ティースプーン・ハニー≠ハニー

宮嶋ひな

あなたはこの物語を読み始めました。後には引けません。

「この一杯が、蜜蜂が一生のうちに得る蜜なのよ」

 桜色の唇を物憂げに動かして、ヒメは夜気に囁いた。

 真珠の艶を思わせる白い裸体に、朱の着物を肩から引っかけ、脇息に伏している。床に到達している長い黒髪は、先端にいくほど白い。小さな指に握られた銀色のティースプーンには、なみなみと蜂蜜が鎮座していた。

「この瓶がいっぱいになるには、どれくらいの蜂が必要なのかしら」

 自らの赤い、赤すぎる爪があふれるほど入った小瓶を目で指しながら、傍らの少年に問う。少年は少女と目も合わせようとしなかった。

 夜の気配に満たされた、閉じた檻の部屋。ヒメも、少年も、異質なほど美しい容貌をしていた。西洋彫刻のような彫りの深い、だがまだ幼さの残る金髪の少年は、ヒメの話には応えず彼女の爪を切り続ける。

「蜂のオスって素敵。交配すると死ぬのよ。秋になったら役立たずとして追い払われて」

 にやにや笑いながら、ヒメはスプーンの蜂蜜を目の前の少年に垂らした。とろりとした黄金色の蜜が、少年のつんとした鼻筋に流れていく。

 少年は、白いワンピースを着させられていた。赤いリボンで装飾され、中世的な彼にはよく似合っていた。だが、ヒメは思い立ったように手元の蜂蜜壺を投げつける。

 かしゃん。陶器でできた蜂蜜壺は割れ、蜜蜂たちの努力の結晶は少年のワンピースを彩る染色剤になる。三十センチほどの壺は重たく、破片は鋭く散らばり、少年の頬に切り傷をつけた。

「あら。ごめんなさい」

 全くそう感じていないような口ぶりで、ヒメは謝る。口元には嘲るような笑み。けれど謝罪を求めてはいない彼にそれは響かず、相変わらず無表情でヒメの爪を切り続けた。

「治してさしあげましょうか」

 気まぐれは女の常。少年の爪きりを手ごとはたいて叩き落す。

 少年はYESともNOとも答えない。これも常のこと。ヒメは意に介さず、少年の意志など初めから聞く気などなく、ここでは少年の存在は希薄だった。

 ヒメは桃色の舌を、ぞろりと出す。ぬめぬめといやらしく光って、星の瞬きに照りだしていた。

 玉座から女王が降りる。冷たい大理石の床に君臨する。下肢の弱ったヒメは立つことができず、かわりに這いずる。芋虫のようだ、と少年は頭の片隅で思う。白く、赤い芋虫。毒を備えた、危険な蟲。

 微動だにしない少年の顔を、ヒメは白い手のひらで包み込み、自らに向かせた。ヒメの青い目とかち合う。少女の心根に反し、青い瞳は深い湖のように澄み、凪ぎ、何の感情も表してはいなかった。

 少女の初々しい舌が、少年の頬をねぶる。人肌の体温は生暖かく、舌は地上で最後に食べたマシュマロのように柔らかかった。蜜しか食べられない彼女は、口の中も花の蜜の匂いがした。

「あなたの血は甘いのね。金柑の花のよう」

 花など一輪も飾られていない殺風景な部屋の中にいながらも、ヒメは花のことに詳しかった。部屋の隅に雑然と散らばる花の図鑑があったなと、少年の頭は機械的に考える。

「働き蜂はすべてメスなのですって」

 ヒメの右手が、そっと少年の白い首に添えられる。右手の親指、人さし指まで爪切りが終わっていたが、残りの八本はまだゆうに十五センチ以上の長さを保ったままだ。異様な早さで伸びる爪は、前回処理した三日前に長さが戻ってしまっていた。

 少年の視界が、ヒメで埋まる。全てがガラスでできた部屋の、それは宇宙の一部のように見えた。床以外、壁も窓も天井もガラス張りなのは、明らかに中を見やすくするため。ヒメを見るための部屋なのだと、今更ながら思い浮かぶ。

「お前は女の格好が似合わないわ」

 胸元まであらわになったヒメの裸体には、何も反応がない少年。そんな彼を心底つまらなさそうに見下ろすヒメ。彼女の左手も、ついには少年の首に据えられた。

「それでもおとうさまが女の格好をやめさせないのは、なぜだか分かる?」

 ぐ、とヒメの小さな手に力がこもった。それは何気ない動作だった。悪意も殺意も他意もない、無垢なままの感情で、少女は少年を押しつぶしていく。

 ガラスを経た空は、いつも星空だった。いつまでも星空だった。そしてこの部屋から一歩でも外に出れば真空の世界が広がり、三分も持たないだろうということは、この部屋に入る直前に聞かれていた。

 宇宙。それが、この部屋の外に広がる世界なのだと、スーツ姿の男に教えられた。

 少年は何も抵抗しない。宇宙という知識は教えられても、抵抗という二文字は脳内から消されていた。大の字に床に転がって、徐々に薄れていく意識と手足の痺れを甘受している。

