手枷を嵌められた戦士
【槍海大擂台】は一つの祭りのようなものだ。毎日往来の密度が濃い大通りも、この日ばかりは三々五々の様子を見せていた。いつもは大通りで構えている屋台店も、【槍海大擂台】の観客に売り込むべく今日は中央広場に集中していた。
往来がまばらな南西の大通りを、リンフーは単独で歩いていた。
人が少ない分、一人一人の姿形が分かりやすい。なのでリンフーの姿も周りからよく目立つ。
「あ、
知らないおっちゃんからいい笑顔で激励を投げられた。試合を見ていたのだろう。リンフーは何も言わず、ぎこちない笑顔を交えて手を振った。
太陽が夕方の茜色を見せ始めた時間帯。準決勝に勝利したリンフーは、これから始まる決勝戦に備えて気晴らしをすべく【
最初はどういう反応を返せばいいか分からなかったリンフーだが、今では作り笑顔を浮かべて手を振るくらいはできるようになっていた。
だが、こう何度も声をかけられていては気晴らしにならないので、脇道から人気の少ない裏通りへ入り、建物の壁際に置かれた古い木箱に腰掛けた。
決勝戦が始まるまで、あと一時間ほどある。試合開始一刻前になると【
屋台で買った
「ふぅー……自分でも信じられないぞ」
リンフーはしみじみと呟きをこぼした。
正直、二回戦までが関の山かと自分でも思っていたので、決勝まで勝ち上がってしまった事実には驚きを禁じ得ない。
自分は強いのだ……と思いそうになって自省した。それが慢心の始まりであるからだ。
シンフォは基本的に駄目人間だが、そんな彼女でも「これだけは守らなければダメだ」と厳しく戒めていた心得がいくつかあった。
その一つが「慢心するなかれ」であった。
「慢心」は毒にしかならない感情だ。自分に満足することでそれ以上の成長が望めなくなる。それだけではない、思い上がりを生み出し、他人を遠ざけてしまったり傷つけたりしてしまう。ロクな結果を生み出さない。……シンフォはそんな「慢心」の毒性を、逐一リンフーへ言って聞かせていた。
その時のシンフォの口調は、弟子を諭すというよりも、自分の悔恨を自分で非難しているような響きを持っていた。であるとするならば、彼女の「罪深い過去」は、「慢心」によって引き起こされたものなのかもしれない。
「【
己の拳を見つめながら、ひとりごちた。
今更言うまでもない。この武法は強力だ。
この強力な武法で、シンフォは昔、何をやったのだろうか。
知りたい、という気持ちはある。
だが、シンフォが言いたくなるまで、詮索も追及もしない。それが自分にできる唯一の気遣いだった。
気持ちが落ちてきたのを自覚し、それを誤魔化すように残りの
そのままのんびり過ごそうと思った、その時だった。
座っている木箱から右、裏通りの奥から、人の足音がいくつも聞こえてきた。
向くと、奇妙な男達が、大通りに比べてずいぶんと狭い裏通りの道を塞ぎながら近づいてきていた。全員、少数民族の舞踊で用いるような派手な仮面で顔を覆っている。大柄な者が多く、彼らの肌には切り傷などがうっすらと見える。
穏やかさなど微塵も感じられないその集団は、仮面を通してリンフーを射るように見ていた。それが分かった。
