その日、信じるべきものに出会う。


 7月28日。深夜2時頃。



 ふと、どうしようもなく寝られなくなって、目を開ける。トイレに行ってもまだ眠気が戻ってもこなかったから……外に出る。知らない環境だから好奇心が駆り立てられたのだろうか。久しぶりに外出できるということが、すごく嬉しかったのか。みんなが寝静まった深夜に……という。初めての、事をやってみた。


 田舎ということもあって空気が澄んでいる。夏だけど都会より全然涼しいし……静かに響く虫のさざめきに……カエルの鳴き声。そして見上げれば満天の星空が広がっている。星の知識はないけれど、僕はこの時間の星空というのが……息を飲むほどに綺麗だということは、今日知った。


 ああ、綺麗だ。カメラ、持ってくればよかったなあ。

 そのままふらふら歩いて……いつの間にか、昨日訪れた森の前に来ていた。

 ……そういえば、おじいちゃんは化物が出るから夜は近づかないように。って言ってたっけ。きっとイノシシとかそんなのだろうけど…………ヨミくんが言っていた、ホタルがすっごい綺麗という言葉を思い出して、ついつい入ってしまった。


 大丈夫。怖い動物に会ったら引き返せばいい。そう思ったのだろうか。…………思い返すと、これは随分と浮かれた判断だった。夜の空気に……この奇妙なまでに現実感のない雰囲気に、呑まれて溺れて酔っていたのだろうか?



 夜の森は暗かったけれど……星と月明かりが案外眩しく、懐中電灯の灯りでも割と照らされてよく見えていた。

 ……森はしんと、眠り切った感じ。昼に見た動物達はもう見当たらなくて、蛍も結局見つからない。10分くらい歩いて━━もう、帰ろうかと思ったそのとき。



 ぐちゃ、ぐちゃ。と、何かが潰れるような……あるいは、肉を噛むような音が耳に入る。もしかして危険な動物だろうか、と。こっそり、その方向に……近づいていく。


 …………息が、抑え切れないくらい荒い。

 …………心臓が、どういうわけか高鳴っている。痛いくらいに。

 …………鼻が、とっても嫌な臭いを拾ってしまう。


 そして、


「ひっ……!?」

「あーあ。あーあ。見ちゃったかあ。うんうん。仕方ない仕方ない」


 僕は━━怪物が、人を喰らう瞬間を見てしまった。鋭利な歯だ。生暖かい血を辺りに撒き散らしながら、肉を引き裂いたのだろう。不気味な程大きな腕だ。その黒い野獣めいたそれで、殴ったり、押さえつけたりしたんだろう。そして━━見たことのないくらい、顔の多い、存在だ。


 翼がある。尾がある。爪がある。腕がある。脚がある。おおよそ二足歩行。そして人語を使う、六の首と顔……形容し難い程に醜いものもあれば、猫のように愛らしいものもあるけれど、どれもどれも。正気が描いた存在ではない。


 転がるその……胴体から、内臓の赤がこぼれ落ちているその人の、顔が見れなかったから。この辺りの人じゃないのかもしれないし、あの、優しくしてくれた村のみんなの内の……誰か、かもしれない。そんなこと、考えられない。考えたくない。そして、考えるよりも、


「えーっとねえ? 別にオレ様達は人を食べるのが趣味ってわけでもねえが……うん。見られたからには死んでくれよ」


 恐怖に縛られた体を、必死に燃やしてどうにか走り……僕は逃げる。必死に無我夢中に一心不乱に、ただ来た道を戻ろうと走る。

 

 化物がケラケラと笑いながら、どすどすと大音を立てて、ゆっくり追いかけて来る。


「あはは、追いかけっこだねー! 追いついたら殺す」



 何をも考えずに走るけれど、元いた場所に帰っているような感覚はまるでしないで、むしろ森の奥に迷い込んでいくような感覚。

 そして怪物の足音は━━つかず離れず、変わらないテンポで迫り来ている。


 ああ、ちょっと好奇心で森に入ってみただけだっていうのに。くそ、考えなしだったと、後悔しても……今は泣きそうになりながら、必死に走るしかできない。

 おじいちゃんでもおばあちゃんでも……黒岩の村長でも、海驢さんでも、㮶杖さんでも、誰でもいいから助けて欲しかったし、これは僕がみた単なる夢なんじゃないかと、思いたかった。

