第2話 犬の名は


 今日は土曜日、学校は休み。時間は九時を少し過ぎたところ。

 太陽はほどよく登り、空は快晴。

 秋晴れの青い色が、キッチンの窓からよく見える。

 リビングは眠る男のために、遮光カーテンが引かれたままだった。


 コーンフレークに牛乳をかけるだけの簡単な朝食を終えると、清楓さやかはソファーに眠る男の顔を覗き込む。


「ポチ、まだ寝てる?」


 ふっと窪崎くぼざきの目が開いた。


「いや起きる」


 それを聞いて、彼女は壁にあるリビングのカーテンの開閉ボタンを押すと、静かにカーテンは引かれて明るい日差しが部屋を満たす。

 男の目に、彼女が膝丈のチェックのスカートと、タートルネックのセーターでいるのが映った。ダイニングテーブルの椅子の背もたれに、上着がかけてある。


「出かけるのか?」

「うん、友達と約束があるから行かなきゃなの。ご飯食べられる? 朝ごはんに良さそうなのは、コーンフレークかメロンパンしかないけど」


 すでにローテーブルに、その二つが用意されていた。


「なるべく早く戻るね、包帯もちゃんと買って来るから」

「世話をかける」

「起き上がったりは、まだちょっと無理だよね?」


 男は無言でソファーに横たえていた体を動かし、姿勢を変える。痛みに顔をゆがませるが、完全にソファーに座る姿勢になると、少し誇らしそうな顔をしてみせた。


「最低限はいけそうだ、安心して出かけてくれ」

「心配だなあ……」


 二人は、一歩程の距離で見つめ合う。明るい場所でお互いの姿を確認するのは、これが初めてだった。

 清楓さやかは随分と華奢な女の子で、夕べは相当頑張って自分を運んでくれたのだと、男は気づく。


「そういえば。ポチはお仕事、休んで大丈夫なの?」

「私立探偵だから」

「じゃあ夕べは、そのお仕事の関係で?」

「そんなところだな。ところで俺を、ポチと呼ぶ事にしたのか」


 男は笑った。


窪崎くぼざきさんって呼んだ方がいい?」

「俺が清楓さやかをすでに呼び捨てにしてるからな、飼い主を」

「大人の人を、呼び捨てにはしにくいよ」

「そんな年の差はないだろうから。俺は二十五だ」

窪崎くぼざき?」

「下の名前で呼んでみたらどうだ」

「……ま、まさひろ?」


 ものすごく清楓さやかは気恥ずかしくなって、赤面してしまった上に、少し声も上ずった。窪崎くぼざきは、その少女の様子を見て、可愛いらしいと思ってしまい、傷が痛むにも関わらず、クックックという感じで笑う。


「ちゃんと、覚えてはいたんだな」


 からかわれている事に気付いて、清楓さやかは少し拗ねた表情をしたが、ふと思い出したように寝室に駆け戻り、色々と持って出て来た。

 若干古い型式だが極薄のノート型パソコンと、最近は珍しくなった数冊の紙の本をローテーブルに置く。


「退屈だと思うから、パソコン出しとくね。古いけどネットワークは繋がってるから自由に使って? あと私の部屋以外は自由に入ってもらっていいから」

「助かる」

「冷蔵庫にレトルト食品があるし、戸棚の中も、あるものはなんでも食べて。宅配も自由に使っていいよ。洗濯とか着替えとか必要な物があるなら、コンシェルジュに連絡すれば手配してくれるし。そこの右下のボタンで繋がるからね」


 先ほどカーテンを引く時に押していた壁のパネル群を、彼女は指さした。


「わかった、わかった。おまえ結構、世話焼きだな」

「だって、動物なんて飼った事ないんだもん。じゃあ行ってきます」

「気を付けてな」

「いい子にしててね?」


 振り向くとソファーに座って手を振る男の姿。

 彼女は出かける時に、「行ってきます」等と言ったのがずいぶん久しぶりで、それも何だか気恥ずかしかったけどくすぐったい感覚が悪くはなくて。


 エレベーターに乗り込むと、彼女は先ほどのやり取り思い出して赤面を再び。思わず両手で頬を覆い隠してしまう。


「下の名前で呼び合うなんて、まるで付き合ってる同士みたいじゃない。付き合った事とか、ないけど」


 彼女も一応、恋愛に興味のあるお年頃。今は女子高という事もあり、誰かと付き合うきっかけがそもそもないのだが、やはり多少なりとも憧れがある。

 ドキドキしてしまうようなやり取りがあったせいで、彼女にとっての初めての感情が揺れ動き、説明しがたい感覚が訪れていた。胡散臭い出会いはともかく、いわゆるイケメンでスタイルの良い長身の大人。知的だけど野性的な独特の雰囲気は、好奇心と乙女心をグサグサと刺して来る。自分の好みもまだ曖昧な恋愛初心者としては、この胸のときめきが恋の始まりなのか、単に当てられているだけなのか判断がつかない。でも悪くはないフワフワドキドキする気持ちは癖になりそうだった。


 そんな気持ちを抱えながらマンションを出て、小走りで駅前に急ぐ。休日の今日は人出が多く、人を避けながらになってしまう。


 真友まゆと、駅前で買い物の約束があった。駅前の商業施設はPSIサイカットシステムが導入されているこの界隈では唯一の場所で、二人が一緒に遊ぼう、という事になるとどうしてもそこになる。

 PSIサイカットシステムが一般的になるか、個人用の超能力リミッターが手軽に手に入るようになれば、リミッターを装着しているなら入店可、という店が増えて来るかもしれない。残念ながらまだ、リミッターは犯罪者拘束用と医療用しか存在せず、小型化と低コスト化の実現が待たれる所だ。


 清楓さやかが休日に遊ぶとなると、相手は大抵、真友まゆ。彼女はお嬢様だけど何故か家族からは冷遇されていており、あまりお嬢様暮らしという生活はしていなかった。姉と妹が一人ずついる構成で、「真ん中だからかも?」と真友まゆは笑って言うが。

 旅行の時にも置き去りで一人だけ留守番というのもざらだったし、あからさまに他の姉妹しまいと差別されていたのだが、彼女自身はそれならそれで別に、という感じで好き勝手やっていた。

 学校を卒業すれば家から独立する気満々。親の会社と関係ない仕事に就くつもりで、すでに進路についても深く考えているのが見て取れた。


 両親共に亡くなり、祖父の養女となった清楓さやかも、家族との縁は薄い。そういう事もあって、二人は気が合うのかもしれなかった。

 かつては同じ病気で、清楓さやかの祖父が経営する病院でベッドを並べて入院していた仲でもある。



 見上げると駅の建物が見え、家を出るのは予定より遅れたが、なんとか時間通りに到着できそうだった。

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