【13】女神と疫病神

 私は操舵室の窓から前部甲板の様子を覗くのをやめて頭を下げた。

 どうすればいい?

 いつもなら腰に短剣を携帯しているのだが、夕食を食べに行くため外出用のドレスに着替えたので、今は武器になるようなものを何も持っていない。


 フラムベルク達が乗り込んだ船を探そうと思って、ここまできたのはいいけれど、状況はどうしようもなく最悪だ。

 ルースに応援を要請する手紙を託して、海軍詰所まで行ってもらったけれど、それが来るのを当てにしていたら、ルウム艦長はきっと殺されてしまう。


 なんとかしなくちゃ。

 私はしゃがんだまま操舵室の中を見回した。

 操船のための古びた舵輪に羅針儀箱コンパス。羅針儀箱の上には天井から真鍮のランプが吊されている。舵輪の後ろには使い古された傷だらけの小さな海図台があって、開きっぱなしになった帳簿みたいな本と、室内を暗く照らすランプがやはり一つだけそこに置かれている。

 操舵室にはこれだけのものしかない。


「……」


 どうやらあるもので、なんとかするしかないみたい。

 私は外から気付かれないように、四つん這いになって海図台まで近付いた。

 膝で立ち、手を伸ばしてランプをつかむ。


 私はそれを胸の前で抱えるようにして持つと、ねじを回してその炎の大きさを最小にした。海賊達が不意に操舵室の灯りが暗くなった事に気付きませんように。

 それを切に願いながら、私は右手にランプを持ったまま、今度は羅針儀コンパス箱へと近付いた。


 狙いは夜間航海で羅針盤コンパスを見るために使われる小さな真鍮の。それは天井から細い鎖でぶら下がっていて、かぎで引っ掛けてあるだけだったので容易に取る事が出来た。


 二つのランプを手に入れて、私は再び操舵室の前方の窓の下へと移動した。

 そっと窓から前部甲板の様子をうかがうと、フラムベルクがマストの前に置いてある『船首像』へ向かって歩いて行くのが見える。ブーツの重い靴音を、漁船の古びた甲板の上で陰鬱に鳴らしながら。


「おい、この小僧ルウムが邪魔だ。ちょっと脇へどかせ」

「へっ、へい」


 フラムベルクに銃の台座で顔をなぐられたルウム艦長は、意識が無いのか、頭を垂れたままぐったりとしていて、奴の手下の海賊に二の腕をつかまれて甲板を引きずっていかれた。


「当分目は覚まさねぇと思うが、ちゃんと見張ってろよ」

「へい、船長」


 マストからちょっと離れた左舷の舷側まで彼を引きずって、手下の海賊が低い声で返事をする。


 一方ジルバ元料理長は、私が覗いている操舵室の前にある巻上げ機ウインチの隣で、腕組みをしながら冷めた眼差しで、ルウム艦長が引きずられて行く様を見つめていた。


 その青い瞳にはためらいや戸惑いはもちろん、何の感情も浮かんでいない。

 私はあんな無表情に近い顔で、ジルバ元料理長がルウム艦長を見る事が、やっぱり信じられないと思った。二人は幼馴染みだときいていたから。


 けれどジルバ元料理長は、私の知っている人なつこい表情を冷ややかな表情へと変えたまま唇を歪め、やがてその関心は、フラムベルクが呆然と立ち尽くしているマスト前に置かれた『船首像』へと移った。


「くそっ。頑丈に巻いているもんだから、ロープが解けやしない。おい、ヒューイ。こう手元が暗くちゃあ結び目が見えねぇ。灯りをこっちへ照らせ」


 フラムベルクはいらいらと焦れたように、船首像に巻き付けられた帆布とロープを解くことに格闘している。


「船長、灯りです」

「もうちょっと上だ」

「へい。こうですか」

「違う。もっと手前に持ってこい。……くそっ!」


 フラムベルクはやおら手下の手からランプをひったくった。


「ええい、めんどくせぇ! 像を傷つけないように、布を引き裂いてしまえ」


 ルウム艦長を見張っている二人の海賊と、巻き上げ機ウインチの隣で傍観しているジルバ元料理長を除いた三人の海賊が、フラムベルクの命令でめいめい腰に帯びていた短刀を抜き放った。


