薄暗い箱の中で、乱暴な少女との会合を果たした。

「あなた、起きてるの?」私はその少女に問いかけた。


「ハーイ」と彼女は言った。薄暗いけど、口元がつりあがってるのが見えた。


「そう、起きてるのね」私はつぶやく。そしてほっとした。ここには私一人だけじゃない。


「なあ、あんた。ここがどこか分かる?」少女はたずねた。ずいぶんと男の子っぽいしゃべり方だ、と私は思う。


「分からない」


「じゃあ、あんた。名前は?」


「分からない」


「どこから来たの?」


「分からない」


 ——分からない。実を言うと、記憶がないのだ。私が誰なのか、私の名前は何なのか、名前とはどういう役割をしているのか、役割とは?


 とにかくあらゆる記憶に雲がかかって、「ちしき」と「ちしき」のつながりをじゃましている。


 覚えてることも確かにあるけど、忘れているのこと方が多い。幸いにも、言葉じたいは分かるし、話せる。けど、どうしてそのことが幸いなのかも分からないし、考えれば考えるほど、つながりのあった記憶がどこかに落ちてしまいそうで怖かった。


「ったく、何も分からないじゃないか」彼女はつばを吐き捨てるように言って(じっさいにつばなどを吐いていてもぜんぜん不思議ではないくらいに)、私の方へ近づいてくる。


「俺っちはユリ」ユリと名乗った少女は、私の目の前まで来ると、あたりに横たわっていた子供たちを、まるで積み重なった雑誌みたいに押して移動させた。人ひとりが座れるくらいのスペースをとって、それから彼女ははあぐらをかいた。私をまっすぐ見ている。


「なんて字を書くの」


「なんでもいいよ。花の百合でも。由緒正しき梨でも」とユリは言う。私には、ユイショ正しきナシの意味が分からなかった。


「なんでもいいの?」


「なんでもいい。だって呼ぶときに、百合で呼んだのか、由梨で呼んだのか、あるいはユリで呼んだのかなんて分からない。今、俺っちがどういう字を当てたか、分かるかい?」


「分からない」


「じゃあ、なんて思われてもいいじゃないか」そう言って、ユリと名乗った少女は親指のつめをいじる。


「そうね」


「でも、あんたは名前すらないもんな」がっかりしたように、ユリと名乗った少女はため息を吐いた。


「名前はある」


「あるのかよ。ならとっとと教えやがれや」


「でも、忘れた」


「そうか。まぁ人間だし、忘れることなんてしょっちゅうあることだ」


「あなたは、名前を憶えているけど、ここがどこかは分からない?」


「ユリだ」そしてユリと名乗った少女は、私の鼻に人差し指をくっつけて、とてもゆっくりと言った。私の頭の中にその言葉はじわりとしみこんでいく。


「ユリ」気づかないうちに私はつぶやいていた。


「そう。俺っちはユリ。さて、ここがどこだかだって? そんなの知らないよ。とりあえずここから移動しないといけないな」とユリは言う。そして立ち上がる。私もあわてて立った。


「どうして?」


「こんな暗くて不気味なところ、居たくないだろうに。俺っちはもう我慢できないぜ」ユリは大きな声で言う。それは私に向けて言っているというより、誰かほかの人にむけて言っている聞こえた。


 ちょうど、その時だった。


 ずしん、という音が空間にひびきわたる。


 そして、音が部屋ぜんたいに染み渡ってから、一切の音がないかんぺきな無音がやってきた。


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