第12話 明かされる偏執

 夕暮れ時の校舎の屋上で茜色の夕空を眺めていると暖かな軽風が頬をなでる。

 春から夏に移り変わろうとしている時の間に生まれた暖かい風を感じ、私の心も熱を帯びていた。

 けれど、その熱は鬱屈とした不快感を伴っている。

 “私はね、椿さんみたいに話せる勇気はないんだよ”

 自分で言った言葉が反芻する。椿さんは腹を割って私に自分の過去を話してくれた。過去の出来事が原因で音楽に対してトラウマを抱えていたこと。話を聞きながら思っていたことは、彼女のように私も吐露出来たらどれだけ世界が開けて見えるのだろうと。

 私と違って彼女は自分で一歩を踏み出した。

 そんな彼女に私は羨ましいとさえ感じた。だから、私も無謀だと承知していても選曲にクレイドルをやりたいと申し出た。

 結果は散々な有様だったが……。

 椿さんからの提案。

 こんな私のわがままを嫌な顔を一つもせず、どうしてクレイドルに拘る理由も教えなかった私に彼女は知恵を絞って手を差し伸べてくれた。

 けど私の本心は妥協を許してはいなかった。完璧なままに歌いたいと私のみすぼらしいプライドがそう告げている。

 自分のことを醜いと思う。自分自身でさえ受け入れることができない。

 だったら、尚更他人に言えるはずない。私の抱えている秘密。きっと誰にも理解なんてされない。

 誰にも……。

 ああ、ならいっその事この苦しみと共に奈落の底に堕ちてしまいたい。今の私には深く何も存在しない谷底の世界の方が愛おしいと思えた。

「……奏音さん」

 私の名を囁く声が耳朶に届く。その繊細で透明感のある声音は現実感のない幻聴のようだった。呼ばれた方へと向くと夕日に照らされた黒髪の少女が佇んでいた。

 その少女は悲痛な表情で私を見詰めている。そんな顔をさせてしまった原因は私にある。

 せめてもの償いをしたいと思った私は出来る限りの笑顔を向けながら彼女の名を呼んだ。

「……やあ、椿さん」


 一人になって考えたいとは言っていたけれど心配になって私は彼女を探していた。スタジオにも教室も見に行ったがどこにもいなかった。

 学校中を探して最後にここにやってきた。本当はここじゃないかと当たりをつけていたのだけれど……。

 そこは私の秘密を彼女が知るきっかけとなった場所。私にとっては苦い思い出でありそのせいでここに来ることを躊躇っていた。

 生唾を飲み込みドアノブを回す。

 屋上の扉を開けた瞬間、暖かい風が階段に流れ込む。

 そこには手すりにもたれ掛かり晩春を告げる風に黄昏れている奏音さんがいた。私が彼女の名を呼ぶとこちらに振り向いた。

「……やあ、椿さん」

 私の名を呼び、笑みを向ける奏音さん。だがその笑顔を不自然で壊れた人形のようだった。

「今日は部活休みだったよね。まだ学校に用事が?」

「そうではないのだけれど……ごめんなさい、お邪魔だったわよね……」

「そんなことはないよ。悪いね、すぐに答えはでないみたいなんだ」

「やっぱり納得できない?」

 小さく頷くその姿は大病を患った少女のように弱々しかった。

「みんなの親切心を踏みにじるようだけれども。私は……私の中にはどうしても譲れない自分がいるんだ。原曲通りに歌いたい。それが本音だ」

 強い眼差しで見遣る瞳で私に語り掛ける。

「……理由を聞かないのかい?」

 猜疑の念で私を凝っと見詰める。

「それを聞いてしまったらすべてが終わってしまう。そう思ったわ。奏音さんも私と同じように苦しんでいるのならそんな追い詰めるようなことはしたくない」

 以前屋上で私の醜態を見られた時のことを思い出す。何も言わずに保健室に付き添ってくれたし、無理に秘密を話さなくてもいいと助言をくれた。そんな人に秘め事を問うなんてことは出来ない。

「君は本当に優しいね。……ふっ、そうだな」

 奏音さんは泣き笑いのような表情を浮かべ夕空を見上げる。

「椿さんには話してもいいかな」

 悪行から解放される罪人のように安心した顔つきになる。

「話しても大丈夫なの?」

「いいんだ。それに私の方だけ椿さんの秘密を知っているのはフェアじゃないからね」

 私の右手は自然と胸へ寄せられ力強く握り拳を作っていた。身構え彼女の言葉に耳を傾ける。

「もう誰にも、永遠に話すことはないと思っていたことだ」

 そして彼女の懺悔が始まった。

「私は小さい頃から歌うのが好きで……って話は前にもしたと思うけど、師として慕っていた人が居たんだ。お母さんの知り合いで歌手として、作曲家して活躍していた人だ。その人は私に歌の指導をしてくれた。その人は私に歌うことの楽しさを教えてくれた」

