薄汚れた弾き語りのジジイとして野垂れ死ぬ

刈田狼藉

一話完結:6,664文字

安物のギターケースを抱え、とある港湾に面した公園に、オレは足を踏み入れる。


黒の、ペラペラした材質の、薄汚れたギターケース。中に入っているのも、これまた安物のギターで、何というか、うすらボロい感じだ。ハードオフで8000円で売っていた。調弦が難しく、なかなか音が合わない。ネックが少し反ってんのかな? とずっと思っていて、まあそれほど気してもいなかっんだけど、最近になってネックがどうやら「ヨジレている」ことにようやく気が付き、なんだよ、8000円じゃずいぶん高い買い物だったな、とムカつたりもした。でもまあ、オレらしい、と言えば言えなくもない。それにロックをやるにはピッタリだ。そう思わないか?


いや音楽的な意味じゃなくて、文学的な意味でさ。


真っ直ぐであるべきネックが「ヨジレてる」なんて、期待を完全に裏切ってて、ある意味「最高」だ。季節は春先、まだ少し肌寒い。海っぺりは風が吹くと結構冷えるから、やや厚手のジャケットコートを羽織っている、濃緑の、少し迷彩っぽいカラーリングの、ポケットがいっぱいついてるヤツ。


小銭入れと、缶コーヒーと、チューナーと、カポと、あとピックが10枚くらい入ってる。タバコは吸わない、半年前にやめたんだ。


そして下は、もちろんジーパンだ。そしてもちろん薄汚れてる。地べたに直接座り込むワケだから当然だ。そして頭にはタオルを巻いている。別に竹原ピストルのマネをしてるワケじゃない。いや、すっげー尊敬はしてるけど。そしてそのタオル、白地にかすれた紺の文字で「有限会社竹村防災設備工業」という文字がプリントされている。って言うか、


竹村防災って、いったいどこの誰だよ?


まあいい、オレにとってのロックは、生活実感が重要なんだ、っていうことが言いたかったダケなんだ。ありのままの、そのままの、リアルなオレを、叩き付けたい、擦り込みたい、思い知らせてやりたい、そして全員、不快な気分にさせてやりたいんだ。


オレのロックは悪意だ。

オレのロックは、復讐なんだ。


見たヤツ聴いたヤツのココロに、ひっかき傷を付けてやりたいんだ、血が出てるその傷に、塩を擦り込んでやりたいんだ。オレは弾き語る場所を選ぶとき、どちらかと言うと人通りの多い場所を選ぶ。オレにそうさせるのは、


もちろんオレの純粋なる悪意だ。


観光地が隣接した、その港湾に面した公園には、今日も大勢の人が歩いてる。観光客が多い。それも中国人が多い。カップルが多くいるベンチが並んでいる一角を避け、いやそれくらいのデリカシーはあるよ、いくら何でも、オレにだって。そして、アスファルト敷きの通路の、路肩の縁石に、オレは腰を下ろす。そしてペラペラのギターケースから大振りの、ツヤの無い、如何にも手入れが悪そうなフォークギターを取り出して、芝生の上に寝かす。そして軍用品めいた迷彩のジャケットコートの、そのヤケにたくさんあるポケットから、


ピックと、カポと、チューナーと、あと缶コーヒーを取り出して路上に並べる。


そしていそいそと慌ただしくチューニングを済ませ、フレットに対して斜めにカポを装着し、テキトーだそんなの、そして缶コーヒーを開けて一口だけ飲んで、


んーっ、甘くてうまいっ、


そして、海と、工業地帯と、巨大なクレーンと、そのすぐ横の近未来的な高層ビル群を眺めながら、ギターを乱暴に掻き鳴らして、大声で歌い始める。


すぐに歌い始める。


あんまり準備とか、マジナイめいたルーティーンとか、オレはしない。時間がもったいない。一刻も早く、歌い始めたいのだ。


オレのロックは、復讐なんだ。

一刻も早く、思い知らせてやりたい。


オレがオレであることを、オマエラの思い通りなんかにならないと、世界全体に、今すぐ、思い知らせてやりたいのだ。


ブラッシー・ワン・ストリングの「チキン・イン・ザ・コーン」であいさつ代わりにブチかまし、


ゴティエの「サムバディ・ダライ・ユース・トゥ・ノウ」を声を枯らして叫び、


セオリー・オブ・ア・デッドマンの「メディケイト」で公園の、くつろいだ休日の雰囲気をすっかりブチ壊したところで、オレは一息ついて缶コーヒーを口に含む。


うーん、やっぱり甘くてうまいっ。


微糖は飲まない、中途半端なのはキライなんだ。あぐら組んで路上に座り込んだまま、首をまわして周囲に視線を巡らせてみる。近くには誰もいない。誰も聴いてない。ざまあみろ、思わず口走ってしまう。そして再び膝の上でギターを構えて、調弦は、ホントはこのへんで一度やるべきなんだろうけど、面倒くさいからナシでそのまま


