嘔吐

 原因不明の不機嫌に、さあどうなることかと思ったが、


「っっかぁぁぁ————————美味いっっ!! 世の中、こんな美味い酒があるものなのだなぁっ!!」


 いつも通りの蟒蛇うわばみが戻ってきた瞬間、そんな杞憂は遥か彼方へ吹っ飛んだ。


 【霹靂塔へきれきとう】の正午の鐘が鳴って間もない頃。手元の酒瓶に対するシンフォの高らかな絶賛が、南の大通りに響き渡る。


 その酒を特権で値切った【槍海覇王そうかいはおう】は、元に戻った我が師に対して安堵とともに呆れを抱いた。


「また酒かよ……」


「極東の島国で作られた醸造酒だ。厄除や神事の時に飲む酒らしいぞ。……結構高い酒だったが、君の勝ち得た名声のおかげで安く手に入った! 君には感謝感謝だ! さあ、君も飲みたまえ!」


「毎回言ってるだろ。ボク一杯だけで吐くから無理」


「悲しい体質だなぁ。こんな美味いものが飲めないだなんて。呪われているとしか思えないぞ」


 と言いつつ、シンフォは再び陶製の酒瓶から飲みだした。その飲み方は完全に水だった。


「……シンフォさんこそ、酒に呪われてるんじゃないか。最近、また飲む量増えてるから、ほどほどにしてくれよ」


「ぷはっ……分かっているさ分かっているさ。んぐんぐ……」


 言ってる側からまた飲み始めてるよ。


 何度か嚥下してから、シンフォは酒瓶から口を離し、大きく手を伸ばして伸びを作った。


「さーてっ、次はどこへ行こうか?」


「まだ歩くのか?」


「おうとも。今日は目一杯遊ぼうという約束だろう? 有言実行しようじゃないか。うふふっ」


「……なんか楽しそうだな。そんなに酒美味かったのか?」


「まぁ、それもある。だけど何より……君と一緒だからかな」


 そう告げてくるシンフォの微笑は、まるで湖面が風に揺れてきらめく様子を想起させる、眩しいものだった。嘘偽りや世辞など一切ない、真心を感じた。


 その笑みに見惚れていると自覚した瞬間、リンフーの心臓が大きく跳ねた。顔も一気に熱くなってきて、額に汗がうっすら浮かんだ。


「……そ、そうか」


 その顔を見られまいとそっぽを向いたが、少し遅かった。赤い顔を一瞬だがシンフォにしっかり見られていた。


 また「おやぁ? もしかして私に見惚れていたか? うふふ、可愛い奴め」って感じでからかわれる……そう思っていたが、リンフーの片手をそっと握ってきたシンフォの方を向くと、予想とは全く違う種類の笑みをその美しいかんばせにあらわしていた。


「——これからもずっと、こんな風に、いろんな所を二人で歩こう。いろんな景色を二人で見よう。私たちはずっと一緒だ」


 幸福にこそばゆく感じているような、優しげでありつつも照れ臭そうな笑顔だった。


 時間が止まったような錯覚。どくどくと高鳴る心音ばかりを実感する。


 胸が苦しい。けれど、心地よい。矛盾した感覚。


 リンフーもまた、滑らかな師の手を握り返していた。


「……あの、シンフォさん」


「なにかな?」


「ボクは、その…………ずっと、あなたの事が——」


 湧き上がった高揚感に突き動かされるまま、決定的な言葉を口にしようとした、その時だった。




「——おんやぁ? これはこれは。新たなる【槍海覇王】殿ではないか」




 幼くも威厳のある少女の声が、端から聞こえてきた。


 知っている声だ。


 リンフーは振り向く。


 鏡面のような銀眼に、肩の線まで伸びた銀髪。神々しい雰囲気漂うその幼女——范慧明ファン・フイミンは、その愛嬌のある猫じみた顔をニヨリと笑わせていた。


「あ……フイミンさん、こんにちは」


 リンフーは挨拶しつつ、今自分が思わず口にしかけていた言葉を止めてもらえたのを心中で感謝した。危なかった……衝動にまかせて何を言おうとしていたんだボクは……!


