第8話 未来の夢


「明日は学校があるし、そろそろ、宿題をやっておかなきゃ」

「手伝ってやろうか?」


 清楓さやかは部屋に戻りかけていたが、窪崎くぼざきの方を振り返って驚いた顔を見せた。


「世話になってるからな」


 彼女はそのシチュエーションにわくわくしてしまった。

 家で誰かに勉強を見てもらうのは、とにかく初めて。古い映画やドラマのシーンで、子供が母親や父親に「これなんて読むのー?」等と無邪気に質問をしたりするアレ。すごく憧れていた。

 年齢差としては兄に勉強を教わる、という感じになるが。


「うん!」


 こんな事で、ものすごく彼女が嬉しそうに返事をしたのが、窪崎くぼざきには意外だったが、嬉しそうな彼女の顔を見た彼の心が少し弾んだ。

 清楓さやかは教科書やノートを、ドサドサとローテーブルに置く。


「おまえの学校は、まだ紙なのか」

「電子版もあるよ。でも勉強するのには、私は紙の方が好き」

「俺もそうだ」


 ノートはいわゆるタブレット端末だが、テキストは紙。学校から宿題として出されるプリントも紙だった。書いたり消したりの痕跡で、きちんと自分で考えて答を導き出しているかを確認するために、あえて使われている。

 最近は何でもネットで検索すれば、すぐに答えが見つかってしまうので、思考の過程もきちんとこなしているかを確認するためには手書きの痕跡が必要で、いつまでたっても学校では紙が廃れないのだ。


 清楓さやかは早速プリントに取り掛かかると、しばし自力で解いて行く。窪崎くぼざきはそれを上から覗き見るが、手伝いなど必要ない勢いで、すらすらと彼女は解いていた。だが、不意に少女の手が止まった。


「ここわかんない」

「何処だ?」


 身を乗り出して、彼女が指さす問題を読む。高校生としては中々の難易度の数学の問題。


「解けるところまで進めてみろ」

「んと」


 彼女は途中まで式を書き、やっぱ違うと消し、また書き始めるが数行ほど書いてそこで止まる。


「深読みしすぎだ」


 窪崎くぼざきは、紙の切れ端に簡単な図形を書いて見せた。それを見て、清楓さやかは、あっ、という顔をすると最初に書いた式を消して始めから順番に最後まで書ききった。


「よし、合ってる」


 清楓さやかが誇らしげな笑顔で窪崎くぼざきを見る。彼女がすごく楽しそうに見えて、なかなかこの時間は彼にとっても心地よい。


「ねえ、これは?」

「ド・モルガンの法則か。これはだな……」


 家庭教師のような感じで、学習が続く。


「全体的に清楓さやかは、問題を深読みしすぎている」

「そうなの?」

「テストでは変にひねらずに考えた方がいいが……」


 窪崎くぼざきは少し間を置いて言う。


「研究者向きの思考回路だ。好奇心も強いし、その方面に進むといいかもだな」

「そうなの?」

「将来の夢的なものは、まだないのか」

「うん、何も思いつかない」


 宿題を終えて、ぱたぱたとテキストを片付ける清楓さやかを、男は見つめる。彼女と一緒に研究を深めるというのも、なかなか面白そうに思えるが。


「ポチはなんで探偵になろうと思ったの?」

「資格もいらないし、持ち歩くものもない。なのに調査は出来るからだ」

「えっ、探偵ってそうなんだ」

清楓さやかも、営業の届け出をすれば明日からでも探偵になれるぞ」

「公安委員会の認可?」

「そう。守るべき法律はあるが、特別な試験がある訳ではない。お手軽だろ?」

「もしかして、ポチは元々は探偵ではないって事なの?」


 想像以上に彼女の思考が鋭くて、窪崎くぼざきは感心した。


「元々は研究員だ。超能力の研究をしてた。他所に情報を流したという冤罪でクビにされたがな。理由が理由だから、他の研究所でも拾ってもらえない。今やってる調査が終わったら、大学の研究室に戻れないか打診してみるつもりだが」


 お手上げといった感じの仕草をして語る彼を、清楓さやかは心配そうな顔で見ると、ソファーに座る彼の元に歩みより、その端っこにちょこんと座る。


「冤罪って、晴らせる? 本当は、研究員でいたかったんじゃないの?」

「それはそうだな。俺は何故、超能力が発現し、そしてそれがどう人類に影響していくのかがとにかく知りたい。研究所は、それを調べる事に専念できる場所だったから。それがわかれば次の研究に繋がる」

「私も、知りたいな。ずっと何でだろうって思ってたから」

「そういえば、またポチって呼んでるな」


 男は笑う。心を読まなくても、彼がそう言った時の彼女の顔に”下の名前で呼び合うのは恥ずかしいです”と書いてあった。とにかく面白くて窪崎くぼざきはこの家に来てから、随分と頻繁に笑っている。


「別れた彼女は、何て呼んでたの?」

「マサ、と呼んでたかな」

「ふぅん……」


 なんとなく、元カノと同じ呼び方をするのはしゃくだと彼女は思ってしまった。


「ポチはいつまでうちにいるの?」

「もう動けるから、明日帰る」

「そっか」

居着いつかれても困るだろう?」


 清楓さやかはそれを聞いて、そうでもないという顔をした。彼女は家族が出来たようで嬉しかったから。家に自分以外の誰かがいてくれる幸福。

 そんな複雑な表情をする清楓さやかに、窪崎くぼざきは困惑してしまった。さすがに年頃の女の子の一人暮らしの家に、理由なく住み着く訳にはいかないという程度の倫理観は、強引で自己中心的な彼にもある。今回はあくまで、緊急事態だったからだ。


「本物の犬を飼うといい」

「うん、そうする……」

「メッセージ用のIDを交換しよう。電話番号も教えておくから、いつでも連絡をくれ。会いたくなったら呼んでくれていい」

「ほんと?」

「ああ」



 翌朝早く、彼は出て行ってしまった。

 少し狭く感じたいつもの部屋が、また広さを取り戻す。

 がらんどうの、冷たくて、静かな、寂しい部屋。


 自分は人との縁が薄いのだと、改めて少女は感じる。

 孤独でも生きていける強さを身につけなければと、清楓さやかは決意するしかなかった。


 彼女は寂しさに耐えながら、一人で生きる未来しか思い描けない一匹の狼。


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