 本当に短気な男だわ。フラムベルクって。

 私は辟易しながら、考えていた作戦を行動に移すため、そろそろと操舵室から膝をついて外へ出た。音を立てないように、細心の注意を払いながら。


 だって、一リール(一メートル)と行かない前方には、ジルバ元料理長が立っているんですもの。甲板の板がきしむ僅かな音でも、彼はすぐに後方を振り返るわ。


 私は操舵室の壁に身を寄せた。

 緊張する。

 ランプをつかむ両手に無意識のうちに力がこもる。

 私は今、とてつもなく無謀なことをしようとしているのかもしれない。

 でもこのままだといずれ見つかるし、ルウム艦長を助ける事もできない。


「おお! これこそ我が『女神』よ。俺の愛しき『女神』よ!」


 興奮した様子で、フラムベルクが叫んでいた。びりびりに引き裂かれた灰色の帆布から、あの美貌の船首像の白い顔があらわになっている。

 船首像――『女神』は、まるでフラムベルクの再会を喜ぶかのように、ひそやかな微笑を浮かべているように見えた。

 私にとってあなたは、ただの『厄病神』にすぎないけどね!


 私はやおら立ち上がり、右手に持った真鍮のランプを『女神』めがけて、力一杯投げ付けた。

 それは見事に『女神』の整った顔面へと命中して、ランプのガラスが粉々に砕け散った。すべらかな頬に触れようとしていたフラムベルクの手の上に、ランプの真鍮の台座が転げ落ちて、奴が小さく悲鳴を上げた。


「うおっ!?」


 一斉に海賊達が後方を振り返った。

 私は左手に持っていた、もう一つのランプの灯りを大きくして、操舵室の暗がりから姿を現わした。


「何だ、お前は!」


 フラムベルクがランプが当った右手の甲をさすり、そして違和感を感じたように顔をしかめた。手の甲をさすっていたごつい左手の指は、ぬらぬらとしたを放っている。


「何だっていいでしょう? それより、ルウム艦長を解放しなさい。さもないと!」


 私はランプを高々と掲げてフラムベルクを睨みつけた。

 そうよ。こんなものがあるからいけないのよ。


「あなたの大事な『女神サマ』をやるから!!」

「……ルティーナ?」


 驚いた声を発したのはジルバ元料理長だった。


「どうして、君がこんな所へ……!」


 そうして彼は私の所へ向かって歩き出そうと、一歩を踏み出した。


「動かないで、ジルバ元・料理長。あなたのはもう知ってるんだから」

「……!」


 ジルバ元料理長は、一瞬切なげに眉間をしかめ、私の顔を凝視した。

 今更捨て犬みたいな顔をされても困るんだけど。


「何だ、お前の女か、ジルバ」


 フラムベルクは彼が私のことを知っていることに安堵感を覚えたのか、急に落ち着いた口調で呟いた。


「すみません、船長。聞き分けのない女でしてね。明日、会おうと約束したのに、どうやらついてきてしまった――」


 私はジルバ元料理長の言葉を途中でさえぎった。

 そんな余計な小細工なんかしてくれなくていい。


「私はエルシーア海軍ジェミナ・クラス沿岸警備艦・アマランス号の元副長、ルティーナ・グレイス。海賊フラムベルク、私の言っている言葉がわからないの? 即刻ルウム艦長を解放しなさい。でないと――」

「ル、ルティーナ。馬鹿な事はやめろって」


 私はジルバ元料理長の手をかわして、右舷の船縁へ移動した。

 けれどランプはいつでも女神像に投げ付けられるように、身構えながら。


「私もあなたに助けてもらおうだなんて、これっぽっちも思ってはいないわ。裏切り者のジルバ。あなたが、あなたがフラムベルクの手下で、そして、本当にアマランス号を燃やしただなんて。私、絶対にあなたを許さないから!」

「……」


 眉間をしかめて切なげな表情をしていたジルバが、不意に大きくため息をついた。悲しげに頭を振って、あのやや垂れた青い瞳が、まるで私を憐れむかのように伏せられた。


「アマランス号に火を着けたのは確かにこのさ。それについて弁解する気はないよ、ルティーナ。でも悪いのはアースシーの方なんだ! あいつが素直に船長に『女神像』を返していれば、アマランス号は燃えずに済んだんだ」

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