土手で星空を見ながらショパンを聴いた

なぎらまさと

土手で星空を見ながらショパンを聴いた

 土手を少し下りたところに自転車をとめて、僕は先週と同じ場所に寝っ転がった。

 見上げた夜空には、先週と同じようにたくさんの星が広がっている。

 ポケットからスマホを取り出して、イヤホンを差し込む。

 よし、リベンジだ。

 僕は、準備していたユーチューブの画面を開いた。


 らんちゃんとは、もう三週間会えていない。

 僕は一人暮らしの寂しさを紛らすために、夜になると自転車で近くを流れる川の土手に行くようになった。

 途中にあるコンビニで、パンとコーヒー牛乳を買うのがルーティーンだ。

 土手の適当なところに自転車をとめて、空を見ながらパンをかじる。

 そのときに聴く音楽は、気分に合わせて色々だ。

 ポップスの日もあるしヒップホップのときもあるし、ボーカルがないインストバンドを聴くこともある。


 一週間前にここで聴いたのは、ショパンだった。

 ピアノを習っているらんちゃんが大好きだって言っていた、ノクターンの嬰ハ短調。

 らんちゃんと付き合っていなかったら、「嬰」という漢字を「エイ」と読むなんて知らなかっただろう。

 いまだにどんな意味かは知らないけれど。

 先週はここで、日本人ピアニストの辻井伸行の嬰ハ短調を聴いた。

 ユーチューブで検索したときに最初に出てきたし、僕も知っている名前の人だったから。

 静かに澄んだロマンティックなピアノの響きは、まるでこの星空のために作曲されたんじゃないかと思うぐらい、ぴったりだった。

 曲が終わるまでの三分半、僕は何も考えずただぼーっと空をながめていた。


 今日ここで聴くのも、やっぱりノクターンの嬰ハ短調だ。

 でも、今日は辻井伸行の演奏じゃない。

 どうやら、らんちゃんは彼の演奏はあんまり好みじゃなかったらしいのだ。

 「らんちゃんのことを思いながら、星空の下で嬰ハ短調を聴いてたんだよ」なんて格好つけるハズだったのに、「わかってないなー。私が好きなのはバレンボイムなのに」って返されてしまったのだ。

 もちろん、翌日にでもすぐに土手に行ってバレンボイムの演奏を聴くつもりだった。

 でも、このところの雨続きで、そのチャンスがやってくるまでに一週間かかったのだった。

 僕は、らんちゃんに教えてもらったユーチューブの画面を開いた。

 土手でリベンジするまでは聴かないでおこうと思っていたから、バレンボイムの演奏はいま初めて聴く。

 今度こそ、らんちゃんの好きな音楽に浸って星を眺めよう。


 バレンボイムの演奏は、辻井伸行よりもゆっくりだった。

 ふーん、らんちゃんってこれぐらいのテンポが好きなんだ。

 辻井伸行の演奏しか聴いたことがない僕には、少し遅すぎるように感じられた。

 あと四分もあるのか。

 もうリベンジできたことにして、聴くのやめちゃおうかな。

 ふと、らんちゃんとのデートの様子が思い浮かんだ。

 そういえば、僕の歩くスピードが速いって、いつもぶうぶう文句言ってたな。

 文句を言ってる顔がかわいくて何とも思ってなかったけど、スピード感が合わないことって本当に嫌だったのかもしれない。

 バレンボイムを聴きながら、僕はいつの間にか、らんちゃんが好きなスピード感を自分も心地よく感じたいと思っていた。

 ゆったりと流れるメロディーに意識を集中して、ありのまま受け入れようとした。


 動画が終わって静かになると、いつもの星空が目の前に戻ってきた。

 僕はスマホをポケットにしまいながら、今日は自転車を少しゆっくり漕いで帰ろう、と思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

土手で星空を見ながらショパンを聴いた なぎらまさと @willow2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