第9話

 ラクトはリビングに戻ると、偉そうに青いソファへ座る。まるで我が家のように寛ぎっぷりだ。


「で、どう思う?」


 テーブルの上に湯沸かし器とインスタントラーメンを準備しているグリアへ向けて問いかける。

 主語の抜けた言葉であるが、彼が何を聞きたいのかはグリアにもすぐに分かったので、真剣な眼差しを向けた。


「儂の事をグリア先生と敬意を込めて呼ぶあの子が悪魔なわけがない」

「おい、俺は今自分で言うのもなんだが、非常に珍しく真面目な話をしてるんだ。頼むから子供みたいなこと言わないでくれよ」


 はっきりと述べた自分の意見を一蹴され僅かに不満顔が出るが、確かに今のは自分が悪いと思い、もう一度答えなおす。


「……まあ、異常じゃな。悪魔の気配は未だに感じられんが、少なくとも何らかの形で干渉を受けていると見るべきじゃろう。でなければあの立ち直りの早さは考えにくい」

「だよなぁ……てことはやっぱ今回の件って……」

「決めつけるのはまだ早いぞ。とにかく様子を見ながら調査するべきじゃ。警察には明日にでも儂の方から伝えておこう。どのグループが動くか、それ次第で対応もだいぶ変わって来るからの」

「だな」


 今後の方針を話し合った二人は、ほぼ同時に立ち上がる。  


「よっし、じゃあ話も纏まったことだし、俺も風呂入って来るかな」

「おおそうか。では儂は……」


 グリアは白衣の内側から注射器を取り出すと、目にも止まらぬ速度で投げる。

 寸分違わず飛んで来たそれを、ラクトは慌てて避けた。タタタッ、と小気味いいリズムで壁に刺さった注射針から怪しい黒い液体が漏れ出す。それに見覚えがあるのか、ラクトの額から汗が一滴流れ落ちる。


「それを邪魔させてもらおうか。儂の目が黒いうちは絶対に行かせん」

「アンタの目は緑色だがな」


 そう突っ込みつつ、油断なく相手の隙を探す。が、両手にメスを構えて洗面所の前に立ち塞がるグリアは歴戦の強者。かつては誰も手が付けられないほど凶悪なグループだった自分達を叩きのめし、屈服させた実力は決して衰えていないことを悟る。


「どうしても邪魔をするのか? 俺はアンタに手を出したくねえ。ただそこを通してくれれば、それだけでいいんだ。その先にある理想郷を一目見る、そんな小さな願いさえアンタは邪魔するっていうのか!」


 珍しく声を上げるラクトに対し、グリアは首を横に振る。


「己の理想に溺れればその先にあるのは絶望だけじゃよ、坊主。お主はまだまだ若い。何もこんなところで悪魔に再び餌を与えてやる必要もあるまいて。何度も勝てるほど、悪魔の誘惑は甘いものではないぞ」

「悪魔になる覚悟もないやつが悪魔に魅入られると思ってんのか? 俺達ニードって言うのは皆どこか破綻してるやつの集まりだ。今更絶望を恐れて前に進むのを止めるやつはどこにもいねえよ!」


 その目はまさしく破綻者の笑みだった。そんな彼をグリアは悲しそうに目を伏せ、再び説得を試みる。


「確かにお主の言う通り、悪魔の力を奪い取って生き延びた我々は破綻者なのじゃろうな。じゃが儂は信じておる。破綻した心も取り戻す事が出来るのだと。そのために儂は医者となり多くのニード達を救おうと決めたのじゃ」

「グリア……アンタは本当に立派だよ。だけど皆が皆アンタみたいに強い心の持ち主じゃない。一度悪魔に勝った後すぐ、目の前の小さな誘惑に耐え切れず滅んできた奴らを俺は沢山見てきた」