 


 そして、走って、息も絶え絶えで、ようやく。明るくなった所が目に入る。出口だ。きっと。

 森を出れたかと、戻ってこれたかと、思ったら、



 一気に視界が開ける。だけど、そこは入った村の場所ではなく…………真っ白な花が咲き誇る花畑で、整備された石の道が真っ直ぐに続いている。


 そこに神社の鳥居が、あった。くぐった先に、大人の人がいるだろうか。助けてくれる人がいるだろうか。寝ている神社の神主さんとか……とにかく、誰か、誰か!


「誰か、助けてください! 変なのに、追われていて━━」


 助けを求める大声を言うよりも、先に。


「おっと。いけないねえっ!」


 背中を、まるでラグビー選手のタックルでもぶち当たったかのような衝撃が来て━━神社の、賽銭箱の置かれているところに吹っ飛ばされる。


「が……あ……っ」


 追いつかれていた。……いや、きっと、適当に遊ばれていたんだろう。だって僕は子供で、あっちは化物なんだから、きっとそうだ。


「いやあ、追いかけっこは楽しかったですね! 死んでくれ。子供って小さくて食べごたえないんだよな」


 顔が6つ、近づく。きっと顔は涙でぐしゃぐしゃで、怖さに引き攣って、どうしようもなかった。夢なら覚めて欲しかった。牙が近づいて……僕の頭を噛み砕━━━━


「あー、ちょっとやめてくれないかな。私の家で。君?」


 唐突に少女の、鈴の音色のような澄んだ声が響いたかと思ったら。


「え……あ…………え………………?」


 何か弾き飛んだ音がして━━怪物は、どこにもいなくなっていた。


「……うん! もう大丈夫だよ、だいじょーぶ?」



 顔を上げると。そこには、一人の女の子がいた。

 薄い月明かりに照らされた姿。細長い銀糸の髪に夏によく似合うワンピース姿の少女は、ただ笑う。……同い年くらいだろうか、だけど…………それが、とっても神秘的で、今までに見たことがないくらい。綺麗な子だった。


「うわー、泥だらけだし。すごい痛そうだけど……死んじゃったりしないよね?」


 神社の境内で、死にかけている僕を見て。それでもやっぱり彼女は微笑う。愉快そうに僕の手を取って、起き上がらせて、抱きついてきて、



「……ねぇキミ。私の友達にならない?」


 ……突然、彼女はそう耳元に囁く。突然のことすぎて……何を言っているのか、わからず聞き返す。


「最近、ここには誰もこなくなっちゃって、暇してたんだー」


 口を尖らせながらそう呟き、そして僕の目を━━その、月の色をした瞳で見据えて。


「だから、なってくれない? 私の奴隷。私の家族。私の相棒。私の━━信者」


 わからない。……僕はこの少女が果たしてこの世のものとは思えなかった。あの怪物と同様に。

 あの怪物を軽く消しとばしてしまったのも、高価な楽器で奏でられてるかのように美しいその声も、現実離れした可愛らしい容姿も━━その、頭から生えた二本の小さな獣耳も、全部。知らないものだから。

 

「……わかった。死ぬところを助けてくれたし、僕はどれになっても。全部なっても、いい」



 彼女はずっとわらっていたけど……嗤ってはいなかった。邪気の一欠片も混ざっていないその顔は……信じるに値するものだ。もしそれが偽りなら、僕はそう。死んでもいい。


 それに、なにより。


「決まりだね! じゃあ今から君はこの私! カイラの国の古き神様、アサキちゃんの大切な信者だ!」


 僕は。これから先。どれほど多くの超常存在と関わっていくのかは知らない。どれほど多くの痛みに見舞われるかは知らない。どれほど多くの存在を知るかを、このとき知らない。

 けれど、だけれども、そうであっても、


「じゃ、朝になったらここにまた来てよ! そして私と遊ぼう!」


 花を咲かせたようにはにかむ姿は。不思議なくらい愛らしいその姿は。多分世界で一番……素敵なものだと、今日僕は知ることができたのだから。


 僕は、その夜。初めて神様の信者になった。

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