第5話:アフタークリスマス

 十二月二十六日、朝。土曜日だから仕事はない。起きたのは十時をとうに超えていた。

 のそりとベッドから這い出てシンクで水を汲む。コップの縁に唇を押し当てながら何の気無しにキャビネットの上を見た。

 そこには手の平大のプラスチックケース。

 アレ何だっけ……。近寄って、あぁと思い出す。昨夜コンビニで哀愁を漂わせていたクリスマスケーキのひとつだ。

 おもむろにカップの蓋を開けてイチゴを食む。じゅわり、甘酸っぱい果汁が舌を湿らす。

 脳裡にさっと流れたのは昔の記憶。

 スポンジを焼いて、水平に切ったその真ん中に生クリームとイチゴを並べていく。また重ね合わせたスポンジの外壁にペタペタとクリームを塗りたくるのがおれの楽しみだった。指についたクリームを舐め、行儀が悪いと怒られるまでがワンセット。

 天辺をクリームで飾るのは母さん。器用な人で、店で売っていても文句を云われなさそうな出来栄え。

 その中央にこれまたイチゴを乗せるのもおれの仕事。だけど一番やりたかった、マジパンのサンタを最後に飾るのは姉さんの役目だった。

 チキンの香草焼きの下準備はいつも父さんがしていた。それを母さんがオーブンに入れれば良いだけの状態で冷蔵庫に保管されるのが毎年のお決まりだった。

 チキンとケーキとシャンメリーと、寝て起きたら枕元に置かれたプレゼントにはしゃぐ。

 全部良い思い出で、全部忘れたい思い出だ。

 十五年前からチキンもケーキもおれが一人で作るようになった。

 七年前には、チキンもケーキも作る必要がなくなった。

 あの時の高揚感や、笑顔が消せない味はもう味わえない。

 上塗りをしてくれる人が現れる気配もない。基、上塗りをするつもりは多分ないのだと思う。

 山形になっているクリームを人差し指で掬う。冷蔵庫に入れていなかったそれは少し溶けていて滑らかに指を汚した。

 そっと口に運んで、目を細める。

「美味しくないな」

 一瞬、叱られる声を期待した自分の子供っぽさに我ながら呆れる。

 カップの蓋を戻してゴミ箱にそれを放る。甘いものは嫌いじゃないが、特別な日を象徴するケーキは食べたくない。

 またベッドに寝転んで、遠目にキャビネットの上をぼんやり眺める。

「おれもそっちに行けたらな……」

 そうしたらきっとまたあのキラキラと輝く楽しい時間が過ごせるかも知れない。

 とはいえ、と逆側の窓辺に視線を遣る。

 おれの部屋はマンションの五階。

「どうしてかな……まだ踏み出せないんだ……」

 自嘲を滲ませ、写真立てを乾いた眼差しで見詰める。

 写っているのは幼いおれを囲む両親と歳の離れた姉。

 両親は事故で。姉は過労で亡くなった。

 もう不在を哀しむような時期は過ぎたけれども、虚無感はいつだって不意に胸に風穴を作る。

「……もう少し寝よう」

 今は現実と向き合う気になれなくて、おれは布団を頭から被った。

 

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