第4話

 とにかく、身体が重たかった。

 

 瞼も重かった。

 

 血管に鉛を流されたみたいで、頭には脳みその変わりに石を詰められたのかと思えるほどだ。


 やっとの思いで開けた目に飛び込んできたのは真っ白な天井。さっきまで暗闇を受け止めていた瞳には刺激が強くて、薄めに涙が浮かぶ。


「寝てたのか」


 最悪の寝覚め。横たわっているのも後頭部に引っ張られているように気持ち悪いうえ、起き上がることは体がもっと拒否している。今起き上がればたぶん、重力に足の裏から沈み込んで泥の地面から抜け出せなくなる。

頭を転がして、額に乗っていたタオルが枕に落ちる。移動した視界には、寝ているベッドをカーテンが取り囲んでいた。


 ここは、一人部屋が基本の寮の部屋じゃない。


 複数人を寝かせていることが前提の病室。


 それも、学校敷地内にある保健室だ。


「彼、起きたみたいよ」


 カーテンの向こうで会話が聞こえる。


 女性が二人。


 一つは雪に沈む雫のような声。

 もう一つは、


「はぁ……、私はこれで」


 最近、どこかで聞いた声だ。

 どこだっけ。言葉の多くを交わした覚えはない。

 二言、三言。いや、それよりも多いかも。だいぶ失礼なことを言われた気がする。そのときの自分は、どんな表情をしていたっけ。感情をどこかへ押しやって、瞬きも控えていた。


 その日の夜はベッドの上で素っ気ない態度を見せたと反省会。


 ──ああ、思い出した。


 あの、図書室の窓から話しかけてきた女だ。

 黒髪の、見るからに大人しそうな。そのくせ、ずかずかと人が気にしていることを知ったような口で指摘してきた女。


 自分もわかっていることを言ってくるから否定もできなかった。そもそも、分かっているからこそあそこで鍛錬していたのだ。


 今日も、さっきまで。

 雨が降っていようが関係なかった。周囲に置いて行かれている自分だ。一日逃せば、また距離を離される。


「行かないと」


 木剣はベッドの脇に立てかけてあった。


 掴み、杖代わりに支えにして、起き上がる。

 上着が湿っているけれど、どうせまた濡れるのだ。


 カーテンを開ける。


「……どこへ行くの?」


 名前も知らぬ、あの女が立っていた。


「ちょっとそこまで」


「中庭で自主練習?」


「そんなところ」


 ──あぁ、ダメだな。


 頭が回っていない。言葉が出てこない。伝えたい言葉しか出てこない。


「ごめん、退いてくれるかな」


 カーテンをもう少しだけ広く開けて、彼女の横を通り抜けようとする。

 すると、もう一つの女の声で、


「そう言ってやるな。彼女は一晩付きっ切りだったんだ。少しは主治医の話も聞いてやらないと、治るもの治らないぞ」


「一晩……?」


「あなたが倒れてから一晩経って、今は朝です」


 ──まさか。


 今度こそ彼女の横を抜けて、カーテンで作られた病室を出る。


 薬品の匂い。


 真っ白な壁。


 簡素な調度品。


 やはり、ここは学校敷地内の保健室だ。


 部屋の奥のデスクには白衣を着た女性が座っている。


 気だるげな瞳に、その下には隈が横たわっている長髪の女。


 衛生科主任教師──フランシア・ゴルトン。


「やぁ、ロラゲ君。窓はこっちだよ」


 と、ゴルトンが指さす方へ目を向ければ、確かに窓があった。


 正直、窓の外を見ても今が朝なのか昼なのかよくわからなかった。


 雨は相変わらず降っていて、灰色の空が、灰色の光を地上に落として、灰色の世界を演出している。


 明るいと言えば、明るい。暗いといえば暗い。直前の記憶でも、空はこんな色をしていた。


「この雨も昨日からずっとだ。シーツが乾かなくて困ってしまうね」


 さして、困ってなさそうな口調。ただ、一晩眠っていたロラゲに状況を伝えるためだけに言ってみたみたいなものだ。


「じゃ、じゃあ一晩経ったってのも」


「ん? 嘘か冗談だと思った? 本当だよ」


 だいたい、嘘なんてついてどうするんだ、とゴルトンは紅茶を啜る。


 腹の底が冷えていく。


 今、この場で時を気にしているのは自分だけ。ゴルトンもあの女も、自分が倒れてから一晩が過ぎたその事実のみを受け取っている。


 否、受け取っているのはそれこそロラゲだけ。


 二人の女は、ロラゲが眠っていることを知りながら今に至るのだ。焦るもなにもない。病人の目が覚めた。それだけでしかない。

 自分の体のことだ、よくわかる。倒れた理由もたいしたことではない。


 雨の中濡れて、風邪を引いただけ。


 鉛を流し込まれた体に、石ころが詰まった頭。


 断続的にやってくる寒気。


「そんなわけで今日一日は安静にしとけ」


 ほらほら、とゴルトンは力が抜けたロラゲの襟を掴んで、ベッドまで引きずる。


「鍛錬っていうのはしっかりとした計画とコンディションでやるべきものだ。闇雲に剣を振ったって意味はない。衛生科の教師が教えることじゃないがな。ウェケッリネスとかちゃんとやってるのか」


 毛布の上に座って、見上げるゴルドンはすでに口に煙草を咥えている。


「それじゃあ、私はもう出る。まともに歩けるようになるまでここを使っていいから」


「すみません」


「ティロルが謝る必要はない。もちろん、ロラゲ君にも。ここは病人や怪我人が休む場所だ。あ、ご休息場所じゃないから。勘違いはするなよ」


 まあ、今日は休診日なのだけど、と言いながらゴルトンは出ていく。

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