさぁ、ヤだなぁ……」だの。なよなよモジモジとし始めたのだから閉口してしまう。

 さすがに、アタシにも予定がある。姉たちがどうなろうと知ったこっちゃないが、――いや、兄ちゃんは可哀想だな。――こっちは学校に遅刻すると非常にやっかいなのだ。

 まず友達が心配し、次に担任に怒られ、最後に母からひっぱたかれる。良いことなんて一つも無い。それがイヤだから多少時間に余裕を持って登校しているけれど、それでもそこまで時間があるわけではない。

 あのさぁ。と、アタシは溜息をついてしまう。


 「とりあえず玄関先まで行きなよ」


 姉の背中を押して、強引に門扉をくぐらせた。


 「ちょっと押さないでよ!! アタシのタイミングで行かせてよ!! 」


 「うっさい! 遅刻すんの! 」


 アタシと姉は背丈がそこまで変わらない。だから、どちらが極端に力持ちと言うこともなく、この場合、前で踏ん張る姉よりも、後ろから押すアタシの方が有利なわけで。


 「せ、せめて、せめて前髪だけは直させて! 」


 「い、いいから早くして! 」


 まだ今日は始まったばかりなのに、朝っぱらから肩で息をしているのだからたまらない。しかも他所様の玄関先である。若い女が二人して、ゼェゼェと膝に手をついて息を切らせているなんて、いったいどんな場面なのか。

 でもまぁ、なんだかんだで玄関まで着いたのだから、あとはこっちのもの。隙を見て、アタシが呼び鈴を押してしまえば良いのだ。

 姉は怒るかもしれないけど、兄ちゃんが出てくれば、どうということはない。どうせ、姉の目はそっちに釘付けになるのだから。

 姉はせっせと前髪と格闘中だし、機会を逃せば、無駄に時間を費やすことになりかねないわけで、やはりチャンスは今しかないだろう。

 そんな、アタシの指が呼び鈴に触れる、ほんの少し前に、――扉が静かに開いたのだ。

 一呼吸置いて、姉の笑顔が満開に咲き誇る。


 「あ。お。おは――」


 そして、……まさかまさかだった。

 何事も無かったようにゆっくり扉が閉まったのだ。もちろん兄ちゃんは家から出てきてないわけで。


 「――よ、う……」


 兄ちゃんにしか見せない百万ドルの笑顔も、朝のあいさつも、まるで風景に溶けるように消えていく。


 ……えっと。


 こんなときアタシはどうしたら良いのだろう。閉まった扉と、凍り付いた姉を交互に見ながら、言葉を無くしてしまう。


 ……え? なんで? もしかして兄ちゃん怒ってる?


 開いた扉の角度的に、兄ちゃんの顔を見ることは出来なかったが、無反応で扉を閉めたとなると、これはマズい。非常に良くない流れである。

 ギギギとまるで、油の切れたブリキ人形のように、姉がこちらを見てくるもんだからたまらない。震える手は扉を指さして、顔はもう泣きそうになっている。

 アタシは空を見上げてしまう。頭の中では『しくじった』という言葉が駆け巡っている。

 姉の頼みはホドホドに。今更ながら我が家の家訓を思い知る。やはり、簡単に頼み事を聞くんじゃなかった。

 なんせ、このパターンは長引くパターンなのだ。

 アタシは知っている。兄ちゃんと姉のこの空気は、ケンカしている時のソレだということを。

 だけどおかしい。

 昨日の話の流れでは、むしろ幸せいっぱい胸いっぱいのクソ甘お花畑を覚悟していたのだけど、どういうことなのか。

 確かに姉から詳しく聞いたわけではないし、兄ちゃんもメッセージのやりとりでは教えてくれなかった。

 となると、これはあれだ。

 一番面倒で、かつ、長引いて泥沼と化す、無自覚に姉が兄ちゃんを怒らせてしまったパターンだと、アタシの勘が、そう叫んでしかたない。

 そうなれば、もしかしなくとも、アタシはやっかいな事に巻き込まれたのだろう。

 この姉は、持ち前の意地っ張りでどんなに自分が悪くても謝らない。それに心当たりがないのならなおさら謝ることは無い。だけど、それでは治まるものも治まらない。長引くのは必至なわけで。

 うわぁ、めんどくせぇ……。

 さっさとこの場を離脱したほうが賢い気がしてきた。なんちゃらは犬も食わないというし、巻き込まれたアタシはただの被害者だ。だから、


 「は、ははーん。兄ちゃんきっと忘れものしたんだよ。お姉ちゃんの顔を見て、思い出したんだなーきっと」


 部屋に取りに戻ったんだよ。あはは。

 なんて、もう、こうなったら適当な事を言って逃げるしかない。棒読みの三文芝居だけど、意外とその通りかもしれないし、それならそれで万事解決なわけだし。


 「だからほら、こんなところで待っててもあれじゃん? 中で待ってなよ。うん、それが良いって」


 アタシは今、ちゃんと笑えているだろうか。これ以上ドロドロの泥沼になればこちらにも手痛いとばっちりがあるだろうけど、まずは目の前の問題からだ。

 とりあえず、このままでは遅刻してしまう。それだけはなんとしてでも回避したいのだ。

 姉の涙目は『ほんとにそう思う? 』といった種類のものだったけど、知ったことか。


 「しかも、せっかくお姉ちゃんが挨拶したのに、兄ちゃんは何も言わずにドアを閉めたんだよ? 文句のひとつくらい言ってやんなきゃ」


 ごめん、兄ちゃんホントにごめんなさい。アナタは絶対悪くない。でも、勘弁して。今だけは悪者になってください。もちろん、フォローはしておきます。なんなら、このバカ姉と、これがきっかけでどうしようもなくなれば、お詫びにアタシがお嫁に行ってあげます。……おや、その場合、あながち悪い事ばかりではないのかも。


