@uji-na

空から怪獣が降ってくる

 その日、私は昼休憩に仕事場近くの喫茶店へと足を運ぶところだった。


 喫茶店に向かう途中にある花屋の女性店主が、外に並べられている鉢植えに水をやっている場に行き会う。

 如雨露じょうろから流れ出る水滴が雲の合間から指す空の光に照らされてキラキラと輝いていた。

 仕事で疲れた心を癒やしてくれるようなその光景を横目にしつつ、通り過ぎようとした丁度その時、店主が大きな悲鳴を上げた。


 何事かと声の主を見やると、彼女は空を見て固まっている。

 彼女の視線の先を辿るように、自然と空を見上げた私は絶句した。

 風に流されていく雲の先、澄んだ空の中には、その場にまるで似つかわしくない怪物が浮かんでいたからだ。


 その怪物の存在はあまりにも非現実的で、しばらく私はそれに見入ってしまい動くことができなかった。

 爬虫類や両生類にも似た姿をした怪物は、雲をかき分けながら、ゆっくりと、しかし確実に天から地へと降りてこようとしていたのだった。

 まるで怪獣映画のワンシーンのようだなと、私は他人事のようにその光景を眺めているばかりだったが、いつの間にか周囲には逃げ惑う人々で溢れていることに気が付く。

 私とていつまでも放心してもいられない。

 地下鉄にでも逃げ込むべきか、それともより遠くへと街の外を目指すべきなのか、皆目見当も付かないまま走り出した。

 

 しかし、普段から鍛えているわけでもない私が果たして逃げ切れるだろうかという思いが胸をぎる。

 怪物はすでに高いビルの屋上に目と鼻の先まで迫っているところであり、そのままビルを押しつぶし、周囲を巻き込んで地面へと降り立つまでもう時間は残されていないように感じた。


 私は半ば観念するように、走って乱れた息を整えることもせず空を見る。


「…………?」


 死ぬ間際の体験として言われる、時間の流れがゆっくりに感じるということも、思い出が走馬燈のように過ぎていくこともなく、私の前には、ただ空の快晴が広がっているだけだった。そこに巨大な異物が浮かんでいることを除けば、いつもと何も変わらない。

 雲はどこかへと流れて行ってしまい、空には怪物だけが浮かんでいたが、怪物は何故かそのまま静止していた。

 怪物自身の動きもなく、重力でそのままってくるということもなく、ただただ空中で静止し続けているのだ。私の頭は混乱するばかりだったが、兎にも角にも街の外へと逃げることができた。

 

 しばらくの間は街を完全に封鎖し、住人達は避難所生活をしたり身内の家にやっかいになったりする者が大半なのだということを後の報道で知った。

 私は仕事場が街にあるだけで、自宅は街の外にあるからさほど困ったことにはなってはいないが、空の怪物次第では安全とも言えないかもしれない。


 そう思ってはいたものの、その思いに反して怪物はただただ晴れ渡る空に浮いているだけでまるで変化がないのだった。


「――国の発表ですと幅が数百メートル、長さに至っては数千メートルにもなるとされています。数百メートル規模の小惑星の衝突ですら地球規模での環境の変化が起きるわけです。……ようするに、吹き飛ばされた塵が空を覆うことで気候が急速に変化すると考えられるわけですが、街一つを封鎖したという程度では全く政府の対応は甘いと言わざるを得ません」

   

「しかしですよ、あの怪獣は空中で静止しているわけじゃないですか。小惑星みたいに勢いがあって衝突するわけではないですよね? だったら、現状あまり周辺地域まで広げて封鎖というのも、経済活動の妨げになるわけですし……」


「案外、中にはヘリウムガスでも詰まってて軽いんじゃないですかね。じゃなきゃ、空中で浮かんだままっておかしな話じゃないですか。そもそも地球規模なら我々が何をしたところでねえ――」


