最終話 小さな一歩、大きな存在

 その日はとても良い天気だった。ぽかぽかと暖かな陽が射し、風も穏やかだ。まるで門出を祝ってくれているかの様。


「よいせっと」


 かおるは最後の段ボールを降ろし、せっせと家に運び込む。足元が見えないので玄関でスニーカーを脱ぎ散らし、居間に持って行く。そこにはすでに運び込まれたいくつかの段ボールが積み重なって置かれていた。


 薫は夢のために転職を決めた。そのために引っ越しをすることになったのである。初めてのひとり暮らしだ。


 引っ越しの朝は早い。早起きをして最後の仕上げをすると、荷造りした段ボールをレンタルした軽トラックに家族総出で運び入れ、自家用車と連なって引っ越し先へ。


 薫は軽トラックを運転するのは初めてだったので、車幅などの感覚が掴めずに走り始めは恐々だった。だが走っているうちに交通量も少なくなって来て、どうにか辿り着くことができた。


 引っ越し先の郊外のその平屋の戸建ては、祖母の家である。


 薫は祖母の家でひとり暮らしを始めるのだ。祖母が生前悠々自適に暮らしていたその家で、薫は新たなスタートを切る。


 着いてまずは家中の掃除をした。普段何もしない父と弟も母に教えてもらいながら動いてくれた。止めていたガスも開いてもらい、キッチンで炊事ができる様になった。


 家具はほとんどそのまま使わせてもらうが、電化製品をいくつか買い換えたので、その配達と設置も午前中にしてもらった。


 この機にエアコンも完備した。エアコンを入れなかった祖母だったが、家を建てる時に設置できるようにはしていたのだ。


 転職先は祖母宅から歩いて行ける小さな小料理屋である。


 祖母宅に遊びに行った時、基本的には食事は祖母と母が作ってくれるご馳走なのだが、年末年始やお盆などで連泊になる時には連れて行ってくれた、祖母お気に入りのお店だ。


 居酒屋の様に雑多では無く、少し上品ながらも気楽に落ち着けるお店である。初老のご夫婦が切り盛りしていて、大将、女将さんと呼ばれるおふたりとの会話も楽しめる。


 祖母の入院から行くことも無くなっていたのだが、薫が新たな夢を持って、それを実現するためにはどうしたら良いのかと考えている時に、ふと存在を思い出したのだ。


 週末、薫はさっそく車を走らせて、夜だけ開店する小料理屋のドアを開ける。久しぶりに会う大将と女将さんは薫のことを覚えていて、歓迎してくれた。


「あの時は本当に大変でしたねぇ。お気落ちされてませんか?」


 大将も女将も祖母のお葬式で焼香してくれて、その時にお会いしたのが最後だった。その時は薫たちにも余裕が無く、ろくに話もできなかった。


「ありがとうございます。お陰さんで元気でやってます」


 あれからもう何年も経っているのに、気に掛けてくださることがありがたい。こうした気配りも薫が目指すところだ。


 猫又の世界のお食事処。あそこで薫は今の夢を抱いた。美味しい食事はもちろんのこと、お客さまと店員が織り成す和気藹々わきあいあいとした和やかな雰囲気。それがこのお店と通じていると思うのだ。


 とはいえこういうお店はここだけでは無い。探せばほかにもたくさんあるだろう。それこそ薫の家から行ける範囲にも。


 それでもこの小料理屋を選んだのは、祖母のこと、カガリのことがあるからだった。


 ここにいれば祖母が見守ってくれる、そんな気がしたのだ。祖母も薫が作った簡単なおかずを「美味しいわねぇ」と嬉しそうに食べてくれた。きっと見えぬ遠くで応援してくれるだろう。


 そして母や薫が行った時には必ず来てくれるカガリ。事前に分かるはずが無いので、おそらく毎日来てくれているのだろう。なら空振りにさせたくない。


 猫のお食事処との関わりを断ちたく無いこともある。猫又の世界と薫を繋げているのはカガリである。


 次に行くのは薫が料理人として一人前になってからだと宣言してしまっているので、いつ行くことができるのかは判らない。だがその時までお食事処の存在を身近に感じていたかった。


 そのために薫ができるのは、カガリと会うことだけだった。薫がひとりであの林におもむいてもきっと道は開かれない。カガリの意思があって初めて行くことができるのだ。


 カガリの存在はきっと薫の癒しと力になる。あのお食事処で再び腕を振るうために、理想のお店を持つために、薫は奮闘することができるだろう。


「さてと、じゃあ昼ご飯の準備しよか」


 あとは荷解きだけとなった昼少し前、母がそう言って腰に手をやる。


「ええで母ちゃん、手伝うてもらってるんやから俺が作るで」


 薫が言うと、母は「何言うとんの」と笑う。


「あんたはこれからしばらく母さんの料理食べられんくなるんやから、今のうちに堪能しとき。言うても簡単に炒飯やけどな。あ、それとも一番に台所使いたいか?」


「そんなこだわりはあれへん。じゃあ甘えよかな。でも手伝うで」


「カット野菜使うから大丈夫。あとは卵解して炒めるだけや」


「バーベキューか」


「こういう時のご飯はできるだけ手軽にするねん。外食か出前でもええぐらいや。引っ越し蕎麦は夜やな」


 母がキッチンに行き、薫と父、弟は居間で一息吐く。思い思いに座ってくつろいでいると、縁側から続く庭で何か黒いものががさごそと動く。ひょこっと顔を上げるそれはカガリだった。


