大河

 僕が向けた刃に、その女の子は母親みたいな優しい笑みを返した。


「化け物を殺してこい」とナイフを渡された僕に抵抗する選択肢はなかった。僕は虐められていて、仲間はいなくて、周りは全員敵だったからだ。人喰いの怪物がいると教えられ、連れていかれた場所は街外れの廃墟だった。「外で見張ってるからな!」リーダー格の少年が言った。どうせ僕が見えなくなったらすぐさま帰るのだろうと思った。

 廃墟の中に入る。壁面は崩れ、ところどころ基礎が剥き出しになっている。瓦礫を踏むたび、じゃり、と自分の足音がやけに響いた。化け物に自分の居場所を伝えているようで怖くなり、僕はできる限り静かに歩いた。それでもやっぱり音は廃墟の中を跳ね返って、拡声器でがなり立てるみたいに僕の存在を知らしめる。

 逃げ出したくなる気持ちを抑えつけて、廃墟を進む。きっともう僕を虐めている連中はいなくなっているとも思ったが、万が一にも監視を続けていた場合、そこには精神的ではない物理的な恐怖が待っている。人喰いの化け物なんているはずがないのだから、もう少しだけ我慢すればいい。もう少しだけ。自身の心に語りかけて、僕は廃墟を歩いていく。

 どれくらい探索したか分からなくなった頃、足音が聞こえた。自分のものではない。誰かの足音だ。前方の暗がりから聞こえてくることに気付いた途端、身体が震え始めた。怪物がいるのか。そんなはずはない、と冷静な自分が言った。だとすれば廃墟に巣食う浮浪者か。どちらであっても恐ろしい。たった一人の中学生は、それらに抗するには非力過ぎた。

 僕はナイフを両手で握り、迫ってくる足音の恐怖から逃れようとした。

「おぬし」

 少女。

 物陰から姿を現したのは、自分と同い年ほどの少女だった。足音の主が彼女であることを理解し、僕は安心した。一瞬だけ。どうして中学生くらいの女の子が街外れの廃墟にいるのか。自分と同じような状況? 奇特な趣味の持ち主? 安堵は即座に困惑へと変化した。

「…………」

 少女は僕を見て、僕が持ったナイフを見やって、

「よほど怖い目に遭ったのか。あるいは、遭っているのじゃろう」

 と言った。

「その様を見れば分かる。噂を聞いたことがあるな? この廃墟には人喰いの化け物が出るという。おぬしはそれを知って、ここを訪れた。じゃから自分以外の何者かがいるのが、恐ろしくて仕方ない」

「…………、お前は」

「ここにそんな化け物はおらんよ。わしは人など喰わんからなあ」

 さらりと。

 事もなげに、少女は言ってのけた。

 廃墟に棲む化け物とは自分のことだと、目の前の女は言ったのだ。

 少女の言葉を飲み込み終えると、すぐさま身体が反応した。手が震えを取り戻し、ナイフを取り落とした。床にぶつかった金属音が嫌に広がって、気分が悪くなる。屈んでナイフを拾う。震えの止まらない手でナイフを握り直し、少女に向ける。

 嘘を言っているのだと思った。嘘を言っているに違いないと思い込もうとした。けれど本能が彼女の言葉が真実であると告げていた。

「大丈夫じゃよ。わしはおぬしを傷つけない」

 少女は笑う。

 まるでいつかの母のように、外見年齢から乖離した優しい笑みで。

 恐怖と困惑と慈悲が混線して脳の処理限界を超えた。目の前が真っ暗になった。



「親は」

「死んだ。二年前、事故で二人とも」

「学校は」

「死神だって虐められてる。先生も助けてくれない」

「親戚は。保護者は」

「実家との縁は切れてる。僕を気に掛ける人は誰もいない」

「そうか。……ならば、一緒に来るか?」

「…………。うん」



 …………。

 少女は歳を取らないのだと俺に語った。それから俺たちは街を離れ、二人で生活を始めた。外見が幼子である以上、一定の期間ごとに場所を変えなければ怪しまれるのだと彼女は面倒そうに言う。事実、俺が出会ったときは長居しすぎていたようだ。