座っていた木箱から降りる。左へ走って大通りへ逃げようとして、やめた。……左側からも、仮面で素顔を隠した屈強そうな男達が道を塞ぎながら歩いてきていたからだ。
陽が射さず、沈殿したような薄闇に包まれたその通りは一本道。
もはや断言せざるを得ない。この仮面男どもは、自分を狙っている。
「何か用かよ? 握手が欲しい……ってわけじゃないよな」
仮面集団は答えない。代わりに、左右から一人ずつ地を蹴って先行してきた。
あっという間にその二人の間合いの中に収まったリンフーは、容赦の無い拳脚の標的となった。
「おっと!」
それらを【
とはいえ、
「だっ!?」
あくまで「回避」である以上、逃げ場がないくらいに攻撃が密集すれば一発くらいは当たる。最初の二人の攻撃を避けているうちに、残った仮面男たちもリンフーに群がってきて、攻撃に参加しだしたのだ。そのうちの一発を避けきれずに受けてしまった。
打たれた勢いに押し流されるリンフー。自由に動けないその状態を見逃すはずもなく、仮面男の一人が飛び出し、掌で追い討ちをかけてきた。
一見何の変哲もないその掌は、前へ伸ばされる過程で——若葉のような
リンフーはそれを見た瞬間、回避に全力を注ごうと決意。
打たれた勢いを両足で強引にねじ伏せ、【游雲踪】。その萌黄色の掌が当たる寸前に、その相手の横合いへ瞬時に移動した。
萌黄色の掌打が霞のごとき残像を打ち抜く。腕が伸びきり、その残像の向こう側にいる味方の左肩に軽く接触。
「ぐああああああああっ!?」
瞬間、触れられたその味方は、その左肩を押さえながら絶叫した。
軽く当たっただけで、苦しみだしたのだ。
絶叫にびっくりして立ち止まった仲間達の視線を一身に受けながら、叫んだ仮面男は萌黄色の掌を放った仲間へ胴間声で怒鳴った。
「てめぇ! 【
「じゃかぁしい! てめぇがそんなトコに突っ立ってるから悪りぃんだ! てめぇの身くらいてめぇで守りやがれ! この
「んだとぉ!?」
仲間割れを始めた二人の話を聞き、リンフーは緊張を強めた。
(やっぱり【麻手】っ……【
どうしてそんなものを自分に向かって打ってくるのか。
この連中の狙いは分からない。しかし、これだけは分かる。
もしあの【麻手】をどこかしらに喰らえば、決勝戦は間違いなく負ける。足に喰らえば動けなくなり、試合そのものができなくなる。足に食らうことを避けられたとしても、それでもチウシンと戦う上では大きな
全員ぶっとばしてやることはできなくもない。しかし、それは得策ではない。【麻手】を使える奴が、あと何人いるか分からないのだ。
であれば。
「どけぇっ!!」
リンフーは自分を取り囲む集団の一箇所へ【
道が出来た! リンフーは全速力でその「穴」を駆け抜け、集団の包囲を突破した。
「あ、逃げやがったぞ!」
「追いかけろ! 逃すなっ!」
「絶対に【麻手】を当てろ!」
「まずは取り押さえるんだ!」
仮面集団もまた、必死にリンフーへ追いすがってくる。
必死に走行を続けるが、差がほとんど開かない。
時折投擲される短剣を回避しながら、リンフーは無秩序に裏通りを逃げ回った。
「うわっ!?」
だが、もういくつめかになる曲がり角を曲がろうとするよりも早く、仮面男がその角から飛び出してきた。——回り込まれたッ!
