3. Melencolia I



 ダヴィンチの計画には、その時点で協力者が僕しかいなかった。月光が赤い天窓から禍々しく差し込む、悪趣味な造りの通路を歩きながら、彼は小声で説明した。


「計画は、大まかに言えば、見学ツアーの日に騒ぎを起こして、その混乱の隙に逃げるというものだ。俺が電気系統を麻痺させ、お前が看守室に忍び込んで服と武器を盗む。でも俺が自由に動けるのは夜だけだし、囚人は皆、肩に埋め込まれたチップで位置情報を掴まれてる。電気系統に近づくためには、敵の目を惹きつけるもう一人の協力者が必要だ」


 通路に看守がいるのではないか、と不安だったが、誰とも会わなかった。監視カメラが機械的に首を回す音だけが不気味に響いている。僕が外に出ているのは承知の上だったのだろう。それでも気にも留めないのは——僕がすぐいなくなる、弱い木だからだ。

「まあ候補はいるのさ。奴は俺より古株で、なんと14歳からここにいる。それから10年間、殺されることなく生きてきた化け物だ。俺は『アルブレヒト』と呼んでる」

 ここだ、と、ある独房の前で足を止める。青く塗られたドアの隙間から、室内の光と、陰鬱なクラシック音楽が漏れている。ノックを三度するや否や、ダヴィンチは勢いよくドアを開けた。

「また君か。レオ」

「また俺だよ。アル」

「もういい歳なんだから、大人しく独房へやにいなよ」

 鬱陶しそうに話すのは、大きな白パーカーのフードを被った、青髪の青年だった。こちらを見もせず、壁にもたれて床に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせている。

「もう何度も言ったよね。僕は脱獄なんてするつもりはない。ここは最良の作業環境なんだから……っていうか、誰そいつ」

 彼はこちらに目を向け、ようやく僕の存在を認識する。

「こいつはカラヴァッジオ。新入りだよ」

「へえ。人でも殺した?」

「いいや。冤罪らしい」

「またか。最近多いよね。が足りないからって、上も無茶苦茶するよ」

 ふと見れば、部屋の至るところに、白と青を基調としたウサギのモチーフ作品が溢れている。絵画、フィギュア、服、小物類、ぬいぐるみ。全てが一級品なのがわかる。どれ一つとして気をてらったデザインのものはないはずなのに、芸術的センスが溢れ出んばかりに光っている。

「あ、あの。素材が足りないって?」

「需要と供給の問題、かな」

 アルブレヒトと呼ばれる青年は虚ろに笑った。

「日本は今、自治が危ういくらい財政的にヤバい状況にある。貧困は拡大しっぱなし、低賃金労働のせいで国民の鬱憤も溜まってる。それを解消するのに、麗殺刑の人体アートほど都合がいいものはないんだよ。でもま、そう都合よく芸術家が重罪に問われることってないからさ」

「アルブレヒトさん……は大丈夫なんですか?」

「ああ、アルでいいよ。僕は一応、伝説の存在ってやつでね。だから僕の死体を使う権利を巡って、外の似非芸術家共が泥沼の争いを続けてる。その裁判ごっこオークションに蹴りがつくまでは、とりあえず無事だね」

 だとしても理解し難かった。こんな狂った場所で10年も暮らしているだなんて。

「もう何度も言ってるけどな、アル」

 ダヴィンチは彼のそばにしゃがみ込む。

「いくら人気って言ったって、お前のは見世物としての人気に過ぎないんだぞ? 自分の才能が正当に評価されてるだなんて、まさか本当に思ってるわけじゃないだろう」

 それを聞くと、アルはおかしくて堪らないというふうに笑い出した。半ば狂人のように。

「正当な評価ねぇ!」

 地の底から響くような暗い声で、蒼白の肌の芸術家は言った。

「そんなもの、もう死んだも同然だ。芸術かくあるべし……だなんて、どれだけ高尚な理屈を並べたところで、皆自分が認められたいからちょっと人と違うこと言ってみたってだけで、本気で言ってるやつなんか誰一人いやしない。名を残さなきゃ無意味だ。さあ、もう帰ってくれ。いつものことながら、僕には時間がないのでね」

 ダヴィンチはやれやれと首を振り、立ち上がると、僕の肩をポンと叩く。

「お手上げだ。次は君が説得してくれ、バジ男くんよ。俺は帰って寝るとする」

「え、バジ男って僕のことですか? ちょ、ちょっと!」

 なんとこの部屋に一人置いていかれ、僕は呆然とその場に立ち尽くした。

「君も早く帰りなよ」

 アルブレヒトはもう作業に戻って、あくび混じりに鉛筆を動かしている。その呑気さを少し腹立たしく思い始めながら、僕は質問してみることにした。

「アルさんは怖くないんですか? 殺されて、体バラバラにされて、飾り付けられて、いろんな人に見られるんですよ? 平気なんですか?」

「無名のまま死ぬほうがよほど怖い」

 全然会話にならない。次になんと言うか悩んでいると、今度は彼の方から尋ねてきた。

「ダヴィンチのやつがなぜここに入れられることになったか、知ってるかい」

「いえ……知りません」

「あいつは元々便利屋でね。海外で暮らす資金を貯めるために働いていた。職場で一番賢くて、器用に何でもできるから、あだ名がダヴィンチ。でもある日、同僚が冤罪で捕まって、抗議も虚しく麗殺刑を執行されてしまった。その同僚は、芸術活動すらしていなかったのに」