ニッケルバックの「ロックスター」を歌う。大声で、息が切れるくらい。


ひでえ歌詞なんだ、ロックスターになって、丘のてっぺんにでかい家買って、いいオンナ大勢はべらかしてヤリたい放題、クスリやりまくって、ケータイの短縮ダイヤルにはその売人の連絡先が数珠つなぎに詰まってる、ああクソ、いいなあ、ヤリてぇなあ、オレもロックスターになりてぇなあ、っていう、そんなヒドイ歌詞にも関わらず、通りすがりの白人のねーちゃん二人が、通り過ぎながら笑顔で拍手してくれた。観光地なのだ。オレは照れ笑いしながら「ありがとうございます、えへへ」とかなんとか言ってだらしないことオビタダシイ。復讐とか言ってたじゃんよ! って自分でも思うんだけど、きれいな若いねーちゃんには勝てねえよ、おっさんの反逆の精神、なんてさ。そしてそのまま続けて、やっぱりニッケルバックの「ハウ・ユー・リマインド・ミー」を歌う。とその時、


「うるせえっ」


なんかトガった声がした、遠くから、怒鳴ってるみたいな。たぶん、というか当然、オレに向かって言ってんだと思う。そりゃそうだよな、そう思う。で、目の前で言うのはさすがにおっかなくて、遠くから怒鳴っているんだろう。目の前で言ってくれてもいいのに、そう思う。目の前で怒鳴ってくれていい。別に気にしない。そんなの、あることだ、っていうか、逆にオマエラ怒らすためにワザワザ大きな声でやってんだから気にすんなよ、って言いたい。まあ遠くから言いたくなる気持ちはわかる。だって、いい歳したオッサンが、地面に直に座り込んで目を固く閉じ、身体を震わせて声を振り絞ってたら、


間違いない、

そいつはキ○○○だ、

ヤバすぎる、

関わらない方がいい、

オレでもそう思う。


しかしオレは、そのまま気にせず歌い続ける。すると今度はすぐ近くから、


「うるさいねー、ねー、ママ、あのひとうるさいねー」


そうだなぁ、10メートルくらいかなぁ、そんな、小さな子どもの声がした。子どもは正直だ。歌いながらも、思わず口元が緩んでしまう。勝てねえな、そう思う。ねーちゃんと子どもには勝てねえ。っていうか、子どもよりも常識のない自分を、逆に、なんだか誇らしく思ったりする。いい歳して何やってんだオレは?


ここでちょっと気分を変えて、クランベリーズの「ゾンビ」をやる。キーが高すぎて声が裏返るが、カンケーねえ、まわりの迷惑なんか知ったことか、構わず歌う。


「オイよせよ、やめろよ」


声がした。何だろう? 歌いながら横に視線を投げると、数人の若いヤツ等が何だか笑いながらこちらを見てる。ホントに若い、十六とか十七とか、それくらいだ。その内の一人、短くした金髪の、いちばん我の強そうなヤツが、歌っているおっさん、つまりオレの方に来ようとしていて、それを仲間がフザケて笑いながら、でも結構マジになって止めているのだ。


「よせよ」

「ちょっとアイサツだけだよ」

「やめろよ行こうぜ」

「こんにちわー! オジサン! こんにちわーっ!」


みたいなやり取りしながら、こっちに手を振ったりしている。いちばん怖いもの知らずな年頃といっていいだろう。身体だって大人と同じくらい大きくて、反抗期の真っただ中で、分別が微塵もなく、常識がまったく通用しない。ふ、ふふ、オレは笑ってしまう。今のオレと一緒だ。いや待て、オレは思う。他人の迷惑を顧みずヤカマしくギターを掻き鳴らすオレを、ヤツ等は、謂わば社会を代表して嗜めようとしているワケだから、なんだ、オレより大人と言えなくもない。


