パイプを吸う女

煙 亜月

パイプを吸う女

 パイプ。

 配管のそれではない。煙草を吸うためのものだ。煙管、シガレットホルダー、いろいろあるが、いまわたしが手にしているのは、かれが残していった――シャーロック・ホームズが咥えるようなパイプだ。

わたしの知っている煙草はパーラメントくらいのものだし、こんな、ニコチンもタールも強そうな代物には縁がない。

 見つめてしまった。いまさらなにを迷っているのだろう。

パーラメントとか、マールボロといった紙巻ならよかったのだろう。だが、パイプとなれば多少は値の張るものもあるし、使い捨てでもない。置き土産にしては、なかなかに重い。そうわたしの目には映った。パーラメントなんて、コンビニでいくらでも買えるもの。

 一体いくらぐらいするものなのか見当もつかないし、この際お金は関係もないのだが、捨てるのは少し気後れした。


 パイプ本体の刻印を打ち込んで検索した。ピーターソン社のシステムスタンダード314、というらしい。アイルランド製とのことだ。「高いんだ」パソコン用眼鏡の奥、疲れた目を細める。とくにこれといった情報はない。捨てるかどうか、決心をうながすたぐいの情報は。


 背もたれに体をあずけ、伸びをする。ぎい、と椅子が鳴る。手元のコーヒーは冷めきっており、温めなおしたり、新しく淹れたりといった気さえ起こさせない。休日のわたしなんて、なにもすることがないのだ、一切。

 カップの中味をシンクに空ける。コーヒーが一、二滴ほど飛び散ってグレーのスウェットに染みを作る。わたしは舌打ちをする。


 ふう。

 ため息は日常から来るものであって、できごとではない。だから、金欠や孤独などと同じく、悲しむ必要もないのだ。ただ、そうあるだけ。

 デスクに向き直る。


 パイプ用の煙草の葉が四〇グラムとか四十五グラムとかで売られている。ネットでも買えるのか。それらの価格設定が順当なものなのか、わたしは判断できない。かれが置いたままにした煙草のパウチに書かれた文字列を検索してみる。

「高いな」


 趣味を同じくするカップルは続きにくい、となにかで読んだ。その趣味の道具なりなんなりの値段がすぐにわかってしまうため、高いものをこっそり買っても、あとで無駄遣いがばれるからだ。


 いいもん吸ってたんだなあ。

 ひゅう、と歯の間から息を漏らす。

 少し悩んだ末、パウチをあけてにおいを嗅ぐ。


 ――腰を抜かすかと思った。なんだ、この、薪木というか吸殻というか、灰皿のかたまりのようなにおいは。パウチの説明文は英語だが、わたしが感じた「灰皿の味」との表記はなかった。

 その場で胡坐をかいてうなだれる。しばらくしてからもう少し明るい色のパウチに手を伸ばした。フルーティー、とかリッチアロマ、などと書かれ、バニラの花のイラストがある。これなら灰皿の味はしないだろうか。案の定、パウチの中の葉は甘ったるい香りで、鼻腔をくすぐるどころか濃密なヴェールで粘膜にまとわりつく感覚があった。これなら、大丈夫そうだ。


 でも、なにが大丈夫なのだろう。

 かれの置き土産を引き継ぐこと。

 このピーターソンのパイプを、所有権もろともわたしへ帰属させせること。


 わからない。

 どれもしっくりこない。

 ――はじめから持って出てってくれたらよかったのに。はじめから存在しなかったらよかったのに。

 わたしもかれも、知り合わなかったらこんな別れも経験せずに済んだ。すべてがゼロだったら、この世に悲しみなんて介在しなかった。なのに、神様ときたら。


 パイプや葉のパウチをしげしげと眺め、先ほどのバニラの香りのする葉を火皿に詰めてみる。いいのだ、わたしだって喫煙者なのだから。なにがどういいのか自分でもわからないが、ベランダへ出る。低い丸椅子に掛け、火を着ける。――なかなか着かない。今度は息を吸いながら、まんべんなく燃えるように着けてみる。

 ――からいな。

 長らく喫煙者をやっているので、むせかえることはない。が、味は格別にからく、同じバニラの香りのショートピースよりもずっと荒々しい。


 慣れだよ、慣れ。

 そうかれはいっていた。続けて、煙草も、お酒も、人間関係も、ぜんぶ慣れてしまえばいいんだ、と。

 でも、慣れたくはないな。わたしは慣れたくはない。かれの置き土産を段ボール箱に詰め、丸ごと処分しようとした。もうわたしには、かれはいないのだから。でも、できなかった。なにも、処分する必要がないじゃない、呪われてるわけでもないしさ、そういい聞かせて半年がたった。


 まだ煙が出ている。かれが吸ってくる、といってベランダへ出ると、三〇分は戻らないのだ。パイプは長く燃えるということは知っていた。

 でもこれじゃあ、リストカットだ。手首の橈骨動脈――拇指側の動脈を完全に切断し、さらに水に浸しても失神まで四〇分以上あるという。叫ぶのを我慢できない猛烈な痛み、じりじりと迫る本能的な――心の底からの恐怖。

 いまのわたしはそれに近いのかもしれない。慣れろだなんて、慣れろだなんて、こんな苦痛に、発狂しそうな苦痛に、


 気づくと真っ二つに折れたパイプを握りしめて荒い息をついていた。

「ああ、あああああ!」

 叫びながら、泣きながら、本当に本当に、自分の深い悲しさを思い知った。半年のあいだ、わたしの生活は日常ではなかったのだ。肺に溜まった水に溺れながらもがき苦しむ生活だった。

 そのまま両手のパイプを振りかざす。万歳の姿勢のままぐにゃりと手を下ろす。駐車場に放り投げるのは諦めた。

「や、やばい! やばい!」

 パイプをどうにかくっつけようと、がたがたと震える手で折れた箇所を検める。アロンアルファなら冷蔵庫にある。火種から煙が出ているのも気にせず、ベランダから部屋に入る。半ばパニック状態でアロンアルファを探す。――あった。

「うう、ううう」できない。どうしても接着できない。塗って、二、三秒してもまだくっつかない。接着面が少なすぎるのか。

 わたしは冷蔵庫を開けたままうなだれ、火を消すために流しの水を出した。火種の消える音は水道の音でかき消された。わたしとかれには、過去ならいくらでもあるが、一切の未来はないのだ、と断罪するように水が流れた。

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