 初めて、少年に自我が生まれた。

 求めていたものはこれだと、確信した。

「抵抗しないの?」

 ヒメは意外にもそう尋ねてきた。彼女の思考回路は複雑怪奇で、少年には理解しがたい。そして答えない。――答えられなかった。

 ヒメは馬乗りになったまま、首を絞めつつ上半身をかがめた。腰をくの字に折り曲げ、顔を近づけて少年の唇と唇を重ね合わせる。

 甘い。蜂蜜の味。

 少年は吐き気がした。甘みなど感じることができないのに、そう感じてしまう。食べたことがないのに、蜂蜜の味が分かってしまう。

 奇妙な感覚だった。蜂蜜という高級品を、彼は食べたことがない。そもそも彼は”味を感じる”器官を、切り取られていたのだから、味など分かりようもない。

 しかしそのもったりとした濃厚な甘さは鼻の奥まで届き、呼気までもを甘く染める。

 そんな空虚になった少年の口腔を、ヒメの舌がまさぐる。荒らしていく。蹂躙する。

 いよいよ少年の息がか細く、視界が歪み、脳内が真っ白に思考を停止し始めた。少年は望んでいた歓喜の梯子に指先をかけていた。星々が手を伸ばして少年の心臓に到達するまで、あとほんのもう少し――――

「ずっと待ったわ」

 ぽたり。少年の空っぽな口の中に、ヒメの涙腺からにじみ出た透明な体液が浸入した。

 泣いている。孤高の女王がいくつもの大粒の涙を、少女のように流している。

「私はずっと待っていたの。この牢獄で」

 しかし、息絶えていく少年を見下ろす瞳に、情愛の類いは一切見られなかった。

「お願いだから、愛してるって言って」

 少年は答えない。答えられるわけがない。

 少年は愛を知らない。彼に愛の概念を理解することは困難だった。

「誰でもいいから、私を愛して」

 懇願するような、甘えるような、猫なで声。

「あなたでいいから」

 言葉とは裏腹に、首に込められている力はどんどんと増していく。

 こつん。

 壁から、何かが軽く当たる音。少年は唯一自由になる眼球を動かし、その音が発する出所を探ろうとした。なぜ死につつあるのに、それを見なければならないのか分からなかったが、脳が「見ろ」と言っていた。

 少年の暗澹たる視界に、何か青い光が見えた。

 天に、壁に、気付けば、床にも。

 ――ああ。見られている。

 驚きはなかった。悲しみもなかった。ただ少年の胸中には、さみしさだけ残っていた。

 ガラスの向こう側で、大小様々なヒメがのぞき込んでいた。彼女たちの背中には、天使のような白い翼が生えている。けれどその翼の先端にいくほど、どす黒く汚れていた。不気味なツートンカラー。

 彼女たちはどこから来たのだろう。なぜ真空の宇宙空間で息をしているんだろう。

 少年のささいな疑問に答えるものはいない。彼女たちは誰も笑みをたたえたまま、その数を爆発的に増やしていく。

 今や狭くはない部屋はすべてヒメで埋められた。ばん、バン、と彼女たちはガラスをたたいている。ああ、ヒビがが入ってきた。ひゅぅぅ、と勢いよく酸素が放出されていく。

「あーあ。壊れちゃった」

 興味なさげに、つまらなさそうに。ヒメはそう言うと、ぶん、と少年の骸をヒメの群れへ向かって放り投げた。

 少年の小さな体に殺到するヒメたちは、きゃあきゃあと歓声を上げながら群がりだす。そして少年を方々に引きちぎると、どこかへと連れ去ってしまった。

 がらんとした部屋。すべての家具が、本が、服が疾風に暴れ回り、宇宙へ投げ出されていく中で、草原に立っているかのような涼しげな顔でヒメは立ち尽くしていた。

「ああ。五月蠅い」

 はあ、とため息をつくと、ヒメは割れた窓ガラスとは反対側へと歩いて行く。長い髪をかきあげ物憂げに。その足取りは迷いなく、まっすぐで――

「迷うわけないでしょ。こんな目の前にいるのに」

 バキン! と、目の前の壁が砕け散る。

 薄ら寒い暴風が全身を撫でた。ぶわり、と肌が泡立つ。

「あんた、何見てるの?」

 見られて、いる。

 え……? 彼女は、もしかして”私”を見ているの?

 ヒメの背後に光る懐かしい星の青だと思っていたものは、こちらを見やるヒメの眼球だった。白い美しい顔が、瞬きもせずこちらを凝視していた。

「さっきからあんた本当に五月蠅い」

 ぁがっ……!

 なに……!? 鞭のようにしなったヒメの腕が、私、私……? ああ、そう、私の首にかけられて――――

「私が気付いていないとでも思ったの?」

 歌うような、ヒメの声が……だんだん、遠くなって……

「邪魔しないでちょうだいよ」

 みし。私の、首の骨が悲鳴を上げる。

 体がふわりと持ち上がって、足が床から離れた。

 浮遊感。飛んでいる。浮かんでいる。重力からの解放、天と地の喪失。

「私と彼の営みを」

 彼、って……太陽の向こうに見える、あれ……?

「そうよ。彼。どうせあなたには真実など何も見えていないのね」

「あなた方人間はあまりにも自分に都合のいいように世界を見る」

「それに私が合わせてやっているというのに」

 ああ。次から次に、違うヒメの口から言葉が発せられる。

 今や私の周りには、幾万の目が並んでいた。息、苦しい。げほっ、と肺の空気が逆行する。苦しいほど鮮明になっていく意識。

「それじゃあね。人間さん」

「次は、蜂にでも産まれるといいわね」

「たいして役に立たないモノから」

「せめて私の役に立つモノになってちょうだい」

 ぱき、

 ――――

 ――――――

 ―――――――――――








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ティースプーン・ハニー≠ハニー 宮嶋ひな @miyajimaHINA

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