マシュマロ

柳なつき

とってこい

 未来は、遊んでいた。

 すくなくとも、未来にとっては遊びのつもりだった。

 だが公子にとっては――とても、残酷な、ことだった。


 ふたりがまだ飼い主と犬となる、すこし前のことである。けど仲の悪い幼い姉妹が来たあとでは、ある。

 お互いとっても疲れていたときだ、とのちのちならば笑えたのだろうけど、……でもそんなのは、二十年も経ったあとのことよね。

 いまこのときがふたりにとってとてもきついときだっていうの私なら、まあ、わかるから。……しるしといてあげるよ。その、つらさ、狂気にみちみちたその、感じをさ。


 遊びってのはつまり「とってこい」遊びなわけだけど。

 ……そもそも、あれは、命令することにすごく意味のある遊びなわけじゃん。遊びっていうか、犬のしつけ的な側面さえもあるよね。だって猫とかにしないでしょ、とってこい、って。猫はとってこいしなくても生きていることがゆるされている場合がほとんどなんだよね。犬という生きものはなんか、ワリを喰ってる。うぅん、なんでなんだろうね? 「そういう生きものだから」というほか説明できはしないんかねえ。

 そんだったら人間は「どういう生きもの」なのよってな話なわけだけど、……まあ、それはまた、べつの話ね。


 ともかく。

 未来。公子。いま、あなたたちは、どちらも五歳で幼すぎる子どもで。

 未来は公子のことどうしようもなくなっちゃったんでしょ――幼稚園のちっこいアイドルの萌ちゃんにも、未来、きみは失望されたと感じている。ちがうんだよ。萌香はね、ドン引きしただけなの。……でもまあ自覚はできないか。自分にとって、自分だけは、一生ふつうなわけだからね。うん、ある意味でだよ。もちろん。

 それでそんな遊び、考えだしてしまったんだ。ああ。

 ……かわいそうだねえ。


 かわいそうだよ。


 公子だけじゃないよ。……未来だってほんとは、被害者。




 時間は、夜で、場所は、未来の部屋。監視カメラで観られているとはいえ、ふたりはそのこと知らないし、ふたりきり。


 ひら、ひら、と舞うんだよねえ、紐が。

 紐っていうか、リードが。

 ……コロのリードと首輪の色を考えたひと、配色、完璧。そうそうそうだよ、小説書くときキャラクターのイメージカラーはしっかりきっぱりくっきり決めましょねー、なんていうのはまあまあメタすぎる発言なのかもしれんけどさ、そんでもまあ、すごいね。これはね。

 だって真っ赤な首輪にピンク色の紐。……かわいいじゃん。ただ、ひたすらに。

 女の子としてっていうかメスのワンちゃんにそうしてあげるみたいな程度の意味でとっても、かわいい、じゃんかっ。

 公子はこのときほんとは緑色とか空色が好きだったんだよ。南の島、にありそうな色が好きだった。でもそれさえもきっと最後の建前で、ほんとうは、母親の東雲ひろとふたりでボロアパートで暮らしていたとき、いつだって、いつだって、植物を見下ろして空を見上げるのがいちばん、好きだった。だから、青色、ではなくて空色っていう、公子は、……それはこの子はずっとそう。

 公子は、ずっと、青色を青という以前に空と認識していくのだろう。……難儀だねえ。


 でもじっさいいま公子を締め付けているのは真っ赤な首輪からにょいんと伸びるピンク色の紐だ。


「……あ、うっ」

 声が出てしまった。また、ピンとなる。首が締めつけられる。苦しい。いやだ。

 ちかっ、とするんだよね。酸素って、足りないと。

 十日間公子はここにいてもうほんとうにひどいことになっているが、なかでも首輪が締めつけられてふっと呼吸が苦しくなるのはそのなかでもとくに最悪だった、……ただでさえ昼間ランニングマシンの調教をやらされている。

