Chase


「あっ、待って……!」


 茉莉は羚衣優を追いかけてくる。羚衣優にはそのことがたまらなく嬉しかった。少なくとも今は茉莉が自分のことだけを考えてくれているのは間違いないのだから。

 一生追いかけっこを続けたかった羚衣優だが、さすがに息が切れたので昇降口の物陰に隠れて息を潜める。


 夕暮れの、誰もいなくなった昇降口。薄暗く、ほんのりと汗の匂いが漂うその空間は異様に静かで、荒くなっていた羚衣優の息遣いははっきりと響いていた。

 茉莉はその息遣いを頼りに物陰に隠れた羚衣優を見つけると腰に手を当てながら不満そうに口を尖らせた。


「もーう、なんで逃げるんですか?」

「え、えっと……ちょっとびっくりしちゃって……」


 言いながらも羚衣優の心は喜びで溢れていた。誰もいない薄暗い空間で好きな人と二人きり。しかも朝から待ちに待っていた相手。それだけで惚れっぽい羚衣優の身体は熱く火照り、どうにかなってしまいそうだった。


「ねぇ……なんでメッセージ返してくれなかったの……?」

「あー、ごめんなさい。ついさっき気づいたんですよ。えへへ……」

「むぅ……」


 茉莉が羚衣優のことを嫌いになったわけではない。それは先程追いかけてくれたことで羚衣優にははっきりと分かっていたが、どうにも文句の一つも言わないと収まりがつかなかった。あと、無言でいるとそのままここで茉莉に迫ってしまいそうな心理状態を誤魔化すためでもあった。


「心配しなくても、あたしにとって羚衣優せんぱいはとても大切な存在ですから!」


 羚衣優の左右の壁に手をつきながら身を乗り出してきた茉莉。図らずも壁ドンのような体勢になる。羚衣優はそれだけで身動きが取れなくなった。問い詰めるつもりだったのに、追い詰められていたのは羚衣優の方だった。


「昨日も言いましたけどあたし、せんぱいのこと入学した頃から気になっていたんです。すごく綺麗な人だなって……だから今、せんぱいとお付き合いできてとても幸せです!」


「まっちゃん……」

「んっ……」


 なにか言葉を紡ごうとした羚衣優の唇に茉莉の唇が重なる。時間にしてほんの一秒足らず、それだけで羚衣優は蕩けてしまった。茉莉を好きになってよかった、茉莉が自分を好きになってくれてよかったと心の底から思った。



「……まっちゃん……あのね?」


 気づいたら羚衣優はギュッと握りしめていたスカートの裾をさりげなく持ち上げて、その下に着用している黒いショーツをちらちらと茉莉に見せつけていた。明らかな『お誘い』のサイン。茉莉はそれに気づいていたが、自然な動作で羚衣優の手を押さえつけ、愛する人の下着を隠した。


「──お部屋に戻ってから……ねっ?」

「ふぇっ……」


 我に返った羚衣優は真っ赤になって俯く。他に人の気配はなく、下駄箱と茉莉の身体で隠されているとはいえ、ここは昇降口。他の生徒会役員やまだ教室に残っている生徒が帰ろうとすれば必然的にここを通ることになる。ここでイチャイチャを続けるのはどう考えても良くなかった。


 二人は靴を履きかえて寮へ戻ることにした。


「じゃあ、それまで手……繋いでてくれる?」

「もちろん、いいですよっ!」


 羚衣優は茉莉がまたどこかへ行ってしまわないか不安になって、茉莉の左手をしっかり自身の右手で握る。やがてそれでも不安になったのか、茉莉の左腕に抱きつくようにしてすがりつくようになった。


「ちょっとせんぱい、歩きにくいですよー」

「だって……」

「あーもう、よしよし……」


 羚衣優をなだめながら寮へと向かう茉莉。羚衣優は抱きついた左手を通してその存在を確かめながら幸せに浸っていた。


「まっちゃんは……わたしの傍からいなくならない……?」

「当たり前ですよ。こんなか弱いせんぱいを一人きりにはしたくないですっ」


 予想通り、いやそれ以上の答えが返ってきて羚衣優はご満悦だった。

 なので、その後茉莉が羚衣優の耳元でこんなことを囁いてきた時には危うく昇天しそうになった。


「せんぱい、そろそろ日が沈みますね。……これからは、『あたしたちの時間』ですよ? あたしと、せんぱいの……ね?」


 真っ赤になりながらこくこくと何度も頷く羚衣優。茉莉はその様子を見ながら


(小動物みたいでかわいい……)


 と、こちらもこちらで昇天しかけていた。



 ♡ ♡ ♡



 ──さて、場所は代わって先程二人がいた昇降口。


 そこには一人の少女がスマートフォンを片手に立っていた。


「そっか、ああいうこと……するんだ……」


 スマートフォンを握る少女の手は震えていた。スマートフォンの画面には先程羚衣優と茉莉がキスをしている様子が写っている。

 少女はくせっ毛の髪をぐしゃぐしゃっと掻き回すと、下駄箱にもたれかかりながらため息をついた。


「いいなー、私もキスしたいなー」


 そう呟いた彼女は自分の唇を人差し指でなぞる。

 彼女が、自分の胸がチクチクと痛む理由に気づくのはまだ先の話だった。


「づきちゃんのバカ……」


 日が沈んで、蛍光灯で明るく照らされた昇降口に、少女の呟きが虚しく響く。



 ──それは長い長い夜の始まりに過ぎなかった。



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