 俺は彼女に生き方を学んだ。土地ごとの馴染み方を学習した。年齢を重ねていき、金を得る方法を獲得し、歳を取らない少女とともに生き続けた。

 俺は、大人になった。

 彼女は少女のままだった。

 俺たちは相変わらず、撤去される寸前のようなビルを縄張りにしている。

「なあ」

「なんじゃ、ガキ」

「ガキじゃねえって言ってるじゃんか。いい加減、こっちの愛に応えてくれよ」

「この見た目に発情するのか。ロリコンが」

「中身俺よりババアだろ」

 飛んできた拳を避ける。慣れたものだった。

「ちょっと気にしてるだろ。そういうとこも好きなんだよな」

「本当に生意気なガキじゃ……」

 ずっと生活を共にするうち、俺は彼女に惚れていた。大人の包容力とか幼く潤いと張りのある柔肌とかとか、そのへんもあるにはあるが普通にこの不老の化け物との掛け合いというか中身が好きになってしまっていた。ずいぶん前に告白してから、何度も振られている。振られ続けている。

「それはさておき」

「何?」

「そろそろこの街も出んとな。いつかのおぬしのように、嗅ぎつける輩が出てくる頃合いじゃろ」

「もうそんなに経つ? 毎回言ってるけど、引っ越し面倒なんだよなあ」

「無理して付いてこなくていいんじゃぞ」

「いや付いていきますが。好きなので」

「はっ。勝手にせい」

 言うが早いか、せっせと荷物の準備を始める少女。俺も習って荷物をまとめるも、十分経たずに完了する。各地を転々とする生き方を続ける以上、持ち物は少なくした方が効率的だ。それは少女だって重々承知しているだろうに、彼女は俺の十倍近い荷物を抱えている。用意にも手間がかかる。

 捨てないのか、と一度訊いてみたことがある。「できるだけ捨てたくない」と彼女は答えた。

 明朝、街を出ることになった。荷をまとめているうち疲れてしまったようで、少女は俺の隣で熟睡している。この街で最後の夜を堪能しようと、俺は少女の可愛らしい寝顔を見守っていた。

 ……足音が聞こえた。

 静かに、静かに。音を抑えようとはしているが、聞こえてきた足音は複数。何人かでビルに立ち入り、ゆっくりと上階に上ってきている。じき俺と少女がいる階層に到着するだろう。

 俺は少女を起こさないようにしながら移動し、階下を探る。大人が何人か、明らかに誰かを探している様子だった。俺は真っ先に少女の近くに偽造した身分証を置くと、武器になりそうな廃材を持って待ち構える。息を殺して、連中がやってくる時を待つ。

 月夜に伸びた影を視界に捉え、俺は彼に目掛けて廃材を振り抜いた。彼は声も上げずに倒れた。異変に気付いた他の男たちが駆け寄ってくる。廃材を振りかぶったが、その隙に一人の男が俺に突進を仕掛けてきた。突撃を思い切り受けてしまい、よろめく。不安定な足場、落下していた礫に足を取られ、背中から倒れる。

 背後に床はなかった。

 穴の開いた壁から、俺の身体は地上に向けて落下を始めた。

 逃げれば良かっただろう、と理性が声高に主張している。今さらすぎる意見を笑い飛ばし、俺は思考する。逃げだせば、荷物のすべてを捨てることになる。俺はそれでもいい。けれど、少女はすべてを失いたくはないはずだ。あの荷物は思い出だ。彼女が生きてきた記憶、記録なのだ。それを捨ててまで愛することのできる人間に、結局俺はなれなかった。

 あるいは。もしかしたら。俺と過ごした日々も、他の誰かと過ごした思い出と同等に素敵なものだったからこそ、優劣を付けられなかったのかもしれない。

「……そう思おう」

 ああ、それならそれで。

 良い一生だった。



 少女が目覚めたとき、すべては終わっていた。




 子供を喰う化け物がいる、との噂が広がっていた。冗談と聞き流していたそれを大人たちが真に受けたのは、目撃情報が多発したからだ。廃ビルに入っていく人間がいる。若い、二十代の男だ。住人たちのいずれも彼の仔細を知らず、調査することに決まった。

 廃ビルには件の男と、中学生ほどの子供がいた。子供の両親は他界しており、引き取り手もいなかった。一人になったところを攫われたのだろう、と大人たちは少女を哀れみ、街に受け入れた。子供は孤児院に引き取られることとなった。


「あなたも、どこかでいじめられていたの?」

 隅でうずくまる少女に、孤児院にいた人間が話しかける。

「……そうかもしれんな」

 しばらく沈黙を続けてから、少女は返答した。

「何度目かも分からん。揃いも揃って、わしを傷つけるだけ傷つけて、そのくせ満足そうにしていなくなる。わしに傷を付ける奴ばかりじゃ」

「ここは、だれもあなたを傷つけないよ」

 その言葉に、少女は顔を上げ、かろうじて笑みを返した。

 今にも消えてしまいそうな擦れた笑みだった。

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