「奏音さんにとっての歌の先生?」

「ああ、歌の技術のほとんどは彼女から受け継いだと言ってもいい。そして12歳の時にその人は私のために曲を作ってくれたんだ。その曲のタイトルは……“クレイドル”」

 不意打ちのように彼女はその曲名を告げた。

「そうだったの、あの曲にはそんなことが……」

「興奮したよ。私のことを想って作ってくれた曲。いつか大舞台で歌うことを夢見ていた。中学生になって軽音楽部に入部した。やっとクレイドルを歌えると思った。でも、その願いは叶わなかった」

 悲し気な瞳が閉じ床に視線が落ちる。

「私に……声変わりが訪れた。違和感はすぐに気付いた。元々私の声は高かったからね」

 異性を思わせるような声が彼女を印象付ける証だったからこそ、私にはそのことが信じられなかった。

「段々と私の声が変わっていく。私には……それが耐えられなかった。変わっていく自分の声に焦りを感じて、当時のバンドメンバーにクレイドルをやりたいと申し出た。けど……却下された。今の状態では歌えないだろうという判断だった」

 それは正に今の奏音さんの置かれている状況と同じだった。

「クレイドルを歌える機会を失った。それどころ、バンドメンバーは私の声が低くなることをいいことにそれに見合った曲を演奏したいと言ってきた。私はそれに嫌気を感じ、耐えられなくなって軽音楽部を去った」

 奏音さんの魅力だと思っていたことが彼女自身はそれをコンプレックスだと感じていた。

 私は彼女の元バンドメンバーと同じ加担者だ。私は知らずのうちに彼女を傷つけていたのだ。その事実を知り、掻き毟りたいほど心が乱れた。

「それ以降は誰とも関わらず一人で歌っていた。クレイドルを歌えない私は……私自身の存在を否定されたのも同じだった。でも、クレイドルを歌いたいという気持ちだけは消えなかった。あの人が私のために作った曲。早く歌わなければ……私の声が変わってしまう前に」

「でも、声変わりは……」

「ああ、もうこれ以上は変わらないだろう。わかってる、わかっているんだけど、心が、気持ちの方はまだ納得がいってないんだ」

 震える声。そこで彼女が顔を上げた。その表情に唇を噛みしめる。

 身も心も疲弊した痛ましい顔つきにそれが奏音さんだとは思えなかった。

――ごめんなさい、そんな悲しい顔をさせてしまって……。

「ジャズ研に早い時期に来たのもクレイドルを歌うためだ。先輩たちと関係性を深めれば他の一年生よりも発言力が高い私の意見が通りやすいと思った。そして一回生バンドでクレイドルが選ばれた。……どうだい、最低な人間だろ?」

 自虐的に笑みを作る彼女に私は躊躇なく大きく首を横に振る。

「……嘘はやめてくれ。こんな私に同情なんてしないでくれ」

「同情なんかじゃないわ。私は奏音さんが酷い人間だなんて思わない」

「椿さんが思っているほど私の心の中は綺麗なものではない。どす黒く汚らわしいものだ」

「そんなことない」

 私は奏音さんの傍まで歩み、両手を握る。

「あなた自身はそういう風に思っているかもしれない。でも、私は汚らわしい人だとは微塵も思ってない。自分の願いを叶えるために一生懸命に努力したことなのでしょ。奏音さんのその行動で私や綾野さん、早稀さんが入部して出会えた。みんなと一緒に音を奏でることができたのは奏音さんのおかげなのよ」