「ああー、もうー、コロ。まただよー。だめだよー」

 公子は四つん這いのまま、激しく呼吸して、涙目で未来を振り返る。未来は例のばかでかいキングズベッドに腰かけて、コロのリードを握っている。ちょっと強めすぎないか、という感じ。飯野はおとなだからそのあたりの調整もできるけど、幼児にはさすがにそこまでの繊細な調整は難しいのかもしれない。

「ちゃんととってきてよー」

 ……そんなこと言われたって。べつに公子は悪くないけど。

 公子はケホケホと必死に息を吸って吐いて。それだけのことがこんなにも屈辱的だなんてびっくりだしそうだよ、ね、ふつうのひとってのはきっと呼吸することが屈辱的だなんて思わないんだ。というかそこまで思っちゃった人間はもう自殺するかどっかの病院だか施設だかにゆるやかに幽閉されるかのどちらかなんだけど、まあね、公子は自殺さえもできない環境なのだし。舌を噛み切る? 非現実的ですよ、おねーさん。いまどきそんなおはなしききます? 私が寡聞にして存じ上げないだけかしら?

 自殺さえもできないのだ。公子は。


 ……自殺さえもできないほどの不自由ってどんなもんか、味わったこと、ある?




 未来がやってることはとても残酷だと思う。でも子どもだから当たり前なんだろうな。子どものなにが怖いって、自分が相手の立場に立ったらとか考えられないことだと思うの、どーとくのきょーかしょ的な話というよりは、相手もおんなじ人間なんだってことがけっこう本気で認識外よね、認識外のことだけはどうしようもないから。


 とってこい。

 未来はマシュマロの袋を手にしている。ふわふわとおいしそうなマシュマロがぎっしり詰まっている。公子もマシュマロは好きだ。公子はもともと甘いものがとても好きだ、……子どもの多くがそうであるように。天王寺家に来てからは栄養こそは最低限足りていても悪意もってぐちゃぐちゃにされた雑炊というかペーストというか要はふつうのごはんなのに残飯ふうで、そんなものでもおなかがすけばがっついちゃう自分っていうのはすごく嫌だったし、大好きだったチョコレートなどもういちども口にできずに公子は夜な夜なもはや発作じみた衝動性をもってして、舌が、心が、あまいあまいミルクチョコレートを、求めた。たとえ栄養が足りていても公子はいつもおなかがぺこぺこで。

 マシュマロだって、食べられるならば、食べたい、……そりゃあ。だってマシュマロって口に入れるとあんなにふわふわふわーなのにとろんと溶けて、甘いんだよ? おいしいの。


 未来は、そんなマシュマロを、ぽい、ぽい、ぽい、と投げる。

 コロにこれを口にしてとってこいと言っている、……食べずに。

 

 ただ、口にくわえて、未来というご主人サマのもとにただ運んでこいと、飢えた少女にかくも残酷なことをしている。

 ……未来はただ遊ぼうとしているだけ。未来は。

 もちろんこういうしつけにだってじつは天王寺薫子やら飯野さんやら絡んでる。


 だがいくら未来も被害者とて、いまいちばんかわいそうなのは、公子だ。

 ……くるしい。


「あー、だからコロー、ちがうって!」

 リードの長さは絶妙に足りなくてピン、と伸びた。公子の呼吸はまたしても苦しくなる。それでも、目を悔しさと涙にぎらつかせて、手を伸ばして床のマシュマロを取ろうとする、……もっとも公子の手にはもうすでに犬の肉球を模したグローブがかっちりと嵌められちゃってるわけだから、マシュマロの周りを勢いよくかすめても、マシュマロを的確につかまえることはこれがあんがい難しい。

「ちがうのー、手ぇつかっちゃだめなんだよ! そうじゃないの! もどってきて! コロ!」

 公子はなおもがんばろうとするが、無理だった。苦しいもん。それに、めいれい、なんだもん。未来がしゅるしゅると引っ込めるリードに合わせて、四つん這いで、惨めに、撤退するの。