「ならなぜ進もうというのじゃ? お主だって本当はわかっておるのじゃろう、自分が行おうとしていることが如何に愚かなことなのかということを」

「知ってて、それでも止まれないんだ! ははは、もしかしたら俺にも人間の心なんてものがあって、それが止まるなって言ってるのかもな……」


 自虐気味にそう呟くラクトの顔はいつもある余裕の欠片もなかった。対するグリアはそんな息子のように育ててきた彼が、こんなに思い詰めていることに心を痛める。


「もしそうなら、儂は喜ぶと同時にそんなお主を止めねばならん事に悲しまなければいかんな」

「やっぱり……駄目か?」

「儂にも、守らなければならない約束があるからの」

「そうか……なら俺はアンタを超える! 超えて、その先にある理想郷を覗いて見せる!」

「儂を超える……か。随分と大きく出たな小僧。超えられるものなら、超えてみろ!」

 ニードや悪魔憑きだけが持つとされる力の根源――魔気が二人の体から薄く漏れ出す。


 黒い魔気に覆われたラクトと青い魔気に覆われたグリア。

 この状態こそ、ニードや悪魔憑きが人間に打倒できない要因となる。素の状態でも銃を通さない肉体と超人的な身体能力が、魔気を纏うことで更に飛躍するのだ。


「行くぜ!」

「行くぜ! じゃないわぁぁ! お風呂の中まで全部聞こえてるのよこの大馬鹿者ぉぉぉ!」


 勢い良く扉を開いたレオナが、大声で叫びながらラクト目がけてバスタオルを投げつける。顔に飛んできたそれは避ける間もなく、見事に巻き付いた。

 バスタオルを取ろうと両手で持った瞬間、ラクトの手が止まる。思った以上にいい匂いがすることに気付いたのだ。

 それはそうだろう、このタオルはつい先ほどまで彼女が髪を、そして体を拭いたタオルなのだ。それに気付いた以上、安易にタオルを手放すという選択肢がなくなった。全力でその匂いを嗅ぐことに専念する。 


「ナイスバスタオル! ふんふん、このフローラルな香りに仄かに混ざるこれがレオナの匂い……」

「へ、変態! やめ……ちょっと! それ返しなさいよ!」


 思わぬ反撃にレオナは顔を真っ赤にしながらタオルを取り返そうとするが、元々の身長差もあって高く持ち上げられたタオルに手が届かない。


「残念だがこれはもう俺の物だ。絶対に返さないと宣言しておこう」

「残念じゃがそれは儂の家のタオルでの。絶対に返してもらうと宣言しておこう」

「おぶっ!」


 匂いを嗅ぐことに夢中になっていたラクトは、背後に回り込んでいたグリアの存在に気付かず、凶悪な一撃によって地面に叩き付けられる。

 変態の手を離れ、勢いよく舞ったバスタオルをレオナがキャッチすると、もう絶対に渡さないという風に両手で抱きしめた。


「まったくお主は相変わらず女の敵じゃのぉ。少しは相手の気持ちを考えんか」

「いてててて。ひっでえな、今のは不可抗力だろ」

「一片の余地もなく確信犯よ!」

「ま、そういうことじゃな。ほれ、もう通してやるからさっさと風呂入ってこんか」

「へいへいっと……へえ」


 女性陣二人分の冷たい視線を受け流石に分が悪いと判断したラクトは、しぶしぶ風呂場に向かう。その途中、湯上りのレオナをマジマジと見つめてしまう。

 乾き切っていない髪の毛に高潮した頬、それに寝間着代わりに渡された赤色の浴衣を着込むレオナは、未成熟な体でありながら恐ろしいほど色気があった。最初に出会ったときはすでに髪の毛も乱れ多少埃に塗れていた為気付かなかったが、こうして見るとそうお目にかかれないレベルの美少女だ。


「な、なによ……」

「いやぁ、その鎖骨のラインが妙に色っぽい」

「――っ!」


 慌てて両手で浴衣の襟を掴んで引き寄せる形で鎖骨を隠す。あまりに勢いよくしたため今度は雪のように白い太腿がチラリと姿を現すが、レオナは気付かなかった。

 もちろん、そんなサービスシーンを見逃すラクトではなく、一瞬で網膜に焼き付ける。


「う、ぅぅ……」


 レオナは恥ずかしさのあまり涙目で不満をぶつけるが、当然そんなもので視線を逸らす男ではない。堂々と見つめながら、一つ疑問を覚える。


「っていうかなんで浴衣?」

「そやつに合う寝間着がそれしかなかったのじゃ。儂のではサイズが違い過ぎてどうもな」

「ああ。じゃあそれ、誰かが置きっぱなしにしてるやつか」

「うむ。お主もそうじゃが皆服やら歯ブラシやらを勝手に置いていくからの。まあ借りるくらいで文句も言わんじゃろ」

「まさかグリア、俺の歯ブラシ勝手に使ってないよな?」

「使うか! ほれさっさと風呂入らんか。レオナもカップ麺を用意してやったから、それ食べたらもう寝てしまえ。お主が気になっているであろう話は明日してやるからの」


 まるで母親のように指示を出すグリアに圧倒されつつ、レオナは動き出す。見るとひねくれ者のラクトでさえ、反抗せずに素直に洗面所に入っていった。

 しかし今日はなんて日なんだろう、とレオナは内心で思う。

 普通に学校で授業を受けて、放課後一人で帰っていると急に拉致されて、犯罪者達の街へと追いやられ、ニードなんてとんでも人間に驚かされて、やっと帰ってきたと思えば家族は殺されていて。 

 聞きたいことやこれからの事に不安が残るが、それも全部明日話してくれるらしい。だとしても直面の問題として、これだけは聞いておかなければならないと思い、意を決して問う。


「ねえグリア先生」

「ん、なんじゃ?」

「カップ麺ってさ、どうやって食べるの?」


 あれだけ自分に優しかった彼女が口を開いて唖然とした表情するのだから、相当トンチンカンな質問をしたんだなと思い至って、レオナはこの質問したことを後悔した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る