指輪の威力にひざまずけ

 10月16日(金) 曇時々晴


 わははは、愉快愉快。今日のチューハイは格別だね。もう1缶いっちゃおうかな。やっぱり左手薬指の指輪の破壊力はすごいわ。あんな男でもそれを目にした途端、奈落の底に突き落とされたような表情に変わるんだから。あ~、あの時の顔を思い出しただけで噴き出しそうになる。


 その指輪あり得ないって言われたから十月十六日は指輪記念日(超字余り)


 万智まちちゃんのサラダ記念日から30年以上もたったのか。あたしが生まれる前の歌集なんだよね。あっ、また教養がにじみ出ちゃった。


「遅い!」


 始まりは最悪だった。こちらは気を利かせて待ち合わせ場所の駅前広場に5分前に来てやったのに、あいつは約束の時刻になっても来ないんだ。このまま帰ってやろうかと思ったところでやっと来た。


「待った~」


 待った~、じゃねえよ。約束の時刻に遅れておいて詫びのひとつもないのか。どこまであたしをバカにしてるんだ。


「遅刻ですよ」


 やんわりとがめるとこんな答えが返ってきた。


「うん。わざと遅れたの。ケーキだっていきなり食べるより、少し待たされてから食べたほうが美味しいでしょう。それと同じ。会いたい彼氏にすぐ会えるより、少し焦らされてから会えた方が嬉しさも倍増するってわけ」


 アホか。それは相手が自分のことを好いている前提で成り立つんだよ。自分が嫌われているってわかってないのか。さんざん焦らされた後で嫌な相手に会わされた場合、倍増するのは嬉しさじゃなくて怒りなんだよ。ぷんぷん。


「ねえ、どうしてスカートじゃないの。がっかりだな」


 うるせえな。あたしがどんな格好をしようが自由だろう。それともおまえが好きなのは生足なのか。生足があれば顔や胸はなくてもいいのか。


「ボクの服はどうかな。これ、よそ行きの服なんだ」


 スタジャンにだぼだぼカーゴズボンって、中坊かよ。アラサー男がデートに着ていく服装じゃねえだろ。並んで歩くだけで恥ずかしいわ。ああ、こんな所で立ち話しているだけで気が滅入ってくる。


「とにかく行きましょう」


 そそくさと駅の改札口に向かって歩き出すと声が掛かった。


「あれ、どこへ行くの」

「どこって、改札です。店まで電車で行くのでしょう」

「行かないよ。電車賃がもったいないもん。この周辺だって店はたくさんあるんだからここで食べる。もう予約してあるし」


 本当なの? 確かに飲食店はあるけど会席料理や精進料理を提供してくれる店なんかあったかな。半信半疑で付いて行くとある店の前で止まった。


「ここ。和風の店」


 腰が抜けそうになった。しゃぶしゃぶ食べ放題のチェーン店じゃないの。いや別に食べ放題も悪くないよ。でもアラサー男女がデートで利用する和風の店って言ったら、フツーは料亭とか割烹とかだと思うでしょ。これじゃあファミレスと大差ないじゃない。


「気に入ってもらえたかな」

「……ええ、まあ」


 社交辞令で返事をしてしまう自分が情けない。予約してあったのはしゃぶしゃぶ食べ放題スタンダードコース。なるほど確かにコース料理だ。しかしここはせめてプレミアムコースにしてほしかった。


「ねえ、こうしてデートする仲になったんだからさあ、メールアドレス教えてよ」


 とことん厚かましいヤツだな。どうして一緒に食事したくらいでアドレス教えなきゃいけないんだ。


「お断りします。あなたとはまだそこまで親密な仲ではないので」

「じゃあ電話番号でもいいよ」

「それもお断りします」

「じゃあ住所」


 おい、いい加減にしろよ。個人情報の重要度が増しているじゃないか。おまえの価値基準はどうなっているんだ。


「全てお断りします。今回は食事だけという約束のはず。それ以外の要望に応えるつもりはありません」

「もうつれないなあ。じゃあボクのを教えてあげる。はいこれ」


 折り畳んだメモ用紙を渡された。チラッと見てみた。アドレスや住所だけでなく穿いているパンツの種類や色なんかが書かれている。手で丸めてポケットに突っ込んだ。アパートに帰ったら即行でシュレッダーだ。


「そうだ、食事の前にこれを返しておくよ。はい」


 ああ、ハンカチか。そう言えばコップを倒したときに慌てて渡したっけ。おや、包みがあるぞ。


「これは?」

「今日のお礼。開けてみて」


 開けてみる。ちっ、100円ガチャの景品じゃねえか。しかもおそ松ではなくイヤミの缶バッチ。おそ松が出るまで粘れよ。100円なんだぞ。それともこれは文字どおりあたしへの嫌みなのか。


「お心遣いありがとう」


 社交辞令で返事をしてしまう自分が情けない。それにしてもこのハンカチ、妙にゴワゴワしているな。洗濯ノリで固めたわけでもなさそうだし、なんとなくイカ臭いし……ま、まさか! こ、こいつ、あたしのハンカチでR18な行為にふけったりしてないだろうな。


