第九話 嫉妬


 どうして今まで結婚しなかったのか、ある日クリスチャンが話してくれました。


「こんな仕事をしていると、色々な家族の形態を目にするのですよ。もちろん幸せな家庭がほとんどです。それでも、時に泥沼離婚の末に持ち家をなるべく早く売り払いたい依頼人や、相続で揉めて家の権利を巡って裁判で争う家族なども居ます。二十代の頃は私も色々とみにくい厄介な案件に当たってしまいました。ですから結婚願望がなくなってしまって、仕事一筋でふと気付いたら三十過ぎのこんな歳になっていたということです」


「貴方なら温かい家庭が築けると思うのに」


「ええ、そうかもしれませんね。私の兄二人はそれぞれ若いうちに結婚して子沢山です。私は家庭人としての彼らの苦労も見てきたので、どうしても結婚に対して腰が引けてしまっていました。妻にしたいと思える女性に出会えなかったからとも言えます」


 男性だったら子供を持てる年齢の上限も女性より上ですから焦る必要はないのです。クリスチャンはまだ若く、これから子沢山の家庭を築くことが十分可能です。


「それでも……」


 貴方ならまだこれからいくらでもそんな出会いの機会はあるでしょうね、と思わず言いそうになりました。現在彼と交際中の私がする発言としては不適切です。それにそんなことはクリスチャンも重々承知でしょうから、慌てて口を閉じました。


 彼のように将来設計や家族計画に慎重になるのも一つの生き方です。私も若い時に勢いで結婚してしまわずにもう少し冷静に自分の人生を考えていたら、と何度も後悔したものでした。それでも素晴らしい娘たちに恵まれたことは、亡き夫に感謝してもしきれません。




 私はクリスチャンに家の合鍵を渡され、昼間に彼の家を訪れるのが習慣になってきました。彼が夜遅くなれない私に理解を示してくれ、朝から夕方までなら会えるだろうと、その時間帯に来るように頼まれたのです。


 私は仕立ての仕事を持ち込んで、クリスチャンが事務所勤務の日には一緒に昼食を取ります。彼は休みの日や、仕事の合間にも私を情熱的に求めてくるので、私たち二人が肌を合わせ、愛を交わすのはいつも明るい時間帯でした。


 私は必ず夕食前には帰宅するようにしていました。時にはクリスチャンも一緒に我が家で食卓を囲むこともありました。


 私たちの交際を応援してくれる娘二人に、優しい年下の恋人に、私は本当に幸せでした。




 長女のクロエはと言うと、テネーブルさまとの交際は山あり谷ありでした。二人は事件に巻き込まれたり、お互いの価値観の違いからすれ違って喧嘩をしたり、次から次へと騒動がありました。


 それでもクロエは彼から正式に求婚され、その後もすったもんだの末にやっと求婚を受け入れたようでした。その年の初夏には二人の婚約が成立しました。式は翌年の春に行われる予定です。


 経済的に婚礼費用も何も出せない我がジルベール家でした。式の前までには私たちも借金だけは完済予定で、クロエを綺麗な身で嫁がせることが出来そうで私もほっとしていました。


 テネーブル公爵家の皆さまも、結婚を心より喜んで下さって私の娘は幸せ者です。ただ、天下の公爵家に嫁ぐ娘を古い小さな借家から送り出すことに少々胸が痛みました。けれどこればかりはどうしようもありません。




 ある夏の朝のことでした。クリスチャンの家の近くの市に寄って食材を買っていたところ、若い女性に声を掛けられました。


「ちょっと貴女、よろしいかしら?」


 振り向くまで誰か分かりませんでした。


「まあ、貴女は……」


 それはクリスチャンの不動産事務所に勤める女性でした。顔だけは知っています。歳は二十代前半くらいでしょうか。もっと若いかもしれません。


 彼女について近くの喫茶店に入りました。通りに面した外の席に二人で座ります。朝から暑い日だったので陰になっている席を選びました。


「わざわざ何のご用でしょうか?」


「貴女でしょ、ゴティエさんのところに押し掛け女房気取りで通っているオバサンっていうのは」


「私が一方的に押し掛けているわけではありません。それでも通っているのは確かです。歳もそうですわね、貴女のおっしゃる通り、もう中年の仲間入りですわ」


「熟女の手管てくだで誘惑して、ゴティエさんのところに貴女が入り浸っているから、いつまで経っても彼が結婚できないのが分からないの?」


 彼女の声が上ずっています。朝っぱらから公共の場でする話ではありません。喫茶店の給仕や通行人の視線が痛いです。私が毎日のようにクリスチャンの家に行くのは、彼にそう頼まれるからなのです。


「私の存在が彼の幸せの邪魔をしているとおっしゃりたいのですか?」


「そうよ! 貴女のようにとうが立ってしまっているババアと違って、私だったら彼に可愛い子供を授けてあげられるもの! 確かに月のものが終わってしまっていたら、避妊に注意する必要もなくヤリ放題でしょうけれど!」


 王宮司法院に勤めている娘のクロエだったら、これはいわれのない名誉棄損だとか何とか、上手に反撃できるのでしょう。それでも私も精一杯の返しをします。


「クリスチャンも本当に子供を欲しているなら三十過ぎの今まで独身で居ることもなかったでしょう。けれど貴女のおっしゃりたいことも分かります。貴女も彼のことを愛しているのなら、貴女の持つ若さと美しさを武器に彼を誘惑すればよろしいでしょう? 毎日一緒に働いているのですから、そう難しいことではないですわ」


 彼女は私がとうに失ってしまった肌の艶やハリがあります。髪も豊かで、白髪なんて一本もないのでしょう。


「何よ、上から目線で! すぐに彼に飽きられるに決まっているのだから、潔く身を引いたらどうなの? 肌もアソコも乾ききって、胸だって垂れて、シミやしわだらけのアラフォーだかアラフィフの女が見苦しいったらありゃしないわ」


 クリスチャンとは交際を始めて早七か月が経とうとしていました。実は彼女の言う通り、こんな関係はすぐに終焉を迎えるだろうと私も思っていました。


 ところがクリスチャンの方が日を追うごとに益々私を求めてくるのです。私は彼の家に通うのは週に一、二度でいいと思っていましたが、彼が毎日でも逢いたいと言うのです。


 この若い娘の言うことも、彼女の気持ちも分かります。けれど彼女にわざわざ忠告してもらう筋合いはありません。


「見苦しいのはどちらかしら。クリスチャンから別れを告げられたら、もちろん私もしょうがないと思いますわ。私は貴女の二倍近くの年月を生きていて、貴女と同年代の子供もおります。今まで諦めてきたことは数え切れません。それでも私だって彼を愛しているのです。想いが通じ合っているのですから今を楽しんで何が悪いのですか?」


 そう言うと私は財布を取り出し、二人分のお茶代に十分な額をテーブルに置き、彼女を残してさっさと去りました。帰り際に給仕の若い男の子がそっと囁いてくれました。


「カッコいい!」




***ひとこと***

朝っぱらから臨戦態勢のライバル登場の巻でした。取っ組み合いの喧嘩にならずにすんだのも、キャロリンの大人の対応のお陰でしょう。


嫉妬 シクラメン(赤) / バラ(黄) / マリーゴールド / ヒヤシンス(赤)


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