1時間執筆トレーニング小説ルーム

高梨蒼

【神話都市】神話の宇宙の弥志郎兵衛(お題:ラグランジュポイント)

「あぁ、もう。あぁ、あぁ、もう!」


 野暮ったく伸びた髪を搔き乱しながら、自転車に乗った少年は通学路を駆け抜ける。恨めし気に睨む進行方向、学校のさらに先には大きな、大きな神像の建設現場が見えた。怒りの半分をそれに、もう半分を昨日の自分にぶつけながら、彼はそれでも嘆くよりも脚を動かすことを優先する。

 今朝は、ハッキリ言って最悪だった。目覚まし時計は電池が入っているのになぜか泊まり、割った卵の卵黄はひとつだけだったし、ここまでにある三つの信号ではすべてで止められた。すべてが大通りというわけではないけれど、そこもさらに不運なのか、有袋飛竜キャリィバーンを動員しての引っ越しに鉢合わせてしまい、信号無視も出来なかった。トラックならまだしも、幻獣を使っての引っ越しが相手では、轢かれたこちらが慰謝料や物品の弁償をせねばならない。――その弁償が、金銭で済む保証もないのだ。危険は避けるに限る。


 神と悪魔と現と幻の、その坩堝たる聖地での生活は、彼にとって平穏無事のはずだった。どの派閥や眷属に身を寄せるわけでもない、どころか神について研究しようとする余所者の彼だけれど、そんな彼なりに平和に過ごせるように努力をしたのだ。不遜と放逐されぬよう、されど学究の目が濁らぬよう、緻密に行動をしてきたのだ。

 例えば、家選び。主要な神殿、社、秘跡に集会場、その他諸々に対して、近すぎず遠すぎず、ましてやどこかの神の眷属が大家なんてことがないように。

 例えば、インテリア。部屋の四隅に主要四神魔の神聖色の置物を配置し、一定の敬意を示しつつも、偏りすぎないように。

 例えば、言葉選び。うかつにどこかの派閥に属するような発言をしないよう、慎重に。高校生らしい、ごく自然な、この聖域の街の外でもしたような話だけに努める。断るときも、なるべく自然に。

 そうやって、全ての神、あるいは悪魔からの距離を適切にとり、運気を安定させ、ラグランジュポイントを維持して、平穏無事な生活をしていたはずだったのに。


「あぁ、あぁ、あぁ!アクラ……ンン、俺の馬鹿め!!」


 なのに、あの水の神の像は造りかけのくせにいつの間にか少年の生活に影響を与え始めたのだ。少年はペダルを踏み込み、心だけは踏みとどまり、息と一緒に吐きかけた悪態をギリギリで自戒にする。ここで本当に名指しで罵倒をすれば、次の曲がり角のマンホールから水が噴き出したっておかしくないのだ。


 初夏。葉桜の季節。

 じわりと健康的な汗と不健康な冷や汗を同時にかきながら、彼は真っ直ぐに駆けていく。遅刻までは後何分か、確認する余裕もないまま、駆ける、駆ける。

 駆けて、駆けて、高校を前にした最後の信号を前にして……気付く。


「……あれ、ずっと信号引っかかってねぇ」

「まぁ、流石に全部青には出来ないわよ。悪いわね」

「いや、助かっ……っ!?」


 思わず零した独り言に、聞き慣れない声が平然と答えた。あまりにも平然としているものだから、少年も思わず応答しかけたけれど、その少女の異常性に気付いてからは、息を不自然に詰まらせてしまった。

 なぜ彼女は、さも自分が青信号にしたかのように言ったのか? それ以前に、この同じ学校の制服を着た少女は誰なのか? この、俺の自転車の荷台に乗っていた少女は。重みゼロ、情報ゼロ、存在感だけは無限にある、この女は、誰だ。――いや。


「『何』だ、お前」

「……へぇ」


 喉が締まる。目が乾く。飲み込んだ唾が飲み込めていない。過熱しているはずの手指が凍える。その真っ黒な、鉱石とも夜とも表現できない視線と向き合うだけでも、真っ白な、何かに触れれば汚れるどころか穢れを祓うことすら想起させる髪が風に撫でられる様を見るだけでも、心の芯が何かに掴まれる気がする。

 それでも、彼は二語、六音を発する偉業を為したのだ。


「あはっ、あはは! あっは、はー……すごいね、君。……『何』、と問うべきだとわかって、『お前』、かぁ? あー、はは、へっ、おほっ、おえっ!」

「……答え、ろ」


 彼をじっと見、震えた言葉の中にある何かしらの意思――おそらくは、矜持――を受け止めて、少女はけらけらと笑い出し、無様に咳き込んだ。笑い声を一息漏らした瞬間に、少年を縛り付ける威圧感は失せたのだけれど、逆にそれが「目の前の少女は只者ではない」証左となり、少年は自身のうちに迸る痺れのような緊張を解くことはできなかった。

 そんな彼の軟化しない態度を、むしろ良しとして、少女はとん、と自転車の荷台から降りた。


「……うぅん。今のところは、転校生、ってことで許してくれるかな?」

「駄目だ」

「んー……じゃあ、『かみさま』、って言ったら信じるかい」

「かみ、さま」


 少年に、少女が――神がにまりと問いかける。少年は、間抜けに復唱するだけ。


「ねぇ、名前は?」

「……網江、弥志郎」

「一年三組の、ヤシロウ。うん、いい名だ。……じゃあ、そろそろ行きなさい」

「は? お前、お前の名前は」

「あはっ! いい顔だね」


 己にだけ名乗らせた自分へ、ようやく等身大の少年らしい不満感を露わにした弥志郎に対して、少女はもう一度満足げに、どこか母性めいた温かみを帯びて笑った。


「転校生の情報は、ホームルームのお楽しみだろう? せっかちな男は嫌われるよ。……あたしは、まぁ、好きでも嫌いでもないけど」

「はぁ?」

「かみさまとしての名前は、まだ、決まっていない。君と創っていけたらと思うよ、弥志郎」


 笑い声を収めて、少女は指を鳴らす。ぱきり、小さな音がすると同時に信号が青に変わり、周囲の車やリザードライダーが動き出す。――ここでようやく、弥志郎は時間が止まっていたことに気付いた。


「……ほら、遅刻するぞ」


 慈愛と稚気を秘めた少女の笑みに、弥志郎は混乱と陶酔の狭間で舌打ちをして、なんとか自転車に乗り直した。時計塔の時刻は、猶予を示している。その猶予が、まだ少しか、あと少しかは、弥志郎にはわからなかった。

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