もとの木阿弥。またしても一本道で前後を塞がれた。
「何が狙いだ!? なんでボクを狙うっ!?」
そう問いかけるが、やはり答えない。答えの代わりに、襲いかかるという行為を実行してきた。
無数の拳脚が走る。リンフーは【游雲踪】で必死にそれらから身を逃す。攻撃を受けてはいないが、この集団から脱出できそうな隙もなかなか見つからない。数という暴力が理不尽にリンフーを襲い続ける。
「このっ……いい加減に、しろぉっ!」
リンフーはとうとう我慢しかね、全身の急激な捻りを加えた正拳を突き出した。捻りの
使ってから思い出す。そうだった。この【纏渦】は、こういう囲まれている状況でこそ効果を発揮するのだ。これを使い続ければ、【麻手】を触れる前に跳ね返せる。
勝機を見出したリンフーだが、それに水を差すように、左腕に細い縄が巻きつく感触がした。
「え……うわ!?」
その縄がギュッと締め上がると同時に、リンフーの小柄な体が左側へと勢いよく引っ張られた。
左腕に巻き付いた縄は、先端に小さな瓜型の
瞬く間に、リンフーはその仮面男の間合いまで引き寄せられた。麻痺をもたらす術力を秘めたその右掌は、リンフーの左腕に直撃した。
「ぐあぁぁぁぁっ! ——っ、この野郎っ!!」
左腕の内側を駆け抜ける稲妻じみた衝撃に苦悶するが、それに囚われていてはまた他の部位に【麻手】を喰らいかねない。なので歯を喰いしばって堪え、【
「っく……!」
リンフーは左腕を強く押さえる。痛くはない。けれど指一本動かせず、体の動きに合わせてブラブラ揺れるだけ。まるで魂との疎通がなくなったかのようだ。今まで苦楽を共にしてきた左腕が急に異物みたいに思えてきて、ものすごく気持ち悪い。
「ちくしょうっ……!」
なんということだ。これでは試合で十全の力を出せない。
絶望的な気分になりかけるが、強引に自分を叱咤した。見方を変えれば、利き腕ではない左腕が動かなくなった程度で済んでいる。けれどこのままぼんやりしていたら、今度は足にも【麻手】を打たれる可能性が高い。もしそうなったら決勝戦は棄権一択だ。
リンフーの見立て通り、敵はまだ攻撃を休める気はなかったようだ。四方八方から押し潰すように迫ってくる敵の群れを【游雲踪】でかいくぐりつつ、集団の密度の薄い箇所を見つけ、そこを【硬貼】でごっそり削り取った。出来上がった集団の穴をすかさず疾駆、脱出しようとした。
「待てやぁ!」
しかし集団から抜けきる寸前、疾走する勢いで旗のように宙をはためいていた左腕を敵に掴まれ、止められた。引き剥がそうにも左腕は今は動かない。
「邪魔っ、すんなぁっ!」
なのでリンフーは、あえて引っ張られる勢いに乗った。そのまま【硬貼】へと転じ、その仮面男と近くの仲間三人を弾き飛ばす。左腕が解放され……たと思った瞬間にまた捕まえられた。もう一度【硬貼】の術力を練ろうとするが、その敵の片手が萌黄色に変色しているのを見て中断する。
まずい。引っ張り込まれて【麻手】を打たれる……!
万事休すかと思われた、その時だった。
「——うおおおおおおッッ!!」
上空から、雄叫びが轟いた。
かと思えば、真上から残像を残して一直線に落下してくる「人影」が一つ。
落下。
爆砕。
『うわぁぁぁぁぁぁぁ!?』
流星のごときその一撃は誰にもあたらなかったが、直撃した箇所の石畳を爆散させ、余波だけでリンフーと仮面男を八方へ吹っ飛ばした。
もうもうとけぶる土埃の帳が薄まり、落下位置に立つ謎の攻撃者の姿があらわになった。
「ユァンフイ……さん」
リンフーは、その攻撃者の名を呟いた。
ユァンフイはその厳つい眼差しをリンフーへ向けると、歩み寄って尋ねてきた。
「……大丈夫か?」
「は、はい。左腕が動かないけど、それ以外はなんともないです」
「……そうか」
言うと、ユァンフイは何かを反省するように瞑目する。
仮面たちはざわめき立った。「ユァンフイって……
それらのざわめきを耳にするや、ユァンフイは閉じていた目を開いて仮面集団を向き、静かな強さを秘めた語気で命じた。
「……早急に【麻手】の治療ができる人間を呼んでこい。【毒手功】は、その毒の術力を相殺する解毒技と一緒になって伝わっているはずだ」