「うえへへへ」


 気味の悪い笑顔を浮かべている。ヤベえ。これはやってるわ。こいつ絶対このハンカチでシコシコやってるぞ。


「ちょっと失礼」


 あたしは席を立つとトイレに入った。備え付けのゴミ箱にハンカチと缶バッチをぶち込む。さらば、おそ松のハンカチ。安らかに成仏してくれ。

 席に戻ると早々と食べ始めていた。少しくらい待ってくれてもいいんじゃないの。


「いっぱい食べてね」


 言われるまでもなく食うわ。ついでに酒も飲むか。飲まなきゃやってられん。


「チューハイ頼んでもいいかしら」

「えっ、お酒。困ったなあ。お酒は食べ放題に含まれていないんだよなあ。たくさん飲むの?」

「ええ、まあ」

「そっか。じゃあ飲み放題も追加しよう。お金足りるかな」


 財布を取り出して札を数え始めた。キャッシュレスの時代に取り残された現金信者め。いつまでも重い財布を持ち歩くがよい。


「それでね最初はフツーに就職したんだけど会社辞めて、毎日ぐうたらな日々が続いてね、母ちゃんは3カ月に一度手紙をくれて、あ、父ちゃんは死んじゃったんだけど、そんで投資で儲けるようになって」


 なんだか知らんが勝手にぐちゃぐちゃ喋り始めた。興味がないからちっとも頭に入って来ない。


「もうガポガポ儲けちゃって今では余裕でフツーの生活ができちゃうんだ。FXってすごいよね。社会人並みの収入を稼げるんだから」


 へえ、そんな才能があるんだ。意外だな。少し興味が湧いてきた。


「年間の利益はどれくらいあるのですか」

「12万円くらいかな。すごいでしょ。ひと月1万円」


 ひと月1万のどこが社会人並みの収入なんだよ。大阪万博の頃の初任給でももっと多かったはずだぞ。こいつ、いつの時代に生きているんだ。いや、待てよ。ひょっとしてFX以外の収入もあるのか。


「それでは生活も大変でしょう。他に副収入はないのですか」

「ある。母ちゃんからの仕送り。毎月口座に振り込んでもらってる」


 こいつに期待したあたしがバカだった。バカな子ほどカワイイっていうけどそれを地で行く親子だな。

 それよりもさあ、いい加減に気づけよ。さっきから左手を見せびらかしているだろう。ほれ、左手薬指に指輪をはめているんだぞ。ほれほれ。早く見ろ。


「うまいうまいバクバク」


 喋っているとき以外は食うだけ。いや、喋っているときも食っている。あたしがここにいる意味ってある? これならあたしの代わりに豚のぬいぐるみを椅子に置いといても同じじゃない。なんでデートに誘ったの。

 また怒りが込み上げてきた。ドスの利いた声で呼び掛ける。


「おい、こっち見ろ!」

「へっ」


 ようやく上げた間抜け面に左こぶしを突き出す。薬指の指輪はあいつの鼻先で輝いているはずだ。


「何かな、これ、えっ、えっ、指輪? しかも左手の、薬指ですとお! ウソ。ど、どーゆーこと。そんなアホな。あり得ない。信じられない。これ何の冗談。え、つまり、お姉さん、もしかして人妻?」


 ふっ、やっと気づいたか。しかもかなり動揺している。言葉がブツ切れじゃないか。手ごたえありだ。さてこれからどうするかな。人妻でいくか、恋人でいくか。結婚生活について尋ねられるとボロが出そうだし、ここは無難に恋人でいくか。


「いえ。独身です。でも恋人はいます。ラブラブです」

「ごさーん! お姉さん、ボクと同じでてっきりおひとり様だと思っていたのに。大誤算!」


 失礼なヤツだな。これでもモテたんだぞ、昔の話だけど。同じおひとり様でも全人生モテないおまえとは全然違うの。


「でも店では指輪なんてはめてなかったじゃない。どうして」

「仕事の邪魔になるので外しているのです。でも今日ははめました。これは彼とあたしの愛の証し。他の男と食事をしていても彼を感じていたいのです。あたしと彼はいつも一緒。あたしと彼の絆は誰にも引き裂けない。そう、たとえそれが血鬼術けっきじゅつで強化されたクモの糸であっても」

「あああー、もうやめて。ノロケ話は聞きたくない!」


 耳を塞いでテーブルに突っ伏した。よし。この作戦は完全に成功だ。これであたしへの執着もなくなるだろう、と油断したのがいけなかった。薬指から指輪が抜け落ちたのだ。


「ヤバイ!」


 慌てて拾い上げはめ直す。実はこの指輪、10年ほど前に購入したもの。しかも右手の中指に合わせたサイズ。恋人募集中のつもりで購入したんだよね。あの頃は食べ歩きが趣味だったから結構太っていた。指も太っていた。だから今の左手薬指にはブカブカなんだよな。指輪はこれしかないから仕方なくはめてきたけど、抜けちゃったか。


「あれ、今、指輪、抜けなかった」

「えっ、そんなことないですよ」


 見られたか。しかし見られたからと言ってどうということもない。作戦は成功したし、そろそろ帰り支度を始めようか、と油断したのがいけなかった。またも指輪が抜け落ちた。しかも今度はしゃぶしゃぶの出汁ツユの中に落ちやがった。


「うへっ!」


 箸で拾い上げたがさすがにこれを指にはめる気にはなれない。


「やっぱり食事中は外しますね。ほほほ」

「ふーん」


 怪訝そうな顔をしている。また良からぬことを考えてなきゃいいんだけど。


 アクシデントがあったとは言っても指輪の効果は実感できた。それ以降、あいつの食べる量は3分の1になり喋る言葉は10分の1になった。あたしにラブラブの恋人がいるという事実は、あいつにとってはかなりの衝撃だったようだ。

 これで明日からは大人しくなるだろう。いや、もうファミレスには来ないかもしれないな。ふう、やっとあいつから解放されるのか。おそ松のハンカチよ、安らかに成仏してくれ(2回目)。高かったんだよなあ、シルクだし。

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