「ちがうんだよー、コロー、こう、口でくわえて! もってくるの!」

「……わう」

 コロはもう最高に理不尽なので疲労感たっぷりに憮然としている。

 ……そうなんだよねえ、言葉も喋るの禁じられてるから、この子。


 言うことさえも、できないのだな。


 未来が投げたマシュマロとコロの口もとにはあまりにも距離がある。手を伸ばせばぎりぎりといったところ。しかし公子の前足は不自由にされている。かといって舌では届かない。いまのままでは公子は永遠に、マシュマロを、とってこいできない。

 だから、マシュマロを、食べることはかなわない。……あんなに近くにあってすっごくふわふわなのに。


 公子にとっては永遠にマシュマロを食べられないというのは生活レベルのリアルだ。



 公子はリードが引っ張られて首が苦しくなるたびに声を漏らす。きゃう。それがなんとなく公子はすごくいやだ。まるでほんとうに犬が鳴いてるみたいだ。

 人間もね、……犬として育てれば、あるいは生きものとしておなじところに行きつくんじゃないの? って……。


「あー、もうコロ、ちがう!」


 そんなこと言われてもねえ、……こーこねえ、困るよねえ。

 だってちがうのは公子以外の世界のすべてだ。

 どうしてだろう。なんでだろう。あうあう声を漏らしながら、あと一歩というところでマシュマロを口にすることさえもかなわずに、同年代の男の子に、公子は、しつけられ続ける。

 しつけられ、続ける。


 とんとん。お坊ちゃま。入りますよ。がちゃり。


 まあ、飯野だった。夜のこの時間でも割烹着にサングラス。変。

 この不毛な時間はもうそろそろいいだろうと判断、したのだろう。……まあ監視カメラあるしねえ。べつにほかの使用人に任せてもよかったのだが、いや、いやいやここはわたくしが出ないとと飯野はかたく思っているのだろうなあ、……このひとはこのひとで跡継ぎ育成に夢中ってとこあるから。薫子さまという建前がいてまーだかーろうじて、よかったねー。よかったですねー。


「まあ、なにをなさっているのです」

 飯野はいつも白々しい。

「コロのしつけ。こうやってしつけてあげればいいって飯野おばさんも言ってたでしょ?」

「あらあら坊ちゃん。いけませんよ。コロがずいぶんくたびれちゃってるじゃないですの」

「でもやらせることがしつけなんでしょ?」

「動けなくなったら憐れです、この子は坊ちゃまの命令にはなんでも従わねばならぬのですよ。……あー。あらあら。だいぶがんばりましたねえこれは」

 飯野はそう言いながら、目ばかりぎらつかせて四つ足で命令待機している公子の背を、撫でた。ぞくりと背中一面が粟立つ。公子は、飯野が苦手だ。最初に自分を犬扱いしてきたひと。おとな。わたしが走り続けないといけなくした、ひと、おとな……。

「呼吸、しなさい」

「…………う?」

 飯野は公子の首輪からリードを外し、首輪そのものもすこしゆるめてやった。……これも、ランニングマシンの終盤になると、しばしばなされることだ。まだ、やれる状況にすることは、ある意味で――天王寺薫子さま的な意味で、だいじなのだ。

 公子はとてつもない怯えをもってして飯野を見たが、とくに怒っているようすはなく。なんだか気が抜けて、きゅう、とカーペットの床にうつぶせで、溶けた。

「……ちえー。つまんないの。ねえ飯野おばさん、なんで……」

「コロはもうお昼間運動を済ませているのです。それ以上動かしたら、動けなくなってしまう。いいですかお坊ちゃま、そういう勝手なことをなさってはいけません。おばあさまにご報告しますよ」

 未来はなにかすごく反論したそうになったが、すぐになにかを納得して、しゅんとなった。

「……僕、コロと遊びたかったんだ……」

「まあ」

 飯野は、声だけは相変わらずぴったりと愛想よく。

「それであれば、もっといい方法があるじゃないですか。それとももしかして、坊ちゃま。……しつけではなくてコロと遊びたかったんですか?」

 未来はばつが悪そうにこくりとうなずいた。飯野は、にやりとする。

「なあんだ。それでしたらなにも問題はないのです。ねえお坊ちゃま。……それでしたら飯野に考えがございますよ」

 公子はすーはーすーはーうつぶせのまま苦しそうに呼吸を繰り返している。全裸の幼女の背中と映える赤い、首輪。



 まあ平和的に遊ぼうよ、ってことだった。……それこそこんな表現こそが偽善だなんて目でもないくらいにお砂糖コーティングあまあま表現なのだけど。要は調教ですからねえ。ただの、調教ですからねえ。