「うむ。今日は良い天気じゃのう。遅れるが、祝いの言葉を送らせてもらうぞ。……よくぞ勝ち残ったのう、新たなる【槍海覇王】よ。おぬしの更なる武の向上と活躍を期待しておるぞ」


「ありがとうございます」


 リンフーはそれだけ言って一礼した。


 淡々としているように見えるが、内心では嬉しかった。大陸最強と呼ばれる武法士の一人に真っ直ぐ称賛され、誇らしいと思った。


「して、今日は何をしておるのじゃ?」


「実は——」


 師匠と都で遊んで回っているんです、と言おうとして、やめた。


 リンフーがつないでいる師の手が微かに震え、冷たくなっていたからだ。


「シンフォさん……?」


 見ると、先ほどまでの明るい表情のシンフォはそこにはいなかった。


 顔を深くうつむいて前髪で目元を隠し、唯一見える唇を小刻みに震わせていた。


 唇だけではない。肩も手も脚も震えている。まるで真冬の中に薄着で放り出されたみたいな震え方である。


 明らかに様子がおかしい。何があったのか問おうとしたその時。


「……んぅ? そこの女子おなご、おぬし……」


 フイミンが鏡の瞳をぱちぱちさせ、シンフォをジッと見ていた。


 それに気づいたシンフォは「ひゅっ」と、もがり笛のように喉を鳴らした。


 その反応が、様子のおかしい原因はフイミンにあるのだと示していた。


 顔を見られまいとばかりに体の向きを変えるシンフォ。しかし銀色の幼女は素早く回り込み、シンフォと視線を合わせた。


「おぬし、どこかで見た記憶が…………おぉっ! 思い出したぞ! おぬし——麗洌リーリエじゃなっ!?」


 ——ばりぃん!


 シンフォの手元にある酒瓶が落下し、中身の酒が石敷きにぶちまけられる。


 酒を落としたというのに、シンフォはそのことを一切気に留めず、先ほど以上の震えをきたしながら我が身をかき抱いていた。


「いやぁ、こんなところで会えるとは! 人間の運命とは、どこでどう転ぶか分からぬものじゃなぁ! 何年振り……いや、何十年ぶりだったかのう? 確か、えーっと……五十年かのう? それとも三十年? ああもう、うまく思い出せぬ!」


 そんなシンフォとは対照的に、嬉々としてペラペラ語るフイミン。二人はあべこべで気持ちが悪かった。


 そんなことよりも。


(今——『麗洌リーリエ』って言ったよな)


 それは、かつてフイミンが戦い、引き分けたという、謎の凄腕武法士の名前。その名前で、シンフォのことを呼んでいる。


 どういうことだ? シンフォさんは、シンフォさんじゃなかったのか? 偽名? どちらが? シンフォ? リーリエ?


 考えるほど、リンフーの頭で疑問が増殖する。


「なるほど、おぬしがこの小僧の師であったわけか! どうりで技が似ておったわけじゃなぁ! いやー、おぬしのあの時の技はすごかったのう! かすっただけで岩が粉になったからのう。だが、今の小僧にあの時おぬしから感じた迫力をほとんど感じられないのはなぜじゃろうのう? まだおぬしの境地には程遠いということか? それとも——」


 シンフォが聴いていられたのは、そこまでだった。


 逃げ出した。まるで凶悪な怪物に遭遇し、恐怖したかのように。


 人混みに紛れる。


「あっ、シンフォさん!? ……すみません、追いかけますから! さようならっ!」


 リンフーは手短に挨拶を済ませてから、追いかけた。人混みを必死に縫うシンフォの姿を見失わないよう気を配りながら。


 しばらくして、シンフォは細い脇道へと入った。リンフーもそれに続いた。


 脇道に入ったことで人混みから離脱し、はるかに進みやすくなった。


 さっさと追いつこうと考えた瞬間、不意にシンフォはその場でうずくまり、


「っく…………げほっ!! ごほごぼっ……んぅぉおえぇぇぇぇぇぇぇぇっ…………!!」


 べちゃべちゃと、今朝の朝飯が混じった胃液を吐き出した。


 その光景に、リンフーは駆け寄ることを忘れ、節句して立ち尽くしていた。


「んぅぅえぇぇぇぇっ……ごぼっ!! ごぼおぉぉぉぉぇぇぇぇぇぇぇっ……!! がはっ、ごほっ、ぐふっ、かふっ……かはっ、かはっ、うぉぇぇぇぇぇぇぇぇ」


 さらなる汚物をひねり出す師の姿。


 リンフーはようやく我に返って駆け寄り、しゃがみ込んでその両肩を掴んで呼びかけた。


「シンフォさんっ!! 大丈夫かっ!? ボクだよ、分かるか? リンフーだよっ!!」


 すると、嘔吐が止み、げほげほと激しく咳き込み始めた。


 しばらくするとその咳も落ち着いていき、ひゅー、ひゅー、ともがり笛のようなか細い呼吸を繰り返し続けた。


 そんな師の口元を袖で拭い、胸の中に抱き寄せた。


「大丈夫だからっ。ボクが、側にいるからっ」


 そんなリンフーに対してしっかりとしがみつくシンフォは。


 まるで、迷子になった子供のようだった。

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