 彼は棚のファイルを漁り、新聞を抜き取ると投げてよこした。見ると、一面の記事に、燃え盛るトラックの写真が載っていた。

「死刑囚の遺体を運ぶトラックを襲ったんだ。たった一人でね。そして荷台に火を放った。芸術家とは名ばかりのクズ共の玩具にされるよりは、燃えて灰になったほうがいいと思ったんだろう」

「なぜそんなに詳しく知ってるんですか?」

「看守の噂話を聞いたんだ。しかしまあ、馬鹿な奴だよ。衝動に任せて事を起こすから、名前も残せず惨めに死ぬ羽目になる」

 そう言って彼は鼻で笑った。僕は床に置かれたぬいぐるみを手に取り、じっと見つめる。


「あなたの作品は、確かにすごいです。すごいけど……本当に芸術なんですか?」


 鉛筆の音がぴたりと止まる。

「芸術論を垂れるつもりか。言っておくが僕は批評家というものが大嫌いでね。特に自分が大した芸術家でもないのにデカい口を聞くタイプの奴は心底憎悪してるんだ。聞いてもいいかな。君は今までいくつ賞を取った?」

「一度しかないです。それもクレヨンで描いた下手くそな絵で。でも、別に賞が欲しくて描いたものじゃありませんでした」

「何それ。負け惜しみ?」

「母の姿を描きました。母と、父と、僕の姿。僕はただ、母に見てもらいたかっただけで。もう一度会いたい、ただそのことを伝えるためだけに描き殴りました。いくら他人に認められたって、芸術だなんて、おこがましい」

 小さいものでも、絵画で賞を取ったと聞けば、母が駆けつけてくれるかもしれない。そんなことを期待したが無駄だった。電話のひとつも来なかった。

「芸術なんて、大概そんな動機だろ。皆等しく、誰かに何かを伝えたいだけだ」

「それでも、僕はどうしても、同じだとは思えないんです。だって僕の下らない絵と、システィーナ礼拝堂の壁画は全然違うじゃないですか。あれは一体何なんですか? 僕は違うと思います。ただ自分の気持ちを伝えたいというエゴに留まっていては、あれには到底届かない。あれと同列に語ってはいけない。って」

 壁際にうずくまって、孤独に筆を走らせているアルブレヒトの姿は、なぜかあの日の自分にとてもよく似ていると思った。もし同じなのだとしたら、どんな言葉を心底欲していたのか、僕はまだ鮮明に覚えている。

「もし、作品に込めた想いが誰にも届かないことに苦しんでいるのなら、僕がそれを全部聞きます。他の人がうわべしか見ず、見たいようにしか見ようとせず、本質を理解しようとしなかったとしても。だって、あなたにはすごい才能があるから。僕と同じ次元に留まってていい人じゃない」

「一体何が言いたいんだ」

「一緒にここから逃げましょうよ。だってアルさんがいなくなったら……僕は悲しいですから」

 こちらを静かに仰ぎ見たアルブレヒトの瞳は、変わらず陰鬱だった。積年の迫害によって澱み、腐り、歪み——それでも確かに才能に輝く、真性の芸術家の目だった。

「カラヴァッジオ。君は世の中というものを何も分かってない。芸術のことも、この僕のことも」

「ええ、そうでしょうね。でも、それが何か問題になりますか?」

 近くを見ながら、同時に遠くの方を見つめるような——僕の後ろに誰を見ていたのかは今もってわからない。アルブレヒトは懐かしむような、慈しむような視線をそこに向け、それからやはり、陰気に笑った。

「ならないね。土台、問題にはならない」



 その後、襟の裏を探すよう促されて触ってみると、ダヴィンチの仕掛けたであろう盗聴器が見つかり、僕は大いに憤慨した。

「な、何ですか、これは」

「あいつ盗聴マニアなんだよね」

「え? 変態じゃないですか」

「だーれが変態だ」

 何事もなかったかのようにドアを開け、ダヴィンチが入ってきて、心外だという顔で詰め寄ってくる。

「だったらお前は盗聴器を手作りできるっていうのかよ。バジ男くんよ」

「だからその呼び方やめて下さい」

「脱獄には情報が必要だろ。ま、今の会話は聞かせてもらったがな。さて、じゃあ詳しい計画の話を……」

 息巻いたダヴィンチを、アルが掌を上げて制止する。

「レオ。君の欠点は、器用貧乏なところだ」

「な、何だよ。急にディスるなよ」

「どうせ君のことだから、ツアーの日に騒ぎを起こして、そのどさくさに紛れて逃げる、とか言い出すんだろ。慎重さは素晴らしいが、そういうところだ。君が僕にいつも一歩及ばないのは」

 話が見えず、僕とダヴィンチは顔を見合わせる。アルはウサギのぬいぐるみを掴むと、なんと思い切り背中を引きちぎった。

「10年もあれば、看守もあらかた全員入れ替わる。各々と秘密で取引したから、僕の持ちものを完全に把握してる奴はいない。火薬も信管も、アートに使うと言えば簡単に手に入った。どいつもこいつもアホで助かったね」

 ウサギの腹から出てきたのは、小型爆弾だった。へらっ、とダヴィンチが苦笑する。

「まさに天才の発想だ。だが狂ってる。俺が言うのもなんだが」

「この僕が、無名のクズ共を自分の名声に便乗させるとでも思ってた? それにね」

 パーカーのポケットから起爆スイッチを取り出しながら、アルブレヒトはまじめ腐って言い放つ。

「芸術はさ、爆発なんだよ」






 


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