先に無秩序な力に訴えかけたのはこの仮面たちだ。であれば、それを無秩序な力で迎え撃つ権利がリンフー達にはある。ユァンフイという高位の武法士が味方についた以上、力の優位はリンフー側へと傾いた。それゆえの命令口調。
仮面男の一人がふるふると勢いよくかぶりを振りながら、
「い、いねぇ! いねぇんだよ! 俺らの結社は【毒手功】は持ってるが、解毒の技はねぇんだよぉ!」
「……嘘じゃあるまいな」
「本当だって! 元々一緒に伝わってた【毒手功】とその解毒法が二つにバラけたって話はあんたもご存知だろう!? うちもその例に漏れず【毒手功】しか伝わってないんだよぉ!」
毒と解毒は本来不可分だ。【毒手功】もその例に漏れず、最初は毒手とその術力を相殺して解毒する技が一緒になって伝承されていたが、長い年月の中で【毒手功】の「毒」という攻撃性にのみ執着して「解毒」を軽視する者が後を立たず、解毒法を知る者が減ってしまったのだ——男の喚きを聞きながら、ユァンフイはそう冷静に思い出す。
この男の言うことは全面的には信じられない。一瞬、強引に根城に案内させて正否をはっきりさせようかと思ったが、案内する時間がそのまま時間稼ぎに利用される可能性も高い。こいつらの目的は【麻手】を打つことではなく、チウシンの不戦勝だ。リンフーが決勝戦に間に合わなければ、手段は【麻手】でなくとも良い。
決勝戦が始まるまで、もうそれほど余裕はあるまい。
仮面男の一人が、緊張を帯びた笑声を仮面の下から漏らす。
「へ、へへへっ……何キレてんだよ? これはあんたにとって喜ばしい話のはずだぜ、【無影脚】さんよぉ」
「……何だと?」
「だってそうだろうよ? もしこのまま俺らの目論見通りにいけば、あんたの可愛い娘は優勝、【槍海覇王】になれる。そうすりゃ武法の世界じゃ名誉のはずだぜ? 可愛い娘の名誉を喜ばない親なんざいねぇだろ? つまり、やってることは違っても、俺らの利害は一致——」
ユァンフイが【無影脚】という二つ名に違わぬ蹴りを放った。初めから振り抜きまでの過程が一切見えぬほどの蹴り薙ぎ。重厚な術力が空気を押し出し、その爆発的風圧によって仮面男たちが殴られ、否応なしに後退させられた。
「……勝手に同じ穴の
静かな殺気を秘めた声音と眼光に当てられ、仮面男たちは揃って心胆を冷やした。味方であるはずのリンフーもまた、体の芯から震え上がるのを実感した。
「ち、ちくしょうっ!」「もうやってられっか!」「地獄に落ちろ!」などといった捨て台詞を発して消えていく仮面男たちをぼんやりと見つめていると、ユァンフイがリンフーへと向き、
「……すまなかった」
「えっ?」
「……もう少し到着が速ければ、どこも【麻手】を受けることなく解決して、何事もなく決勝戦をむかえられただろう。本当にすまない」
「い、いや! それは仕方がないですよ! むしろ、ボクがもう少ししっかりしてれば、あいつらの攻撃なんか全部避けられたはずなんですから!」
リンフーは恐縮するが、それでもユァンフイの重苦しい面持ちは崩れない。
決勝戦はもう間も無く始まる。【麻手】を治す技の使い手が今この場にいない以上、この左腕の麻痺を速攻で癒せる方法はない。シンフォに頼めば薬を用意してくれるだろうが、そのためにはどうしても一旦家へ戻る必要が出る。そんな時間的余裕はもう残っていないだろう。——「その通りだ」と答えるかのごとく、甲高くも重厚な鐘の音が聞こえてきた。【霹靂塔】が決勝一刻前であることを告げてきたのだ。
足の麻痺は防げたが、体の一部でも麻痺してしまうと、技を使う上で支障が生まれてしまう。術力が弱まったり、技によっては全く術力を練れなくなる。……リンフーも左腕を麻痺したことで、いくつか使えない技があった。
はっきり言って、今の状態でチウシンに挑むことは、両腕を縄で縛られたまま戦うに等しい。
ユァンフイが責任を感じるのも無理はない。
けど、
「【
「……そうか」
ユァンフイのかんばせに浮かんだ苦渋が、少しばかり薄まった。
「……なら、全力であの子と闘ってやってほしい。勝ってもいい、負けてもいい、あの子の心に残る試合をしてほしい。今の君になら、それが出来るはずだ」
無論、とリンフーは力強く頷いた。
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