番外編

【後日談】 窪崎

 

「えーーー!!」


 清楓さやかは、目の前に立つ窪崎くぼざきが、思わず耳を塞ぎたくなるような大声を出した。そして続けざまに、彼の耳が痛くなる言葉を言う。


「三日前になってから言うなんて、ひどいの!」


 彼女が高校三年になり、そのお祝いのデート。今日は水族館に行き、ジンベエザメの大きなぬいぐるみを買ってもらって、ご機嫌で帰宅したマンション前での出来事である。

 送ってもらい、別れる間際になって、男は報告したのだ。


「半年なんて長いよ……」


 ぬいぐるみを全力で押しつぶすように抱きしめて、少女は俯く。


「すまない、急に決まって」


 決まったのは一か月前だったが、言い出しにくく。だが流石に黙っているのも限界で、今頃になってやっと彼女に伝えたのだ。


 アメリカに行く。


 その理由は、清楓さやかのためだった。

 彼女の病気の進行度、表見はしていないがAランクの超能力。それに対応したリミッター開発を、秘密裡に、かつ急がなければならなかった。

 アメリカに戻ったライザが、母校である大学の研究室で環境を整え、準備をして待ってくれている。

 少なくとも、半年はあちらに滞在する必要があった。


 マンションの前を塞ぐように、いつまでもここにいる訳にはいかなかったが、このまま帰ってよい雰囲気でもなく。だからと言って、一人暮らしの彼女の部屋に行くのは、今の彼には厳しい。まだ彼女は十八歳になってはいない。うっかり手を出そうものなら、条例違反に法律違反である。だが、日に日に愛しさを増す彼女を前にして、我慢できる自信がなかった。


 だが、そんな男の心情など、彼女に想像できるはずもなく、顔を上げた清楓さやかは、窪崎くぼざきが避けたかった事を平然と言う。


「とりあえず、上がって? ちゃんと理由が聞きたいし」


 拒否する事もできず、彼は諦めたように、自動ドアに向かう彼女の後ろについていくしかなかった。


 部屋に入ると、清楓さやかはソファーにジンベエザメのぬいぐるみを立てて置いた。座らせたつもりらしい。そのままキッチンに向かうと、コーヒーを淹れ始める。窪崎くぼざきはいくばくかの逡巡の末、ジンベエザメの隣に腰を下ろした。


 コーヒーを持って戻った清楓さやかは、考える。対面に座るか、横に座るか。


 彼女はカップをテーブルに置くと、ぬいぐるみをパッと持ち上げ、対面ソファーに置きなおし、自らが窪崎くぼざきの隣に座った。男は絶望したように、苦悩の表情で天を仰ぐ。


 そっと清楓さやかは肩を、窪崎くぼざきにもたれさせ、上目遣いで彼を見る。少女の肩と自分の腕が触れた感触に観念すると、天井に向けていた目線を清楓さやかに向ける。

 黒い瞳と、黒い瞳の視線が絡み合う。


「なんでアメリカに行くの?」


 ライザさんがいるから? と、脳裏をよぎってしまい、チクリと胸が痛むが、口に出して頷かれたら、立ち直れない気がして、その言葉を飲み込む。

 窪崎くぼざきは、清楓さやかの事をおもんばかって、心を読もうとはしない。読む必要があるときは、前もって確認してくれる。勝手に読んでくれてもいいのに、と以前は思っていたが、今は、知られるのが怖い思いがチラチラある。嫉妬や、苛立ちという暗い感情は、なんだか知られたくない。


 窪崎くぼざきは返事に悩む。病状がもはや看過できないレベルであることは、清楓さやかには伝えられていない。彼女の性格からも、言わない方が良いという判断を周囲がしているからだ。


「今の研究に、どうしても向こうの施設が必要で。日本にはまだ入っていない機材があるんだ」

「そっか」


 それだけ? と、思った。隠しごとをされているような気が、すごくする。その隠し事が何かわからず、不安が募る。

 清楓さやかは、窪崎の事が好きである。一緒にいて欲しいと思う。会えない日も写真を見て、ドキドキしたりするし。

 だがデートをすると、温度差を感じるのだ。自分の好きと、彼の好きは何かが違うと。


――子供っぽいのかなあ。


 清楓さやかはしょんぼりと、ぬいぐるみを見つめた。アクセサリなんかも見てたのに、買って欲しいと選んだのは、アレである。だって欲しかったんだもん、とも思う。会えなくて寂しい日に、抱きしめられる物がある方がいいし?


