映画「Fukushima50」その欺瞞と不条理

@pip-erekiban

本編

 東日本大震災から十年になる今年の三月十二日、金曜ロードショーで「FUKUSHIMA50」が放送された。

 平成二十三年(二〇一一)三月十一日、東日本大震災に伴って押し寄せた津波が東京電力福島第一原子力発電所を襲い、全電源喪失に陥った同発電所は原子炉の継続的な冷却が不可能となって、未曾有の過酷事故に見舞われる。刻々と東日本壊滅の危機が迫るなか、吉田所長指揮の下、東電社員五十名が決死の覚悟で事故処理にあたり、日本は救われるといったあらすじである。


 まずこの映画を評価するうえで確認しておかねばならないことがある。本作は、福島第一原発事故という現実の事象を土台に作製された純然たるエンターテイメント作品なのか、客観的事実を積み重ねるドキュメンタリー的手法に則って作製された事実重視の作品なのか、という点についてである。

 映画作品とはいえ裁判に発展した事故を取り扱う性質上、客観的事実には相当配意しただろうことは想像に難くない。

 また本作の公式ホームページで

「映画だから語れる、真実の物語」

「全ての人に贈る、真実の物語」

 というキャッチフレーズが附されていることからも、監督や脚本家(以下、一括して映画製作者と表記)が、真実性を標榜して本作を製作したことは前提事実として確定させておかねばなるまい。


 このレビューの狙いは、「Fukushima50」という映画作品を

「真実性を求められ、製作者サイドもその点を標榜した作品である」

 と位置づけたうえで、福島第一原発の津波対策の破綻と吉田所長との関わりを提示し、もって本作を観賞するうえで求められる「あるべき態度」を各自に見出していただこうという点にある。

 一応筆者の責任として結論めいた話は記すが、読者諸氏にあっては筆者の結論に左右されることなく各自にとって最適のスタンスを見出していただければ幸甚である。


  *  *  *


 東電旧経営陣の刑事責任(業務上過失致死傷罪)を問う裁判で争われたのが、

「津波は予見できず、過酷事故は回避できなかったのか」

 という、津波の襲来及び原発事故の予見可能性並びに回避可能性であった。

 事故に先立つ平成二十年(二〇〇八)、国が設置した地震調査研究推進本部(以下、推本)が「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」(以下、長期評価)で、福島第一原発に最大十五・七メートルの津波が押し寄せる危険性を指摘している。これは東京電力の従来想定を遙かに上回る高さであった。

 東京電力は、この「長期評価」で示された高さの津波対策を遷延させ、結局福島第一原発は過酷事故に見舞われている(因みに東電は対策をまったくとらなかったわけではなく、平成二十八年(二〇一六)まで引き延ばしただけである。このことは、東電が「長期評価」で想定された規模の津波を予見して、一応対策を検討していたことを示しており、予見可能性を期待できる情況証拠に他ならなかったはずなのだが、裁判では「予見可能性はなかった」と認定され、結局無罪判決が下っている)。


 この「長期評価」で示された津波予想を東電が事実上黙殺した件は、事故後の早い段階から問題視されていた。

「長期評価」が示された平成二十年当時、吉田所長は東電の原子力設備管理部長というポストにあり、東電経営幹部の一人として「津波想定潰し」に奔走した一人だった。

 事故調査委員会の聞き取り調査でそのことを訊ねられた吉田所長は「津波想定潰し」について弁明している。

 要約すると、「長期評価」が示した十メートルオーダーの津波の波源を福島県沖に持ってくる推本の提言には根拠がなく、そんなデータのために莫大な対策費はかけられないという話である(平成二十三年十一月三十日付「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会事務局局員松本朗作成にかかる聴取報告書」)。


 しかし結果は知ってのとおりとなった。


 報告書からは

瑕疵かしのある決定に関わった責任や不名誉を追及されたくない」

 という氏の本音が透けて見える。

 建前上自分の責任を認めるわけにはいかなかったが、いろいろと指摘される心当たりはあったということだろう。


 福島第一原発事故を巡る物語性は至ってシンプルだ。

 即ち

「津波想定を潰した企業が、その報いを受けて事故終息にひどく苦労した」

 という因果応報譚である。

 その付帯事項は

「主に危険な任務に従事したのは、プラントで勤務する地元住民だった」

 というとんでもない不条理だった(因みに伊崎当直長(佐藤浩市)は東電社員であり被災者でもあったが、被災者が被災者に詫びている、詫びなければならないような気持ちにさせられている図は、本作中でも際立ってグロテスクなシーンである)。

 美談で終わらせて良い話では断じてない。


 一般に特別攻撃の発案者とされる大西瀧治郎海軍中将は、特攻を指して「統帥の外道」と自嘲したと伝わる。いかさま、上層部に対しては無抵抗の兵士に、戦死を前提とした任務を押し付けたのだから外道の仕業に違いない。

 しかも実質的には命令だったのに建前上は志願とされた。愛国心に訴えて、志願しなければならないような空気を作り出し、組織の末端に位置する兵卒を無理やり過酷な任務に駆り立てたのである。


 福島第一原発事故の初動対応で繰り広げられたのも同じ光景だった。

 郷土愛に駆り立てられた、主に地元住民からなる従業員が、事故を招いた会社幹部の指揮の下、死ぬかもしれない現場で半ば強制的に働かされた、謂わば「特攻」であった。


「俺たちが逃げ出したら故郷はどうなる」

 という台詞は勇敢ではあったが、一方でその労働が、逃げ出すことが許されない、強制性を帯びたものだったことをも示唆している。

 そしてこのような死と隣り合わせの労働が強制された背景(津波想定潰し)は劇中明言されず、わずかに吉田所長の手紙の朗読でほのめかされたに過ぎない(「俺たちは自然をなめてたんだ。十メートル以上の津波は来ないと信じていた」)。

 劇中際立っていた、主人公等の英雄性ほどには、任務の不条理性には言及されなかったのである。


 作品でなにを描き、なにを描かないかはまったく映画製作者の自由ではあるが、「描かれなかった事実が重すぎる」という点において、この映画は、「真実の物語」を標榜できるほど公平に出来ていないことだけは明言しておかねばなるまい。 


 前述のとおり、東電旧経営陣の刑事裁判では無罪判決が下っている。納得していない向きはさぞ多かろう。

 この上さらに映画のような創作物が、津波想定を潰した東電経営幹部吉田昌郎氏を、情緒面でも免責する空気を上塗りして、いったい何の意味があるのだろう。

「映画だから語れる、真実の物語」

 を標榜するからには、しがらみに囚われない真実をクローズアップもらいたかったものである。

 特攻隊員の心情描写に力点を置くあまり、外道的作戦を主導した個人或いは組織の責任に目を向けず、結果的に外道の免責に寄与しているクソ作品は世に多いが、本作もその類いといえよう。


 この作品を観賞するに当たっては、映画製作者が標榜する「真実の物語」というキャッチフレーズはきれいさっぱり忘れることをお勧めする。そのうえで、実際に起こった事故をモデルに、エンターテイメント性にごくりした作品として観賞する姿勢が、精神衛生上好ましい態度のように思われる。

 以上が私のたどり着いた境地である。


               (おわり)

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