「椿さん……」

「あなたは私に出会いや立ち直るきっかけをくれた。そんな人が最低な人間なわけない。だからそんな風に自分のことを卑下しないで」

 私の気持ちが嘘偽りのないことを証明するために奏音さんの両手を強く握る。

「……うん」

 小さく頷くと奏音さんの瞳から一筋の涙が頬を伝い、私よりも強く握り返した。

 彼女の手の温もりを感じていると私の心に何かがこみ上げてくる。

 そして頬に熱いものを感じ、自分も泣いているのだと気付いた。


――明日までには絶対に答えを出す。だから明日の放課後みんなに部室にいてくれるように伝えてくれないか。

 椿さんに伝言を残して私は帰宅し自室のベッドで天井を眺めていた。

 連絡を自分からではなく椿さんに任せてしまったこと。やはり自分は卑劣でろくでもない人間だと自虐的に、自分自身に笑った。

 数時間前の、屋上での彼女との出来事を思い浮かべる。

 自分の想いを吐露しすべてを受け入れてくれた彼女。

 入学したてこの頃、屋上で蹲り震えていた彼女を見て私と同じように傷つき苦しんでいると知った。

 そんな彼女を自分と重ねていたから私は助けようと思った。

 でも、彼女は私と違って自分の秘密を吐露した。人の痛みに感じやすく、繊細で脆い。だが、彼女はそれを受け入れて前へ進もうとした。

 彼女のその姿を見て羨ましいと思い、同時に彼女のように自分の感情を持っていくことが出来ない自分に項垂れた。

 彼女のようになりたい。そんな気持ちからか私は椿さんになら話してもいいのではないかと思い自分の過去を語った。そして彼女はこんな私を受け入れてくれた。

 今まで堰き止められていた感情が流れ出し私の心に安寧が訪れた。

 ここまで穏やかな気持ちになれたのはいつぶりだろうか。これもすべて椿さんのおかげだ。

 彼女は私のことを憧れだと言ってくれた。その彼女の想いを裏切っていいわけない。

 今までクレイドルに固執していた感情を押し殺してでも彼女の想いを叶えてもいい……いや、叶えたい。

 すると、ずっと刺さっていた棘が抜けたように痛みが和らいでいく。

――私は、椿さんの笑顔をもう一度見たい。

 強くそう願い私は椿さんの笑っている姿を夢想しながら眠りについた。


 約束の放課後。私は彼女の指示通りみんなを部室に召集した。

「みんな待たせてしまったね」

 ガチャリと音がして扉が開き奏音さんが現れる。

「奏音ちゃん、最初に確認しておきたいのだけれど、喉の調子はどうなの?」

 年長者らしいはっきりとした口調で過田先輩が問う。

「痛みはほとんどありません。良く効く薬をもらったのであと三日もしたら完治すると思います」

 昨日のように陰のある表情からどこか吹っ切れたような顔つきだった。

「でも、前のように負荷をかけて歌うことはできない、そうよね?」

 奏音さんは無言で首肯する。

「そこで昨日の件について……クレイドルの音程を下げるという案だけれど、椿さんから答えを聞かせてくれると聞いたわ」

「はい、そのことについて話に来ました」

 真っ直ぐな視線で過田先輩を見遣る。

「最初は……やはり納得いきませんでした。オリジナルを尊重して原曲のまま歌いたかった。けど、私の声ではクレイドルは歌えなかった」

 奏音さんはどこか遠くにある、別の空間を眺めているような瞳のまま話を続ける。

「本当は断ろうと思っていました。クレイドルを歌えない私なんかこの世に必要ないんじゃないかって。そんな自分自身に耐えられなかった。でも椿さんが私の話を聞いてくれて、私は自分が一つの考え方にとらわれているのだと知りました」

 綾野さん、早稀さん、過田先輩をしっかりと見まわす。

「椿さんは私に寄り添い道を示してくれました」

 そして朗らかな笑みを私に送る。彼女の告白に胸がジンと震え熱くなる。

「私は……歌います。私はこのメンバーで……みんなでクレイドルを歌いたいんです!」

 真摯なまなざしで宣言した。部室内が一瞬静まり返るも先に声を上げたのは綾野さんだった。

「ほっ、ほんまか!奏音うちらのバンドに残ってくれるんやな!」

 綾野さんの少々過大なリアクションにたじろぎつつもああ、と答える。

「よかったー!ほんまによかったー!」

 綾野さんの歓喜の咆哮にようやく緊張が解け以前のような穏やかな雰囲気に戻った。

――よかった……本当に……。

 私もまた彼女と共に音を奏でられることに喜びと安堵を感じた。ツンツンと私の脇腹を袖で突くのは早稀さんだった。

「……とりあえず一安心だね、椿ちゃん」

 前髪で隠れていても彼女が私に微笑みかけてくれるのがわかり私も笑顔で返す。コホンとわざとらしく咳払いをした過田先輩にみなの注目がいく。

「奏音さんが私たちと一緒に演奏できることは喜ばしいことだけれど、これからみんなでクレイドルの音程の変更について話し合いましょうか。発表会まで時間もあまりないからすぐに始めましょう」

 私たちは間髪入れずはい、と返事した。

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