清楓さやか


 男は少し姿勢を変えて、少女に体の正面を向けた。


「俺の名前を呼んでみろ」

「へ?」


 彼女は未だに、彼をポチと呼んでいた。すっかりそれで馴染んでしまい、今となっては変えにくかったからだ。

 一気にその頬が染まる。そして口ごもる。


「……」

「言えないか?」

「ま……匡裕まさひろ……」


 もじもじと真っ赤になりつつか細い声で、彼の名を口にした。男はふっと笑って、彼女をぎゅっと抱きしめる。小さめの彼女を抱きしめると若干覆いかぶさるようになり、髪の香りが間近にする。

 その髪に軽くキスをする。チュッと軽い音がして彼女は自分の髪にキスをされた事を知り、ピクッと震えた。


 心臓がバクバクと踊りまくって、身体までも振動してしまいそうになっている。何故こんな状況になっているのか、何故こうされるのかわからなくてひたすら混乱する。また、誤魔化されるのか!? と、彼女は強く警戒した。


「俺の気持ちを伝えるから、受け取ってくれ」


 腕に更に力が籠められる。と、同時に彼の言葉が送られる。


『愛してる、誰にも渡したくない』


 言葉は発した瞬間空気に溶けて、若干薄まるという。だからありがとう等という感謝の言葉は、頭で考えている事の三倍を口にして丁度良いと言われる。

 しかし接触テレパスの伝えて来る言葉は、薄まる事なくダイレクトに飛び込んで来るのだ。


 熱い、と彼女は思った。灼けるように、彼の思いが熱い。そんな熱が自分の心の温度も跳ね上げる。


――ああ、あの温度差は。私の方が、低かったんだ。


 清楓さやかはそのまま、身体に伝わる熱も、心に伝わる熱も、拒否せずに受け止め続けた。やがて男の方がその腕を緩める。

 彼女が見上げると、窪崎くぼざきも真っ赤になっていた。


「とまあ、こういう感じで……」


 彼は少女から手を離し体を離す。

 離れても熱が残ってる。彼の体温が。


 心の熱はそのまま沸々と、清楓さやかの心を熱し続けていたが、身体の熱は時間と共に冷めていく。それがなんだかとても寂しい気がして。彼女は、すすすと窪崎くぼざきににじり寄り、再びピトッとくっつく。

 男は逃げる。

 少女が追うを繰り返し、ソファーの隅に窪崎くぼざきは追い詰められた。

 大人の余裕を見せなければ。彼はそう思った。


―そうだ、素数を数えよう! 因数分解がいいかな!?


 数学が得意中の得意のはずの窪崎くぼざきだが、こういう時に思いつくのはこの程度である。別の事を考えて気を逸らそうとするのだが、いい香りの、しかも相思相愛感の溢れる女子が、ぴったり寄り添って来るのだ。五感全てをシャットアウトしなければ、抗いがたい衝動が、彼を苛む。


 目を閉じて必死に別の事を考えようとしていたが、不意に彼女が体を離したので、恐る恐る目を開けると、清楓さやかは俯いて、泣き出しそうな顔をしていたという。

 少女の顔は、あっという間に泣きだす顔に変わった。曇りのち、雨。


「離れ離れは、寂しいよ……今もあんまり会えてないのに」


 ポロポロと涙が膝に落ちて行く。


「すまん……」


 ひっくひっくと、しゃっくりを伴いながら彼女は泣く。

 その様子は随分と子供っぽいが、愛おしい。とにかく、愛おしいのだ。

 男は静かに清楓さやかの顎に手を添えた。


「ポチ……?」

「まだポチって呼ぶのか」


 これ以上、ポチと呼ばせてなるものかと言わんばかりに、清楓さやかの唇は、彼によって塞がれた。ただ触れ合うだけの、重ねる口づけである。


 これが清楓さやかの、ファーストキスになった。


 びっくりして目を見開いたまま。だが、涙は止まる。

 窪崎くぼざきは顔を離し、優しく微笑んだ。


「目ぐらい、閉じろよ」


 混乱した少女は慌てて、今頃になって目を閉じる。


「なんだそれ、誘ってるのか?」

「ちがっ……」


 悪い大人モードの窪崎くぼざきは、質が悪い。


 先ほどの優しい微笑みは何処へやら。ニヤリと笑うと否定しようとする彼女の唇を再び塞ぐ。

 二度目のキスは大人向け、である。


 しばらく清楓さやかはジタバタとしていたが、やがて大人しくなる。気づけば彼女はソファーの上に横たわり、窪崎くぼざきは覆いかぶさっていた。

 熱っぽい目で見上げられて、窪崎くぼざきの自制心は吹っ飛びそうだったが彼はそれ以上は進まない。


「俺が戻る頃には、十八歳になってるよな?」

「……うん」

「待っていて欲しい。浮気、するなよ」

「それはこっちのセリフだしっ!」


 ぷんすかという子供っぽい怒り方をする少女を見て、男は意地悪そうな微笑みを向け、もう一度口づける。三回目は、最初と同じ、触れ合うだけのキス。だけど。


『愛してる、心から。ずっとおまえだけでいい』


 唇越しに熱い心を再び叩き込まれて、清楓さやかはそれだけでいっぱいいっぱいになってしまい、何故彼が直接アメリカに行かねばならないのか、どうしてギリギリまで言ってもらえなかったのか、結局は理由を有耶無耶にされ、見事なまでに煙に巻かれた。


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