へっ、まだ小僧のクセに。


集団の歯車、人間関係の奴隷、自民党一党支配体制の手先かよ、くだらねえヤツだな、反吐が出る。


でもまあ、オレは思い直す。若者を教育し正しい道に善導するのは大人の義務だ。よし、こいつ等に、この前途ある若者たちに、ホンモノのロックを、本気で聴かせてやろう。そう決意する。オレはネックがヨジれた安物のアコギを、あぐらを組んだ膝の上で構え直し、


ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を歌い始める。


これまたひでえ歌詞なんだ、「転がる石のように何物にも束縛されず自由に生きて行きたい」みたいな歌だと思うじゃんフツー? 超、超、超有名な曲だし、タイトルから何となく日本のことわざ、曰く「転石、こけを生ぜず」が、連想されるし。でも、歌詞の内容は全然違う。ホントに違う。


あるところに金持ちの娘がいて、フザケ半分だか何なんだか街の浮浪者たちに金を恵んだりしていて、そんなワケでその浮浪者の取り巻き連中が出来たりして、しかしやがて、娘はある金持ちの男に騙され、身を持ち崩し、最終的に自らも浮浪者になってしまい、食うにも難儀して、その日の食事になんとかありつくために、同じ浮浪者のアタマのイカレタ男に対して自らのが女性であることを元手に妖しげな「取り引き」を持ち掛けたりして、そして、そんな奈落の底まで落ちたその「元」金持ち女に対して、同じく浮浪者であるところの、この歌い手は言うのだ、その女を見下し切った、極度にドライな眼差しで。


「どんな気分だい? 教えてくれよ、なあ、どんな気分だい? 帰るべき家も無く、誰からも全く気に掛けてもらえない、そんな石ころみたいな人間になっちまってさ?」


ブルジョワジー資本家階級なのか何なのか、1960年代初頭という特殊な時代背景を考慮に入れても、全く、全く共感できない! しかしそれがロックだ。少なくともオレにとってはそうだ。こんな不協和音だらけの楽曲、人倫道徳上完全にアウトのこの歌詞を、


どうして、どうして大声で歌わないでいられようか?!


もう一度言う。オレにとってロックとは、復讐である。目のあるものは見るがいい。耳のあるものは聴くがいい。そしてオレの悪意に驚き、怒り狂え! ざまあみろ!!!


ふと、視線を上げる。

え? と思う。


誰もいない。

どこ行った?

あいつらどこ行った?

あのクソ生意気な野良犬どもは?


オレに絡みたかったんじゃないのかよ? 因縁付けたかったんじゃねえのかよ? オヤジ狩りだったんじゃねえのかよ? くだらねえ、ホントくだらねえ平和な世の中だ、支配が行き届いていて実に管理しやすいコジンマリとしたガキどもだ、キ○○○と関わるのが嫌なんだ、あんなガキでもだ、パパとママにそう躾けられたんだろう、先生にそう言われたんだろう、公務員にでもなっちまえッ! っていうか、公務員になりたいんだろう……


なんだか淋しい気持ちになって、


ジョン・デンバーの「テイク・ミー・ホーム・カントリーロード」を歌う。日本のアニメの主題歌の、あの「カントリーロード」はカバーで、こっちがオリジナルなのだが、実は、歌詞の内容が正反対だ、ご存知だろうか? 日本のアニメ版のヤツは「故郷に帰りたい、でも、……でも帰らない」みたいな内容で極めてニッポン的な不思議なチカラの入り具合なのだが、ジョン・デンバーの方は「故郷はこんなにも美しい、ああ、もっと早く帰ってくれば良かった……」なのだ。まあ、どっちにしてもいい歌だ。実にフォークだ。厳しさも、優しさも、悲しみも、楽しさも、ぜんぶ詰まってる。


ざっと小一時間もやっただろうか、ギターを両腕で抱え込んだまま景色を眺め、オレは何だかぼんやりしてしまう。欲求不満のもやもやした感じはすでに胸中を去り、スッキリとした気分だ。帰ろうか、——そう思った時だ。


「素敵な音楽を、どうもありがとう」


すぐ後ろからそう声を掛けられ、座ったまま後を振り返る。六十代初めくらいだろうか、白髪の女性が微笑と共に会釈し、オレの前を通り過ぎて行った。


「すみません」


何故だかオレはそう謝ってしまう。ありがとうございます、ではなく、すみません、と口の中でモゴモゴと、なんだか謝ってしまう。


だって!

完全に誰にも頼まれてないのに!

オレ一人の判断で勝手に座り込み!

ギターを乱暴にヤカましく掻き鳴らし!