「あ」


 薫は顔を嬉しさで輝かせ、四つん這いになって縁側へ。カガリも縁側に上がって来てくれた。カガリに手を伸ばすとちょこんと座っておとなしくそれを受け入れてくれる。


 薫はカガリにしか聞こえないぐらいに声を落とし、ひそひそと話し掛ける。


「カガリ、俺な、今日からここで暮らすねん」


 するとカガリは「にゃっ」と驚いた様に目を丸くする。そしてじわりと目を潤ませた。


「ここで料理人になるための勉強するんや。せやからカガリ、これからは毎日飯あげられるで。昼間は家におるからな。せやから来てくれるか?」


「にゃあ!」


 カガリは嬉しそうに声を上げる。薫は笑顔になってカガリをわしわしと撫でた。


「兄ちゃん、何ぼそぼそ言うてんの」


「うわっ!」


 気付けば弟のゆうが近付いて来ていて、薫は驚いてつい叫んでしまう。


 薫とじゅんが猫又の世界に連れて行ってもらった時には受験生だった優も、今は大学生活を満喫している。


「な、なんでもあらへん。ね、猫可愛らしいなぁ」


 そうひきつる笑顔でごまかすと、優は「そうやねぇ」と気にする風も無くカガリを撫でた。薫はほっと胸を撫で下ろす。


 話していた内容は別に聞かれて困ることは無い。だがカガリは対外的には野良猫で名前も無い。名前を呼んでいるところを聞かれたくなかったのだ。


「よっしゃ猫、飯持って来よか」


 薫が声のトーンを戻して言うと、カガリは「にゃあ」と笑顔で鳴いた。


 その時、キッチンから母の「できたでー」との声が届く。父と優は「よっしゃ」と立ち上がってキッチンへ。


 薫は「ちょっと待っとってな」とカガリを撫でると腰を上げる。キッチンはダイニングにもなっていて、簡単な食事ならそこで摂れる。祖母もひとりの食事だったらそこで食べていた。


 父と母と優はすでに椅子に掛けていて、4人掛けのテーブルの上にはそれぞれの前に、ほかほかと湯気を上げた美味しそうな青ねぎたっぷりの炒飯が置かれていた。


「薫、あんたも早よ座り」


「先食うとって。俺猫に飯やって来る」


「ん、分かった。じゃあ先に食べよか」


 薫は言うとかりかりの用意をする。削り節を買って来ておいたので、それを振り掛けてやる。


 母たちが「いただきます」と言うのを尻目に薫は居間に戻る。縁側で行儀よく待っていたカガリの前にかりかりの皿を置いてやった。


「お待たせや」


 カガリは「にゃっ」と鳴くと、さっそくかりかりを食べ始める。


 薫はそっと口を開く。キッチンに聞こえない様に囁きの様になった。


「今は家族がおるからかりかりやけど、俺だけの時とか、俺と潤だけの時やったら普通の飯やれるから。また食うてくれるか? そんで判断してくれ。俺がまた猫又の世界のお食事処に立てるかどうか」


 カガリはぴくりと身体を震わせ、顔を上げると「にゃあ」と鳴いて力強く大きく頷く。


「俺はまだまだ素人や。けどええ店で修行できることになったんや。いっぱい勉強して、カガリたち猫又にも、もちろん人間にも、旨い言うて食うてくれる飯作りたい。せやからカガリにも応援して欲しいねん」


「にゃあ!」


 カガリはまるで「分かりましたニャ!」と言う様に元気に鳴いた。


「ありがとうな。厳しいかも知れんけど頑張るからな」


 薫がにっと笑ってカガリの首元をくすぐると、カガリは「にゃおん」と心地好さそうに鳴いた。


 数日後には薫の修行が始まる。荷物運びでも掃除でも洗い物でも、なんでもやるつもりだ。最初から包丁を持てるなんて思っていない。それでも夢を叶えるために、一歩一歩進んで行こうと思う。


 薫は気合いを入れる様にぐっと拳を作る。するとカガリが「がんばってくださいニャ!」と言う様に「にゃあん!」と鳴いた。

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猫のお食事処〜猫が連れてきた世界〜 山いい奈 @e---na

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