 討論番組で専門家と呼ばれる人間達がしかめっ面で難しい話をしているのはもはや見慣れた物だった。空に怪物が現れて、はじめの頃こそ、戦々恐々とした日々を送り、情報を注意深くチェックしていたものの、一週間も過ぎて怪物――最近ではもっぱら皆『怪獣』と呼んでいる――にまるで変化がないと、慣れてしまうものだ。

 仕事は自宅でのテレワークへと切り替わり、あの街が封鎖されて職場へと行かなくなったこと以外には、私の生活は特に代わり映えしなかった。

 あの日、街から逃げ出した人間の大半が、結局は私のようにさして大きな制限を受けることもなかった者であり、街の外の人間にしてみればそれこそ正に他人事。

 空の怪物について一々気にかけることも減っていき、せいぜいがデパートの屋上に広告としてつけられていたアドバルーンを巨大にしたかのような、ちょっと珍しい見世物という程度の認識へと変わっていくのに、そう時間がかからなかったのも当然だったのだろう。


 怪物が現れて二週間もすると、憐憫れんびんを誘うような避難所生活者の現状といった報道も減って、空の怪物が観光資源になり得るかといった議論や怪物を元にしたお菓子や玩具といった商売の話に重点が置かれた話題がなされるようになった。

 薄情と言うべきか、商魂たくましいと言うべきか。何にせよ少しずつではあるが、皆、前向きに歩み出しているようではあった。

 封鎖された街の空に浮かぶ怪物は街の外からでも見ることができ、わざわざ遠方から一目見ようと観光客がやって来る始末だ。

 ここしばらくの快晴続きのおかげもあってか、怪物のいる景色目当てでの客足が途絶えることもなく、街の周囲は少しばかり潤うことになったらしい。被災者がいる手前、怪物のおかげとは口が裂けても言えないだろうが、ニュースで取り上げられた『怪獣まんじゅう』とやらを売る、商店街のお菓子屋の店主のにやけづらは、怪物様様さまさまといった感じだった。


 馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、こう宣伝されては食べてみたくなるのが人間のさがというもの。

 商店街が自宅からさして離れていないということもあり、私は試しにそのまんじゅうを買ってみた。やはりというか、がわだけを怪獣にしたただの餡子入りのまんじゅうだが味は素朴で私の好みだった。


「まいどあり! またよろしくね」


 怪獣が現れて、もう一月ひとつきになろうとしている。

 相変わらず、街は閉鎖されたまま、謎の怪物に対するブームも終わりを見せない。商店街のお菓子屋の『怪獣まんじゅう』は常に品薄で、私が時々気まぐれで訪れる時には大抵売り切れている。

 私は『怪獣まんじゅう』と全く味の変わらない、ただのまんじゅうを購入して店を出る。

 自宅への帰り道、小さな電気屋に設置された古ぼけた液晶ディスプレイから、明日の天気予報が流れていて、私は何となく足を止めた。


「――最近は怪獣に気を取られがちですが、実は気象上珍しいことが起こってて、この街周辺の無降水継続日数がなんと26日となっているんですよ」


 天気予報士らしき男の解説に、アナウンサーの女が能天気な声で相槌を打つ。


「えー、じゃあ一ヶ月くらい雨降ってなかったんですかあ? それってすごいんです?」


「地域にもよりますけど、都市部では20日以上も降水がないというのはかなり珍しいことですね。それが26日もですからトップクラスです。ですが、今南の方に熱帯低気圧がありまして、明日明後日あたりにググッと日本までやって来ますから、お出かけの際は傘を忘れないように気を付けましょうね」

 

 空を見上げる。

 日本晴れの青空の遠くに、もはや見慣れた怪物が浮かんでいた。

 頭から地面にダイブしようとした瞬間を切り取ったかのような状態で、怪物は微動だにしない。


 私はふと、遠くの怪物が、空に漂っているというよりはむしろしずくが葉の先に垂れているような、天に辛うじてぶら下がっている風にも見えることに今更ながらに気が付いた。


 丁度、空の端から雲が流れてくるところだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

@uji-na

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