 そうやってそういうの繰り返してくんだ、……いまどきその手のフェティシッシュバーでも行かなきゃできないようなこと、こいつらはずっと生活として繰り返してく。


 飯野の指導監督のもと――。


 とってこい、遊びは、マシュマロでなくホネのおもちゃに変わった。

 未来がぐいぐい公子のリードを好き勝手引っ張るのではなくて、ゆるい感じに幅をもたせてやった。

 簡単なことだ。

 未来が、ホネを投げる。公子が、口でくわえる。未来のところにもってくる。未来が、頭を撫でて褒めてやる。

 たった、それだけのことだ。

 ……じっさい未来は最初こそそんなのつまんないと反論した。未来は未来でそれなりの頭をもっているから、そうやってただおなじことの繰り返しを遊びとするのはなんだか退屈だったのだろう。未来はそういうお歳ごろなのであった。


 とても恥ずかしいことを無理やりさせられていて、でもどうにか達成できて、そこに誇りさえも覚えてしまう。

 ……まあ、そんなひと、歴史上たーっくさんいたんだろうけどさ、歴史は星空だし。

 けど、だからこそ、


 言葉で残ってないと思うよ。

 ただ、まあ、ハマったよね未来。うん。



 公子の顔がまあいじらしいんだわ。未来が投げたホネをとてとて慣れない四つ足で目がけていくでしょ。くわえる。もうその時点で悔しそう。いやそりゃそうだ。そりゃそうだわ。いくら子どもとはいえまともな人間のやらされる芸じゃない。それ言ったらまともな人間のやらせる芸でもないけど。公子は涙目になりながらもどうにかくわえる。はむっ、と。そしてまた慣れない四つ足で、ホネを口から落とさないように注意しながら、とてとてと戻る。ホネをくわえていると唾液が垂れ下がりそうになるのが公子はとても嫌なんだ、うん。そんで、ベッドに腰かける未来の前に来て、未来をきゅっと見上げて、あんぐと口を開ける。未来はそのホネを、受け取る。

 公子の顔が、まあ、いじらしいんだわ。

 羞恥と達成感とある種の矜持の入り乱れた顔ってか、……そんなん日本語でどう表現すりゃいいんだ。何語でもいいよ。そういう概念があるのなら、失礼しました私はむしろ遅かったのですね。だが、羞恥と達成感とある種の矜持をあらわす言葉があるのなら、それは、早すぎたんだと思うよ。ってか決めつけはよくないでしょないでしょぶっちゃけ。あったらその民族変態だよ、天才だよ、それこそ人類には早すぎたよ

 ……だってこれって下位者の感情だから。





「どうですか坊ちゃん、愉しいですか」

「うんっ。コロ、かわいいねえ」

「……そうですか。コロ、かわいいですか」

「えー、コロかわいいじゃん。飯野おばさんそう思わないの?」

「いえ。……かわいい、犬ですね。ほんとうに」

「でしょーっ? ほらーっ。飯野さんもかわいいーって感じの顔してた」

「……わたくしがですか?」

「うんっ。コロはかわいいもんねえ……ねえー、コロ、おまえはいい犬だねー……」

 

 未来に頭を撫でられるときこのときの公子はまだうつむいている。

 頬を染めて唇を噛んで、喜びたくもないのに未来に頭を撫でられるとちょっとだけ、うれしい。



 いい犬、ではなく、その言葉が求められていることに未来が気づく、そんな夜明け前、――いいこ、って言葉が、まだこの世界に存在する前、秩序の前、……混沌のさいご。

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マシュマロ 柳なつき @natsuki0710

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