 「……でも、なんか怒ってなかった? 」


 「いやいや、心当たり無いんでしょ? じゃぁ、怒っているように見えただけだって」


 「でも、アイツ、無視したし……」


 またもや、ベソをかきはじめた姉に、――あぁもう、ホントに時間が無いというのに。――いよいよ腹が立ってきた。地団駄を踏みかける足を沈め、でも顔は引きつってしまう。

 そもそもだ、そもそもこの諍いは十中八九、この姉のせいにきまっているのだ。小さな頃からずっとこの二人を見てきたアタシだから、間違いないと断言できる。

 なんせ、悔しいけど、兄ちゃんは本当にこの姉のことを大切にしているし、ケンカするにしても、兄ちゃんからふっかけることはこれまでほとんど無かったのだから。

 どうせ今回も、意味不明なワガママで困らせたのだろう。兄ちゃんも人間だし、虫の居所が悪い日もある。バカ姉の心ない一言にカチンときて、その自分本位の行動にムカっ腹が立つ。そんな日があって当然なのだ。

 永遠に続きそうな姉の小憎たらしい思案顔を見ていると、マジかコイツ。本当に心当たりが無いのかと、なんだか兄ちゃんと、そして今の自分がとても不憫に思えてきた。焦る心も相まって、いよいよ我慢の限界だ。

 だから、今から言うのは、アタシと兄ちゃんの憂さ晴らし。これだけ被害を被ったのだから、少しだけイヤミを言っても罰は当たらないだろう。

 アタシはこれ見よがしに、咳払いをひとつ。


 「でも、もしもだよ? もし、お姉ちゃんのせいで兄ちゃんが怒ってるのなら、」


 少しだけ、冷めた表情で姉に言い放った。


 「……謝んない誰かさんは、――嫌われて当然だよ」


 そんなの百年の恋も冷めるね、ご愁傷様。アタシは手のひらを合わせ、わざとらしく合掌してみせる。

 でも、少しやり過ぎたかも知れない。

 まさに会心の一撃か。姉の透き通るような白い肌は、一気に血の気を失った。

 あちゃー、やっぱりか。アタシは頭を抱えてしまう。

 ほーら見たことか。やっぱり何かしら思うところがあるのだろう。姉は、『もしかして、昨日怒って帰っちゃったからかなぁ』とか、『バカっていっぱい言っちゃったからかなぁ』とか、ブツブツ念仏のように唱えている。

 そもそも、この姉、『キライ』というワードに非常に弱い。特に兄ちゃんが絡むとなおさらである。


 「あーぁ……」


 思わず出たアタシの溜息に、姉の身体がビクリと跳ねた。そりゃ溜息の一つくらい出るというものだ。


 「……なによ」


 だから、姉が顔面蒼白のままで気丈に睨みつけてきても、これっぽっちも引く理由がない。


 「いや、ようするにお姉ちゃんのせいなんでしょ? 」


 だって、心当たりありますよと、そう顔に書いてあるんだから。




 ――アタシは月曜日がキライだ。そして、そんな日に、朝から面倒ごとを持ってくるヤツはもっとキライだ。


 もういい加減付き合いきれそうにない。見ると、通勤通学で、道路には人が溢れ始めていた。いつもなら、今通ったサラリーマンとはもっとも~っと先ですれ違うし、向こうの方からは駆け込み乗車で有名な若いOLさんが半泣きで走ってきている。そんな見慣れた顔が行き来する中、ヤバいと焦って仕方が無い。

 駆け抜けるOLさんの後ろ姿から考えるに、だいたい今の時間はこのくらいか。

 タイムリミットはもう目と鼻の先。いよいよまずいことになってきた。自分自身、もはや歩いていては間に合わない。

 ええいと、アタシはドアノブに手をかける。


 「あ、ちょっと! 」


 上ずった姉の声が聞こえたが、無視だ無視。もはや時間が無いのだ。

 アタシは最後にもう一度、たくさんの意味を込めて姉を睨みつける。


 「だから、お姉ちゃんが悪いわけでしょ? 」


 ぐうの音も出ない、そんな様子で姉は眉をハの字にして、悔しそうに睨み返してきた。


 「……ちがうもん」


 あぁもう、面倒だ。この期に及んでまだ言うか。たっぷり間をとって、出てきた言葉がこれなのだからたまらない。

 だけど、アタシは知っている。その顔はいつものあの顔だと。

 勢いよくドアを開け放つと、これだから手のかかる姉を持つと妹は苦労する。


 「いいから、さっさと仲直りしな」


 姉の背中を押して、脇目も振らずに一目散に駆けだした。

 遅刻が、もう目前まで迫っていた。



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