第25話 うわさ


 うわさ。

 ひとりで勝手に広まり、いわれのない内容で、人気者の行動についてくる尾ひれみたいなものだと思っていた。

 まさか、自分のことが学内でうわさになるとは思わなかった。


 久遠とデートしたのが、日曜日。

 月曜日の朝には、ほとんどのクラスメイトが知っている事態になっていた。

 昼休みには、ここあや、ショータの耳にも入っていた。となりのクラスだけじゃなく、学年中に広まってしまったらしい。

 放課後の図書室で、雑談がてら久遠に『うわさ』のことを聞いてみる。


「放っておきなさい。二日もすれば収まって、一週間もすればみんな忘れるわ。人間の脳みそって小さいもの」


 白いシャープペンシルを持った久遠が、目線も寄こさずに口にしていた。図書室にいるため、静かな声だった。


「そ、そんなもんなの?」


 小さな声を出すのが苦手なので、両手を口の周りにメガホンのようにくっつけて、ささやいた。


「そんなものよ。うわさは、うわさ。勝手に言わせておきなさい。そのうち、記憶の片隅に残ってるぐらいで、見えなくなるわ。中学生のころ、腹が立って片っ端から火消ししたのだけど、火は大きくなる一方だったの。人の口には戸は立てられない。うわさが、うそでない限りは、放っておきましょう。それとも『俺は、久遠とデートなんてしてない』って言う?」


「言わないな」


「今回の場合、事実でしょう? 当事者として面白くはないけど、否定する言葉もないもの。デートぐらいで、こんなにうわさが立っちゃうのよ。付き合っちゃったら、どうなるのかしら?」


 いじわるな笑みで、わざとらしく上ずった声で言われる。ニヤけそうな口を押さえて、うめき声が出た。


「っぐ」


 想像通りだったらしい。満足げに頷いた久遠は、シャープペンシルで俺の手元を差してくる。


「ほら、手が止まってる。家に帰る前に、予習を終わらせるんでしょう」


「がんばる」


 使い古したシャープペンシルを持ち直すと、古文の単語帳と古文助動詞活用表を見ながら、四苦八苦と単語を拾う。古文を読むのは、英語以上に苦手だった。すごく、わかりにくい。


「あなた、さては古文をしっかり読んだことないわね」


「っげ、なんで。というか、いいのか?」


 さりげなく、となりに座ってくる久遠に聞いた。


「ええ。数学も古文も終わったもの。それに、もう少し時間があるし」


 長い黒髪を耳にかけながら、教科書に指を伸ばす。


「古文って、単語がわかっても大筋が読めないの。英語とはちがってね。だから、とにかく単語・文法を覚えさせようっていう、古文の先生の教え方は苦手。教えるほうの怠慢だわ。古文に必要なのは、人物関係を押さえること。会話文に主語がついてないのよ。だから、つかみにくい」


 すらすらと、教師よりも、はっきりと教えてくれる。


「話の大筋を理解するための暗記を、覚えるための勉強にしてしまうのは、もったいないわ。目的を理解させないもの。一度でも、自分で源氏物語を読んでみようって思ったら、必死に勉強するのにね」


 俺のノートと教科書を見ながら、そう言われた。


「うん。わかった。まず、人物関係の押さえかたは、敬語よ。古文は書かれている情報よりも、前提情報や人物を踏まえて、言葉を補ってあげる力のほうが必要だと思うの。ほら、想像してみて。わたしとあなただと、仲良しだから、ふつうに話すわ。でも、わたしと、あなたのお姉さんだと、わたしは敬語を話すのよ。これが、ポイント。古文に出てくる人物もそう。身分による言葉の使い方で、主語がわかるの」


 久遠は、自分で言ったことを、教科書を使って実際にやってみてくれる。考えも、すべて口に出して、どういう風に古文を読むのか、そのお手本を見せてくれている。

 ならって、やってみた。


「そうそう、すごいわ。わかってるじゃない。ここは、すこし難しくてね」


 音を出さずに手を叩きながら、楽しそうに教えてくれる。

 わかった。古文を読むって感覚がわかった。


 ほんの少しの、きっかけ。

 数分前まで、むずかしくて、苦手だと思っていた科目も、きっかけさえ得られれば、理解できる気がした。


「時間ね」


 久遠は手首の腕時計を見つめている。

 眉を下げながら、嫌そうな顔をした。


「また、お呼び出しをされているのよ」


 また、告白を受けに行くらしい。

 荷物をスクールバッグに片づけ、立ち上がる久遠は、なんとも言えない表情をしていた。


「断ってもいいんだけれど……」


 そう、口にしていた。


――ドクン


 胸が嫌な高鳴りをした。冷たい水が、胸に流れ込んだように、冷えきった。


『断ってもいいんだ


 反響した音のように、何度もなんども、頭の中で響いている。

 図書室を出ていく久遠の背中を、見送りたくなかった。


――待って。行かないでくれ


 醜い感情が、俺を突き動かしそうになる。


『けれど』


 逆説の意味を持つ言葉が、俺の不安を掻き立て続ける。


『彼からの告白を、断ってもいいんだけれど……受けてもいいかなって』


 そう訳してしまった俺の頭。切り替えることなんて、できなかった。

 楽しかった古文の文章。いまは、文字の上を目がすべるだけで、言葉として入ってこない。


 俺を突き動かしていた大事ななにかが、パキッと音を立て、折れてしまった。

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