第39話 (空くん、理由を教えて?)

 寂しそうに、消えそうな声で、だけど顔はほのかに笑いながら、井上さんは呟いた。



「雪菜があたしを作った理由は、完全な別人になりたかったからなんだ。星川と会う前から、あいつはもうとっくに壊れてた」


「まず、家庭環境。失敗をしては何度も何度も両親に叩かれて。背中に大きな痣ができた。何もかも投げ出したかった。心の中ではそう思っていても、雪菜はそのやり方を知らなかった。だからどんなにぶたれても、笑顔でいた」


「次に、友達関係。あたしがいないときから空気を読むのが下手だった雪菜は、いつも同世代の女子から嫌悪されていた。大声で悪口を言われていたっけ。靴を隠されたりもした。それでも笑顔でいればなにか変わると思って、自分を貫いた」


「――最後の出来事が決定的だった。小学校卒業前のとき、雪菜は…………自殺の現場をこの目で見たんだ。本当に偶然だった。ビルの屋上から、人が舞い降りてきたんだ」


「目で見て、耳で聞いて、感じて、雪菜は思った。いいなあって。きれいだなあって。死にたいなあって。動かなくなった死体を見て、ああなりたいって、そんなことを思った」


「けど、そんなときにあたしが現れた。死のうと思った直前で。あたしはなんて言ったっけ? たしか『あんなグロい姿になりたいとか、頭おかしい』……うん。確かにそういった。死を望む雪菜に、死を罵倒する言葉をいくつか」


「きっとそれは、雪菜が死にたいと思った先で動き出した、小さな【理性】だったんだ。あたしは何度も何度も、死ぬな。死んじゃだめだと、永遠と言った。今考えれば、そんなの本当に死にたいと思ってる人に言えば、逆効果だったのに」


「なのに、雪菜は生きた。なぜ生きているのかずっと考えていた。それでさ、あいつが消えてから気が付いたんだ。いいや、思い出したんだ」


「雪菜は、あたしになるために、自ら傷つきに行って、死のうとした。心を殺してくれる誰かを探してた。わずかな理性を、本物の理性にしたかった。あたしという、死ぬことが嫌な、普通の人間に、雪菜はなりたかったんだ」



 井上さんは言葉を詰まらせながらゆっくりと言葉にした。

 俺は、しばらく黙り込んでしまう。

 雪菜さんが立夏さんを作った理由は、死ぬため。生まれ変わるため。

 俺の境遇とは比べ物にならないほどの、想像もできないほどの世界を生きていた。そして、その世界から消えるために立夏さんを作った。

 整理しようとしてもしきれない話だ。

 助かるために、生きるためにイマフレを作った俺にとって、それは共感しえない感情。

 数日前にした、星川さんとの会話を思い出す。

 俺は消えてしまったユズのために、ユズに体を渡したいと言っていた。雪菜さんみたいに。だけど雪菜さんは、イマフレのためじゃなくて、自分のために、自分が幸せになるために、立夏さんに体を渡した。どうしようもない死への興味から逃れるため。

 それは紛れもなく、彼女の中に生きたいとという意思があったからだ。


『――彼女の選択が、そのまま彼女の不幸にはならないだろ』

『――自分の身体は、自分が幸せになるために使うものよ。決して他人に渡していいものじゃない』


 俺の言葉も、星川さんの言葉も、間違っていなかったんだ。

 だけどどちらの言葉も、意味が違っていた。


 彼女の選択が立夏さんのためだと思った俺は、ついあんなことを口走ってしまった。友達のためなら自分を犠牲にしてもいい。それで友達が幸せになるならそれでいい。そんな風に思っていた。


 自分、というものが雪菜さんという人格だけのものだと思った星川さんは、そう言った。雪菜さんは苦しさから逃げるためだけに、立夏さんという友達に自分のすべてを渡したと思っていた。雪菜さんは生きることから逃げたのだと、そう思っていた。


 だけど俺たちが思っていたものとは、全く違った。


 雪菜さんは、前に進むために、人生を終わらせないために、幸せになるために、新しい自分を作った。

 立夏さんの中には、雪菜さんがいるんだ。だから立夏さんは、ここにいるんだ。


「IFは、いつだって本人中心なんだよ。本人が望んでいることしか起こらない。少なくとも雪菜とあたしはそうだった」


 ――だから、あんたのIFが生まれた理由が、そのままあんたの望みじゃないの?


 ハナの、ウミ姉の、ダイチの、ユズの、生まれた理由……。

 ハナは、俺のことを救うため。狭い部屋の中で話し相手なってくれた。俺の代わりに助けを求めてくれた。ハナのおかげで、両親から逃げ出すことができた。

 ウミ姉は、森子さんや学校のクラスメイトにイマフレのことを隠すため、声に出さなくても話せる相手になってくれた。ウミ姉のおかげで、俺の日常は少しだけ騒がしくなった。ウミ姉の伝言で、ハナとも声に出さなくても話せるようになった。

 ダイチは、男子友達がいない俺のところに現れて、一緒に男子らしい遊びをやってくれた。よくハナと三人で遊ぶのが楽しくて、夢中で走り回ることもある。

 ユズは……。

 ユズは、どうして生まれたのだろうか。

(空くん、ちょっといいかな?)

 ウミ姉? なんだ?

(空くん、わたし、空くんに欠けているものがあるって言ったでしょ? それ、ユズちゃんが生まれた理由がわからないままだったからだった)

 そうか。ユズの生まれた理由。俺がユズを作った理由。

 それがわからないままだったから、引っかかっていたのか。

 俺は、もう一度井上さんの言葉を思い出してみる。


『あんたにとってユズさんは現実だったんだろ。現実そのものだった』


 そうだ。ユズは、俺にとっての現実の象徴のようなものだった。

 そんなユズが現れたってことは、つまり俺は――。


「あたしの話はこれで終わり」


 井上さんは、ため息をつきながら俺の目の前に立つ。そして、俺の胸に向かって、指さした。


「もっと自分を見なよ。えーと」


 そういえば名乗っていなかったことに気が付く。


「日向、空だ」


 俺はゆっくりと、耳に残るように大きめの声で言う。


「ヒムカイ……って言いづらいんだけど」

「そういわれてもだな、そういう名前なんだが」

「じゃ、空」

「いきなり名前呼び⁉」


 これがリア充JKなのか⁉ いや関係ないか⁉

(テンパりすぎだよ。陰キャの空くん)


「もう会うことはないと思うけど、その、がんばれよ」


 井上さんはぶっきらぼうに言うと、表情も見せないうちに向きを変えて早足でそそくさと公園の出口へ向かっていった。

 ふと、振り返って、息を吸う動作をしてから口を開く。


「あたしが話した雪菜のこと、ゼッタイに星川に言うなよ! あいつには一生背負ってもらうつもりだから」


 俺は「おう」と言って、手を振った。井上さんは振り返さなかったけれど、口が小さく動いていたのが見えた。



 ――なんて言ったのかはわからないけど、口の動きが「さよなら」ではなかったことは明白だった。

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