大声でグランジ系のロックを絶叫して!

そして、——

誰かの時間を、休日を、憩いを、語らいを、そして思い出を、……


台無しにしているのだ!


でもオレは歌わない訳にはいかない!

表現せずにはいられない!

オレには選べない!

オレは嫌がる自分を引き摺って、

公園まで行き、

海岸まで行き、

駅前まで行き、

時に市役所の前に座り込み、

歌わない訳にはいかないのだ!


弾き語りは、単に自己表現と言うに留まらない。弾き語りは、憧れそのものだ。


夢は何ですか?

人生の意味って何ですか?

あなたは何のために生きるのですか?


答えなんて無い、そう思ってた。そんな問いに正しい答えなんか無い。正解の無い問いの代表例、それが「人生の意味」だ。人は、生命の維持と種の存続のために、ただ、生きているに過ぎない。「夢」や「生き甲斐」など、単なる幻想に過ぎない。ドラマの見過ぎ、マンガの読み過ぎ、そう思っていた。


そう思って久しい三十九の秋、初めてボブ・ディランを聴いた。ベスト・オブ・ベスト・オブ・ベストみたいなアルバムが出て、ボブ・ディラン、当時すでに半世紀前の録音だったはずの、完全に単独で、ギターの伴奏と、ヴォーカルと、ハーモニカのソロまでやる、ある意味チープな雰囲気の、その古の弾き語り音源を聴いて、オレは衝撃を受けた。オレは崩れ落ち、砕け散り、瓦礫となって、そして生まれ変わった。オレは歓喜に震え、そして絶望した。


絶望する程の歓喜が、この世にはある。


オレがやりたいのはこれだ。子供の頃から探していたのはこれだ。


あるじゃん。


オレは思った。


人生に正解、あるじゃん。


あなたは何のために生きるのですか?

弾き語りをするためです。


人生の意味って何ですか?

弾き語りをすることです。


夢は何ですか?

薄汚れた弾き語りのジジイとして野垂れ死ぬことです。本気です。


ホームレスになって、ヨレヨレの年寄りで、小汚ねえ衣類を重ね着して、食うにも事欠き、そして場末の道路脇のゴミ捨て場で、でも大切そうに、とても大切そうにギターを抱えて、そして死ねたら、それはどんなに素敵な人生だろう、どんなに美しい生涯だろう。


そう思うのだ。


オレは歌うしかない。オレには選べない。誰にも邪魔させない。いや邪魔してもいい。しかし、オレがそれを受け入れることは無い。人生の意味、生きる動機、それを邪魔し、制止できる、それほどの恩人、それほどに世話になった人物など、両親も含めて、この世には存在しない。少なくともオレの場合はそうだ。弾き語りなんて迷惑だから止めろ、もし神がそう言うのなら、


オレは神に叛く。


人生の、胸に抱くこの生命の主体たるオレ以外に、ギターをくことを決意させる権利など、何人たりとも持ち得ないのだ。たとえそれが神や、悪魔といえどもだ。


気が付けば夕方の気配が、霞む空の色と、海から吹き付ける風の温度に漂っている。


そろそろ帰るか……


オレはネックのヨジれた粗悪なギターを安物の薄っぺらい材質のギターケースに仕舞う。ピックとカポとチューナーはジャケットコートのポケットに仕舞う。来た時と一緒だ。ホントはギターケースに付いてるポケットに仕舞えばいいのだがジッパーがブッ壊れていて閉まらないのだ。


オレは立ち上がる。

最近は「どっこらしょ」というおっさんくさい掛け声、ですら既になく、「痛ててててて……」という呻き声が喉奥から漏れてしまう。膝と腰が痛むのだ。もう死んだほうがいい。


今日は一人に怒鳴られ、一人にディスられ、一人にボコされかけて、一人に優しい声を掛けてもらった。いい一日だった。


誰にもディスられないロックなんてあり得ない。万人にウケる音楽なんて、そんなのロックじゃない。毎度誰かに怒鳴られるのは、「うるせえ」と言われるのは、それは取りも直さずオレがやっている音楽がロックである証拠なのだ。


オレはその港湾に面した市民公園を後にする。


オレの歌を聴いたヤツ全員が拍手して、誰ひとりディスるヤツがいなくなったら、その時こそオレはギターの表板トップを叩き割り、永遠にギターを擱くだろう。


いや、擱くべきなのだ。




























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薄汚れた弾き語りのジジイとして野垂れ死ぬ 刈田狼藉 @kattarouzeki

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